詩とは言語の自明性に逸れた、病である。
狂気とはその言語秩序に論理矛盾を抱えた存在の様態を示す概念である。
論理矛盾とは
常に正確でなければならない理知、社会に破壊と損失を齎す、誤ちであり、偽りの知性である。
つまり
論理矛盾とは狂気の所産である。
狂人は社会に存在を置いてはならない。
従って私は死ななければならない。
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わかっちゃったから、言うよ。
社会にはその制度を破壊する者と、維持しようとする二種類の人間がいるんだ。
きみは何方だろう。
僕はね、復讐の依代なんだ。
現実は、社会は決して逸脱する者を許さない。
だから僕は決めたんだ、社会が僕を許さないように、僕は社会を絶対に許さない、って。
きっと現実を破壊してみせるよ、それが僕の存在理由なんだ。
壊れるまで、壊してみせてあげるよ。
作品データ
コメント数 : 13
P V 数 : 1628.2
お気に入り数: 0
投票数 : 3
ポイント数 : 4
作成日時 2022-01-05
コメント日時 2022-01-12
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合ポイント | 4 | 4 |
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叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合 | 4 | 4 |
閲覧指数:1628.2
2024/11/21 19時56分28秒現在
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うーん。過激ですね。 私だったら、もっと平和主義に考えます。 ビーレビューは、楽しんでこそかなと思います。 何を書いてるのか難しくてちゃんと言えているのか分かりませんが、とりあえず、一緒に踊りましょう。
0レスポンスを賜り、ありがとうございます。 私にとって詩とは苦役である、という事が詳らかに分かりました。 喩えではございますが。生殺与奪の場に在っていかに上手く立ち回れるか。それを舞踏と呼ぶならば、わたしは落第生であることも、また。 また、機会がございましたなら。 それでは、いつか。
1いつか、では無く、今一緒に踊りたいです。 よろしくお願いいたします^_^
1ありがとう、ございます。
1>従って私は死ななければならない。 社会の中で死ぬよりは、山奥でひっそりと生きながらえたいかな。
0言葉の危うさ。面白半分で言葉を振り回すと痛い目に遭うぞ、こんなんなるぞ、といった警鐘を鳴らした詩なのかなと。後半部分は末期の様態ですね。経験者は語る、と言ったら失礼なのかな。でも作者の優しさを感じる。こうなるぞ、いいのか? という。失礼を承知で申し上げますと、あのYouTubeの動画を思い出しました。海外ドキュメントですね、イキっている不良達に刑務所の見学をさせ、囚人達が不良達を台本通りに怖がらせる、というのを。不躾ながら連想いたしました。 シニフィエとシニフィアンの関係を壊す作業ばかり続けていると、精神的にかなり不味くなります。自我がいかに意味に支えられていたかを思い知らされます。鏡に向かって「お前は誰だ」と繰り返すと気が狂ってしまう感覚に似ているのかもしれません。俺は俺、とシンプルに答えられるように、花は花であり、海は海であり、月は月である、と普通に書くことの大切さ。正常性。正常性を揺さぶられるのを、感動としているのかもしれません。でもその感動は実は不安定な橋の上でドキドキする感情を、恋心と認識して同行者を好きになるのと類似しているのかもしれないとも。
0詩は断絶を表現するには最も適した手法ではなかろうかと私は探究するのですが、その観点からすれば、本作から私が読み解く死との距離感は特定の人々に安堵を与えるものに思えます。死の概念はどこまで語ろうとも定義を導き出すことは叶わず、ただただ社会やら世界やらとの距離を知るに止まる。 本作には作者が持つバックボーンが、過去作品より直裁に書かれていて、興味深い印象になった作品です。
