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信頼
教授と僕は電車に乗っていた 「君は翻訳をやりたいのか」 「いえ、どちらかと言うと、創作を」 「うん、創作はちょっと難しい」 僕はその時大学一年生だった 一人暮らしを始めて最初の冬を迎えようとしていた 専攻は二年になる時に分かれることになっていた 中学生の時からドイツ文学をやりたいと思っていた 教授は一般教養のうち社会学の講義を担当していた 僕は三人しかいない受講生の中の一人だった 不真面目な僕もこの講義に欠席したのは一度か二度だったと思う 講義をおもしろいと感じていたのと、休むと教授に悪い気がするのと、 両方あったと思う 「作家は怖いって言うねえ、書かれちゃうから、 ちょっと変えて書けばいいんだが、 それでも本人には分かるって言うね、 丸山先生はあれに書かれたって言ってたな、武田泰淳に」 ゆっくりと静かに確実に話をする教授だった それは教壇にいても隣の吊り革を握って立っていても変わらなかった 僕はこの教授から僕に合った形質の学問の香りを嗅ぎ取っていたのだと思う つまり社会学だけではなく広く人文学的な方面に通じていることが好きだった 文学なんて、偏見の多い分野であるのに 講義に教科書として使用した書物は次のもの 福沢諭吉の『文明論之概略』、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』 加えて夏休み中に読んでおくものとして マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』と『職業としての学問』 これらの書物を読んでおくことは常識になっていると教授は言った 僕の知らなかった、そして他の誰も教えてくれなかった常識であった 僕には他のどの講義の課題にも増して これらの書物を読むことに強制力が働いた 或る日の講義では教授はこう言った 「英語が大事だって言ってもね、本当に大事なのは日本語なんですよ」 また或る日の講義ではこうも言った 「孫がかわいいかわいいって言ってもね、 本当は自分の子が一番かわいいんですよ」 また或る日の講義ではこんな新奇なことを述べた 「学問というのはね、雰囲気で決まってくるものでね、 図書館の旧館にでも行ってみてごらん」 人の言うことをあまり聞かない僕であったが このアドバイスには素直に従った 大学案内の表紙などには必ずそのファサードの写真が載る図書館旧館 だけどその中に入ったことのある学生はほとんどいないと思う この遺跡の内部は薄暗く涼しくて、細く狭い階段がやたら多かった 図書館と言うよりは書斎と言った方がいいような感じで 各階にある席の数は指で数えられるほどしかなかった 書架と蔵書だけが所狭しと多かったが、利用されるためのものではなく ただ保存するためのものであるようだった 僕は古い木製の机につき、何か書物を読み始めたが続かなかった 落ち着かず、小さな窓から差し込む光を見ていた 僕は教授の夢の中に、思い出の中にいたのだった そして確かに教授の言うことも分かる気がした 雰囲気は人間を包み、人間を何かをさせるように動かすもの それがなくては人間が未来に展望を描けないもの 「君は翻訳をやりたいのか」 何かをプロとしてやるということ、 こういう発想はそれまでの僕には明確にはなかった 人は何かをやることを選ばなければならないということ このことを、遅れている僕に初めて語りかけて知らせてくれた人 それがこの教授であった 歳月が流れた今になって思う 僕はあの人気のない教授を信頼していたのだろう 自分ではそれがあるとは気づきにくい淡く隠れた信頼、 地球上の人が水に寄せている信頼にも似た信頼を
信頼 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1017.5
お気に入り数: 4
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2021-09-28
コメント日時 2021-09-29
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
詩、として優れているかなどはわたし如きにはわからないが、語り手の語る教授への信頼は対話と衒いのない語り口から感じるものがありました。
1コメントありがとうございます。 確かに詩としてはどう見られるかという心配があります。ここではただひたすら内容的なことを言い落とさずに書き記すという態度を取りました。書き記したことが無意味ではないことを願うのみです。
0水、という、身の回りに当たり前に存在するものだが必要不可欠なものに教授を比喩することで、語り手の教授に対する思いの解像度が増してとても良いですね。 「僕に合った形質」という表現で、語り手は過去にこんなに自主的に学びたいと思うことがなかったと考えると、今になって教授が語り手に与えてくれたものに気づくことが、とても惜しく、切なく感じました。 詩というか、短編小説のように楽しませてもらいましたが、図書館の年季の表現が、ノスタルジックな雰囲気に仕上がっていて、語り手の過去の回想という点でマッチしていて詩的だなぁと感じました。
1「先に生きる」と書いて先生という言葉であるわけですが、 この作品で描写されている教授は、 先に生きて経験したこと、感動、形成した価値観を表現する、 まさに「僕」にとっての先生であったわけですね。 自分にとって、水に寄せるように信頼できた先生がいたかな、 と考えさせられました。
1丁寧にお読み下さりありがとうございます。 この作では、私の青春の大切な一幕を書きました。ここに書き出したことの他にはもうこの教授について語ることはほとんどないのですが、今になっても年々この教授のことは色褪せるのとは反対に色彩を深め、より強烈な思い出になってゆくばかりです。それに感謝の気持ちも。友人にも何度か語って聞かせています。 誰しも人生を歩めば歩むだけ、思い出というものは増えてゆきます。私は人生のいつの時点でも語るべきことを尽きさせないでいるでしょう。「お前ってノスタルジックだなぁ」と、からかわれたこともありますね。でも前進していますよ。
0お読み下さりありがとうございます。 誰の心にも「先生」がいるはずです。弱い子どもの時から今に至るまで、一人で成長してきたのではないのが普通です。思い出をひもとけば、自分に何かを教えた言葉や行動を与えてくれた人がいるものです。 ここで考えてみると、人間も弱いものですね。みんな支え合って! きれい事ではなく。水は何でもあまねく潤してくれるものです。(暴れることもありますが)
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