サードからファーストへの送球は
いつ見てもちょっと美しい
あのように俊敏で長く速くまっすぐな何かを
持っていたい
でも僕は、実際に野球をすることは苦手だ
おもしろいと感じるところがなく
球を捕る気も打つ気も起こらないで
球が自分のところへ来るのを恐れている
当然監督にいつも怒鳴られる
その監督は父の同僚だ
本屋が一軒もない町だ
文房具屋も一軒もない町だ
楽器屋も一軒もない町だ
野球だけが文化である
この町に僕は本当の意味で住んでいない
心は朦朧として孤独な夢を見ている
ゲームの最中にさえ
僕は野球ができない
野球をしなくていい余所の町の子が羨ましい
この町の人には
僕は生きてゆくのが難しいだろうと思われている
野球のルールを知らないし
無気力で人の意思を聞けないようだし
黙契に信を置くこともできていなさそうだから
そんな僕であるが
そして自分では投げられないが
サードからファーストへ球が飛行するのには
美しさを感じ
だからきっと僕にもあのように
俊敏で長く速くまっすぐな何かがあるはずだ
作品データ
コメント数 : 13
P V 数 : 1988.3
お気に入り数: 3
投票数 : 5
ポイント数 : 33
作成日時 2021-08-03
コメント日時 2021-08-23
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 12 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 11 | 2 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 5 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 5 | 0 |
総合ポイント | 33 | 4 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 4 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 3.7 | 2 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1.7 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1.7 | 0 |
総合 | 11 | 4 |
閲覧指数:1988.3
2024/11/21 19時39分04秒現在
※ポイントを入れるにはログインが必要です
※自作品にはポイントを入れられません。
きれいな詩だ、と思いました。 私も作中の「僕」と同じように、野球をするのは苦手ですが、観るのは好きです。 そして何よりも、サードからファーストへの送球は美しい、という私も感じていた事実を再確認できたというか、言語化してくれたこの詩に感謝します。
1以前、「井戸」で私のコメントに対していただいた返信のなかで、 「人の個別的な、そして本性的な内的経験から出るのがおもしろい」 というお話をいただきましたが、 本作を読んで、まさにその言葉が頭に浮かびました。 野球のルールを知らないが故に、 サードからファーストへの送球という、 野球を知っている者からすると 見慣れたなんでもない景色に対して、 フィルターをかけずに、そのうつくしさを捉えられる、 というところがとてもいいです。 ラストの、うつくしさをかんじる、という感覚に対して、 自分のなかにもそれがあるかもしれない、という部分に はっとさせられました。 私の場合、うつくしさを感じるものは、 大概あこがれの対象であって、 自分にはないもの、手が届かないものと認識してしまうのですが、 ラストまで読んで、こころの枠をすこし 押し広げられたような気持ちになりました。
1お読み下さりありがとうございます。 この作では、なかなか難しい「僕」の心情と立場を表現したのですが、言葉は清らかでありたいと願って書いたので、詩自体をきれいと評していただき、とてもうれしく思います。 そして一番のモチーフである「サードからファーストへの送球は美しい」ということ、たぶん同じように感じている方がいると思っていました。私も文を愛する者として、あれこれ書きとめる習慣があり、このモチーフも或る朝、目覚めてすぐに書きとめた文の中の一つです。
0お読み下さりありがとうございます。 この作では、一番のモチーフが「サードからファーストへの送球は美しい」という、とてもシンプルなものでした。まずはこれを最初に据えて、中間に「僕」の複雑な悲哀を書きました。そして最後にまたこのシンプルなモチーフを持ってきて締めくくりました。この手順は計画したものではなく、自然にこうなったのです。「僕」は宿命的には「野球」と「この町」から離れてゆくことでしょう。でもそういう嫌なものの中にも、揺るぎなく一番のモチーフが居座っていました。このことには、作者の私自身が驚きました。最終連に、情けないような「僕」の意外に強い認識が滲み出ているのは、作者の私が、真面目に自分の内部にあるもの、自分にとって本性的であるものを捕まえた結果だと思います。