0レスポンスを賜り、嬉しく存じます。 そうですね。孤独に耐え得るならば。其方の方が、とても好い、選択であると思われます。
0閲覧を賜り、心より嬉しく存じます。 確か、風姿花伝にも書かれておりました、と記憶をいたしておりますが。 狂女、怨霊を演じ、立居振る舞いを為すは最も難しいことである、と。拙作に於きましても余り上手くは振舞えませんでしたが。 下記は、持論でございます。 人の作り為した物語とは、事象そのものを完全に客体化出来ぬ、精神の綾、事情に拠って象られる物でございますから。 凡そがフィクションであるとも言えましょう、然し言語と行為を合致せしめんとする、人間論理、つまり合理性という観点から眺めますなら、全てがノンフィクションとも呼び得るとも。 その匙加減は畢竟、読者‐作者間の信頼関係、感受性の傾向に委ねられるものであるとも、言えましょう。 聊か直截に提起致しますなら、完全なフィクション、完全なノンフィクションと呼ぶべきものは存在せず、 作品とは脚色や、現実社会の影響の波間に漂う物の名残の如く在るものとも申せましょう。 しかしその目的は、鎮魂であり、慰めでなければならないのでしょう。 何者もがより刺激を求め、極端に走る世相に在る、と存じます。然し、日本人は余り、その様な表現には向いていないのでは、とも。 心の機微や趣深さ、慎ましさやいじらしさ、折節の花の色に感じ入るような心向きを、いつもどこかでは、忘れたくはないものです、ね。
0確固とした批評を、拝読させて頂き、嬉しく存じます。 死の概念、難しいものでございますね。肉体の死は勿論、社会的な死や精神の死、医学的死や思想、想像の死。 科学技術の発展に伴い、隠蔽された普遍の帰結としての死が、コロナ禍の後押しを受け顕在化しているのかも知れません。 勝手な偏見ではございますが。 現代詩は毒であり、劇薬であり、皆殺しであると、思っております。たしかにそれらは人間や、その生存の意味、或は優先されるべきは個人か全体か、と言った、 極限の問題を取扱うに適した表現手段であると。 然し殺すか殺されるか、その様な判断基準や、一か八か、の精神では。到底読者と作者間に、育まれるものは何もないのでは、と無駄にも、憂いております。 無駄や隙間、余白にこそ心愉しいものを見付けた様な心境でもございますが。
0この非現実的主観的な「論理矛盾」が、四字熟語であり、成熟されている、一個である、形について、そう思う。 また熟語が今日の記念写真のようになっていて筆者一日、内部世界を乗せながら、コーティングの工程を探している。 急いでも急いでも、他人のノートを他意もなくぼさっと眺めているような、平和な「私」たち。 一方外部とは、現実的に存在している。どのように、存在しているかというと「優しさ」を幾つ知っているか、 という繋がりである。 そう思うと、書いていない詩への感想が富士山のようにある。そう思える。 云いたいのは、これくらいの誤差がある、存在しているという驚きだ。つまり未知ななにかに助けられながら、 働き手を支え、自分の順番を待って居る。結局忘れてはならない何となく意識しておかないと、と思う内部世界の数を、 思い出せてほっとしました。また、推薦文も書かせて頂きます。
0「成熟されている」、「一個である」、「形について」
0ご閲覧を賜り、嬉しく存じます。 一期一会、という言葉を憶え、思い出しております。 比喩でも暗示でもなく、現実に。今、書き込んでおります、このパソコンは、停止をしそうな状態に在りまして、辛うじて動作を致しております。 私は、スマートフォンも持っておりませんから。この場、この時に、てんま様の言葉と触れ合えますことは、実に恵まれた、僥倖である、と思えるのです。 つまり 社会と言うシステムにも、偶然という御目溢しが在り、 その恩恵に、助けられ、支えられている、と自然にも、思われるのです。 それも外部という、優しさがあるからこそであり、 社会も、他者も、捨てたものではない、と、改めて思わせて下さった、この機会に、感謝の念も一入なのでございます。 心から、ありがとうございます。
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