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夕方の月曜日はゴミ箱にしまって
駅舎の向こう側で 一人ホームランバーを食べてました 食パンの耳と 魚の鱗のさかいめから えきたいがおちて それは卵の殻から生まれた ひとりきりの馬車でした 張り詰めていた 太鼓の皮が破けて 大声で泣き出した子供の身長は いくつ? 飴を舐め終えるころには 透明なマカロニが浮かび上がってきて 揚げたての合図だ たまねぎをむいている 斜面を歩いていた 足の生えた星が蝋燭を持っている タンポポの綿毛が通り過ぎました 木製に咲いていた薔薇の根元には 合掌した人の形に盛られた本がありました 下の切られた彗星が 音もなく弾ける 瞳は伐採されて砂漠が途方もなくひろがって、 白色矮星のように萎んでいった
夕方の月曜日はゴミ箱にしまって ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2215.8
お気に入り数: 1
投票数 : 2
ポイント数 : 9
作成日時 2021-01-19
コメント日時 2021-02-09
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 0 |
前衛性 | 2 | 0 |
可読性 | 2 | 0 |
エンタメ | 2 | 0 |
技巧 | 2 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 9 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0.5 | 0.5 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 4.5 | 4.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
誤字を見つけてしまいました。 申し訳ありませんが、 下→舌です よろしくお願いします
0ホームランバーを一人で食べるって、寒いね。それにしても、食べ物がいっぱい出てくる。ホームランバーは何だか無機質で生き物を感じさせないし、食パンもそんな感じなんだけど、魚の鱗とかえきたいとかって、何だかぬめっとした感じ。そして、「卵の殻」、はい、出ました。でも、出てくるのはひとりきりの馬車って、哺乳類じゃん。つまりは、ありえないことがおきちゃってますよと。んで、ホームランバー食べてるのも一人だから、馬車もひとりきりってね。 「卵の殻」と「太鼓の皮」が対比されつつも、「大声」と「子供」という字面で見るとアンバランスなものの調和。 飴、マカロニ、揚げたて、たまねぎ、食べ物、食べ物。たまねぎは丸っこいね。 足の生えた星、怖いね。でも、無機質な食べ物が続きながらも、足の生えた星とかタンポポの綿毛とか、ここで生命力出てくる感じ。合掌した人の形に盛られた本、って、本としての役割を果たさずに、形を成す道具として本かあ、と。 ここで、基本的には、役割を終えたものたちが多いことに気づくんだね。食パンの耳とか魚の鱗とか卵の殻とか、それ自体はあんまり意味がなくて、本体に繋がるパーツみたいな。太鼓の皮は破けちゃうし、飴は舐め終わっちゃうし、透明なマカロニは食べられないし。タンポポの綿毛も、いや、厳密には意味はあるんだけれど、唯一、足の生えた星ってこの作品で一番いきいきしたものに見えてくる。 舌の切られた彗星、そう、やっぱり、欠損なんだね。この詩は欠損についての詩。そうした本体から外れたパーツは、ゴミ箱に捨てられちゃう。よくよく考えればコンビニに売られているものとか、大体袋に入っていて、袋に目的はあんまりなくて、袋とったらすぐ捨てちゃうね。 じゃあ、「夕方の月曜日」って、何のパーツなんだろうって、無理やり考えると、月曜日は一週間の一つのパーツだね。やっぱり、コンビニで売られるパンとかみたいに、何度でも再生してくるし、一回性のものだったらゴミ箱に捨てないね。つまりは、再生されるということ≒貴重でないということを自覚しているということ。「夕方」も一日というものの一つのパーツでしかない。でも、そうした欠損とかパーツに目を向けるってことも大事で、多分この作品を書いた人って、そういうところに目が行くんだろうなあって。だって、最初からそうだった。「駅舎の向こう側」という「駅舎」のパーツ/片隅にいるということも自覚していて、わざわざ「の向こう側」って書いているあたり、渋いね。
2う、美しい。清々しさが半端ないです。文章力の高さなのでしょうか。意味は分かるし情感も伝わるけれど、そこに広がる世界は無二のものですね。