1コメントありがとうございます。 今作では私は私にとっては特殊な詩文作成プロセスをとりました。このことについて述べて返信とさせていただきます。 まず、モチーフとそれに関連することをアイデアバブル的に雑にワープロで打ちました。本当はそれでそのままPC上で推敲して作品と成すつもりでしたが、どこか未完成感というか達成感というか、そういう気持ちが無かったので、その後、その素案的なものに基づいて、原稿用紙に手で丁寧に新しく書き直してゆきました。すると、ワープロで書いた素案とはちょっと違う詩文が生まれてゆきました。やはり手で書くと、本当の心情が紙の上にこぼれてゆくものだと思いました。とまあ、そんなに珍しい書き方ではないし、人それぞれに場合場合で書き方は様々でしょうが、今作で私がとった方法が良い効果をもたらしたことは確かだと感じています。
0何か少年の頃の自画像を呼び覚まされたようで身につまされるのですが、うまくまとまった詩だと思いました。
1お読み下さりありがとうございます。 得意不得意の分野は人それぞれだとは思いますが、私がここに書いたような心情と同じような心情を持ったことのある人はけっこういることと思います。 たまたま生まれた環境に生活を規定されてしまう。人は忍耐することで強くなるということもありますし、まったくの無規定という状況もあり得ませんが、必ず己に相応しい環境に移動するものです。その移動する自由まで制限されると、オーバーな言い方になりますが、現代国家とは言えないと思われます。 実は作品がうまくまとまったとは自分でも思っているのですが、なぜうまくまとまったのかは分かりません。潜在的に私の胸中に長く横たわっていたことが表に出たのかもしれません。作品は「一夜にしてならず」です。
0二連目の「その監督は父の同僚だ」の後からずっと「僕」の「この町」にいる疎外感が口ぶりから伝わってくるようで、読んでて身を任せられました。いいと思います。でも、「野球のルールを知らない」とあるのに、サードからファーストへの送球をそのまま「サードからファーストへの送球」と書いているのがちょっと気になりました。「僕」が結局はこの町の人に受け入れられたがっているという表現なのか。初連の「持っていたい」が最終連の「あるはずだ」に変わっているのもよくわかりませんでした。
1コメントありがとうございます。 拙作の内容の大概のところは伝わったようでよかったです。 作品の内容は私の経験に取材して、色濃くしたものです。野球の練習は何度もありましたので「サードからファーストへの送球」という「概念」くらいは身に付いていました。 終わりの「あるはずだ」は、野球においては発揮できないけれども、他の分野で発揮できる「俊敏で長く速くまっすぐな何か」が自分の中にきっとあるという確信を持たせました。子どもには未来がありますし、変わる可能性を持っています。ちょっと暗い詩ですが、最後は希望を、救いをもって書き切りました。
0希望なんかなくっていいと思ってるので、引っかかったのかも知れませんね。
1打倒王長嶋を掲げてきた故野村克也氏が晩年、長嶋氏のことを「だってやっぱりあいつカッコいいもんなあ」と言っていたのを思い出します。四番です。サード長嶋です。 しかしこの詩自体は野球しか知らない、ある意味閉鎖的で古い体質の町が描かれている。そこで生きづらさを感じる主人公とともに。話者はこの町が少し遅れていることに半ば気づいているのに、野球が出来ないことだけで人を判断する町を否定もせず、批判もしない。むしろ自分にやはり非があるのかとさえ思っている。その上で、あのサードからファーストへの送球のように美しい何かが僕にもあるはずだ、と野球に縁ほど遠い人物なのにまた野球の例えで、自分の可能性を信じている。そこがまた切ない。違和感を覚えながらも、外の世界を知らないがために井の中の論法で語るという。タイトルがこの詩のクオリティに比して、食いつきが弱いかなとも思いましたが、総じてとても敏感で繊細。まさに詩情ある作品だと思いました。
1「希望」という語は、たとえるなら、世界を描いたパズルを構成するピースの中でも、見つけやすいが最も接着力の弱いピースの中の一つのようなものだと思います。安易に扱えない、難しい語だとは思っています。
0詳細にお読み下さりありがとうございます。この作は他の方々にも好意的に読んでいただいているのですが、何か後悔にも似た気分がありました。 一つは主人公の「僕」が不健全なのではないだろうか、という心配。もう一つは、タイトルが本文とその中心感情に比してズレているような感じがするという心地悪さ。 だからstereoさん、鋭いです! 確かにタイトルには再考を促すものがあります。
0