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茄子のうし
真夏日 は、食傷気味で どどどどど……、と 実体のない雷の音ばかりが 夕方の薄暗がりの中を這う の、けだるげな雲の流れは遅く のっぺりとした空は 吐き出しきれずに つぶれてしまいそうで怖い 湿気の多い空気は 錯覚してしまう の、鈍い音は 台所でスポンジが くすんだシンクに落ちる音 「ほら、そこ」 と、指さしてみれば 人の温もりにも似た 半透明な夏の眩暈 真四角の田園は青々と 青々と、土砂降りの中に 走る光線 が、重い空気を裂いては塞ぎ 向こう側の家々の小ささは 玩具屋に並ぶ偽物よりも悲しい の、音はとおく 遠くなる夕立に紛れて あなたは帰ってゆく 茄子のうしの背にのって
茄子のうし ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 920.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-03-02
コメント日時 2017-03-15
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
タイトルはおそらく精霊馬のことであり、そうならばこの詩は死者について語られているのでありましょうか。精霊馬といえばナスとキュウリですが、あのねのねのは「みかんの心ぼし」という歌の中で「なすがままという言葉があるのに、どうしてキュウリがパパという言葉がないのか」と嘆いておりました。これもまた不思議であると同時にどうでもいい話です。 この詩は基本的に重い。仮に私の予想通り死者について語られているのであれば、それは当然と言えます。「台所でスポンジがくすんだシンクに落ちる音」なんて、あまりの生活感の重さに押し潰されそうです。語り手は、それを死者(かつての恋人?)が帰宅した音であると(ほんの一瞬だけ)錯覚したもかも知れません。リアリティーを失った家々のように、すでに実体を持たない「あなた」が遠ざかる雷と共にあの世へと戻っていく。本来、精霊馬のキュウリは「あの世から早く家に戻ってくるように」、ナスは「あの世へ帰るのが遅くなるように」という願いが込められていますが、この詩において死者は雷の音のようにゆっくりとやってきて、稲光のように素早く帰ってしまう。何とも切ない詩だと思います。
0改行の頭に助詞を持ってくる、このイレギュラーによって、語りのリズムを作りだすと共に、「真夏日」とか、「どどどどど……、と/実体のない雷の音ばかりが/夕方の薄暗がりの中を這う」とカッコに入れて、それを外側から語る、という構造が生まれる。 マグリットの絵に、風景の前にカンバスを置いて、つながっているように見える光景を描いたものがあるけれども・・・このカンバスをどかしたら、向こうには全然違うものがあるかもしれないし、カンバスに描かれたままの風景が広がっているかもしれないし・・・というクリアーな不思議さのようなものを感じる絵なのですが・・・〈けだるげな雲の流れは遅く のっぺりとした空は 吐き出しきれずに つぶれてしまいそうで怖い〉 これがもともと描かれている風景で、その中に 〈実体のない雷の音ばかりが 夕方の薄暗がりの中を這う〉 が置かれている感じ、と言えば伝わるでしょうか。 〈人の温もりにも似た 半透明な夏の眩暈〉 ここに、居たはずの人が、戻ってきてくれたはず、なのに、またいなくなってしまった、というような二重の喪失感が現れているように思います。 青田の風景の中に、雷が落ちる、不穏な状況なのに、その不穏さこそが、亡き人が戻ってきてくれたという「体感」を呼び覚ます、ある種の超常現象であるのかもしれない。 重苦しい湿度と濃密な黒雲、突然の雷雨・・・その「非常」と共に死者が訪れ、また還って行くという出来事が起こり、それを実際に体験した語り手が語っているような、そんなリアルさがありました。
0もとこさん 推察通り、この詩は夏のお盆の時期のことを思いながらかきました。8月に入ると、雷はたくさん鳴ります。けれども光のない時も多く音だけ聞こえるときは寂しく、苦しく聞こえて、それが見えない来訪者の哀切に聞こえるような錯覚をしました。 クヮン・アイ・ユウさん 雨雲はとても重たくて、いつもその自重に潰されてしまわないのか心配になります。向こう側の家々は、特急からみた景色を思いながら書きました。窓の向こうで流れていく様子が本物には見えなくて、でも偽物でもないから、形取ることのできない悲しさを感じました。 まりもさん 夏は、それだけでももう非常な季節のように感じています。そこに雷という普段あまりみない現象が起こると、他のところとの繋がりが一瞬発生してしまうような、気がしました。 ーーーーーーーーーー あまり上手く言えなくてすいません。コメントとても嬉しいです。勉強になります。ありがとうございます。
0写真みたいな詩で、いい感じに情景が見えます。一連目の提示から、二連目の展開と余韻(が特にいいですね。)、とてもいい。 >「ほら、そこ」 >と、指さしてみれば >人の温もりにも似た >半透明な夏の眩暈 綺麗。余韻があります。だから三連目のオチが今一。勿論タイトルに表したオチをちゃんと遂行しているという意味では好感があるのですけど、最初からオチが確定しているという意味で、予想の範疇に収まってしまった感じがします。タイトルが更に最終連で飛躍して、天に昇っていくもしくは、それ以上の何かがあったら最高だなとちょっともったいない感じがしました。これは、僕の考えですが映像的が一段階繰り上がると、幻想的な物になると思うんですよ。
0読者諸氏のなかで、アフリカで雷に遭遇した経験を御持ちの方はいらっしゃるでしょうか。エチオピアで体感する遠雷と、日本の家屋のなかで猫と微睡みながら耳にする遠雷は大きく違う。日本人にとって遠雷は、夏の夕立ちのように心地よいものだったりするけれども、大陸できく雷は、まさしく「雷鳴」。本作『茄子のうし』の雷の音は、遠くで飛んでいるヘリコプターの音のように眩暈なんだ。 kikunaeさん、投稿有難う御座います。
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