0なかたつさん レスありがとうございます。お返事遅くなってすいません。 >「駅舎の向こう側」という「駅舎」のパーツ/片隅にいるということも自覚していて、わざわざ「の向こう側」って書いているあたり、渋いね。 ここなんですよね。っていうか僕がこれを書くにあたって参考にしたのは、吉岡実と吉本隆明なんで吉吉なんですけど、死を向こう側から考えてみろ見たいな事を吉本が言っていて、向こう側から見た時の色々な事物ってどんな感じなんだろって思った時にこういう書き方をしてこういう風に書いてしまったみたいな所があります。だからどうという訳じゃなくて、僕にとって関心のある物がここには書いてあってそれは、欠損であったり、アンバランスな状況であったり、役割を終えた者たちみたいなのもそうかもしれない。そういった物を見ているとなんか自分の中で色々な声が聞こえてくるので、どうしようもないんですが、そういうものを無視出来たら多分ここに書いてないんだろうなと思います。そういうものを単純に人間はおろかみたいな感じで見下ろすのはやっぱあほだなとも思うので、ちょっと遠くの所から眺めてみてみたいな見たいな感じですね。それが向こう側で、敷居から敷居へみたいな事をツェランが書いてたのも含めて考えると、なんかよく分からんけどこうして書いていったり、誰かの何かを参照しながら書いて行くけど、自分の持っている目線って結局あんま変わらないのかもしれないね。この前、占い師に手相見てもらったんですけど、僕は升掛線で、感情と理屈の線が入り乱れていて、物の見方が4つあってそれらが入り組んでぐちゃぐちゃになってるって言われました。それはうれしいのか悲しいのかはともかくとして、ただ、向こう側から なんかゆっくり見てたいなみたいな感じで、ホームランバーでもあたりませんかね。 ありがとうございました。
0ネンさん ありがとうございます。 また、レスをいただきありがとうございました。 >う、美しい。清々しさが半端ないです。文章力の高さなのでしょうか。意味は分かるし情感も伝わるけれど、そこに広がる世界は無二のものですね。 そういっていただけると、嬉しいですね。僕は結局のところ、詩を読むのが好きな理由って間違いなく没頭できるんですよね。で、逆に言うと没頭できないなと思っちゃうと途端に興味が薄れてしまうので、自分の書いた物もそうならないようにどうにかなんねぇかなって悪戦苦闘するんですが、したからといって上手くいく訳でもないので、難しいんですが、美しいと言って頂けると、なんかもうそれでいいやって思えるので、とてもうれしいです。 ありがとうございました。頑張ります。
0不思議なテイストの詩だと思いました。食パンの耳と魚の鱗のさかいめとは何であろうかとか、大声で泣き出した子供の身長など、ユニークな発想。足の生えた星とは童画であろうかと思いました。白色矮星にも興味を持てました。
0よく抒情が描かれてあるなと思いました。
0エイクピアさん レスありがとうございます。 >食パンの耳と魚の鱗のさかいめとは何であろうかとか、大声で泣き出した子供の身長など、ユニークな発想。足の生えた星とは童画であろうかと思いました。白色矮星にも興味を持てました。 エイクピアさんにそういって頂けると嬉しいですね。 白色矮星は、超新星爆発できなかった星の辿る末路なんですが、中性子の塊みたいな星でどうしようもない淋しさがあるなと思っています。 ありがとうございました。
0田中宏輔さん レスありがとうございます。 抒情ですか・・・いや、なんかあると言って頂けた事あんまりないんで、素直に嬉しいです。 いただいた感想大事にします。 ありがとうございました。
0「下の切られた彗星」の所でひっかかりました、それまでは捨てられてたゴミという前提で読んでいたのですが、彗星は捨てられないと思ったからです。でもひょっとして地球の扱い方に誰かが怒っていたとしたら、そう考えると少し怖くなりました。詩は何かを警鐘するのに十分だと想像しました。
0百均さん、こんにちわ。 手をあげたにも関わらず作品にコメントを残せておらず…… 全体を通して比喩の繋がりが世界観をきちんと形成しており、 手触りが伝わってくる作品だと感じました。 私の目には中学生-高校生くらいの男の子が浮かんできたのですが、 これは私の実体験所以でしょうか。 > 駅舎の向こう側で >一人ホームランバーを食べてました この部分だけ他と比べて浮いていて、だからこそ詩に抑揚が付いているなと感じました。 この一節に詩として単独の力があるかというとそんなにないとは思いますが、 この節がないと詩全体が意味不明になり兼ねないので最も大切な節かも知れません。 またホームランバーという言葉の選び方が見事で例えばこれがチョコレートやアイスクリームみたいな 一般名詞だと情景が全く浮かばない無駄な節となりますが、ホームランバーであることで 時間や空間に固有の意味合いが見つけられる。非常に勉強になるな、と。 > 食パンの耳と から > たまねぎをむいている までは勢いのある連続したイメージの連なりで描いていますね。 > 食パンの耳と > 魚の鱗のさかいめから > えきたいがおちて > それは卵の殻から生まれた > ひとりきりの馬車でした はホームランバーとはうって変わって詩の世界が巡っていて私はとても好きです。 また仮に私が書くなら絶対に第二節からはじめてしまうなとも感じました。 オブジェクトが大量に出てくるのでその連発によってホームランバーの実世界から 詩の世界へジャンプしている気持ちになれますね。 好きです。 > 張り詰めていた > 太鼓の皮が破けて > 大声で泣き出した子供の身長は > いくつ? こちらの節は前節の流れを受けて発展させているように受け取りました。 ただ最後の「いくつ?」の浮き方は不思議でした。 イメージの連発の中で口語+疑問符が登場していて、ここだけ引っかかりを多少感じました。 確かに読者が詩にハッとする契機となるので良い気もするし、詩の世界から没頭できなくなる可能性もあるし これは読者次第かなと感じました。 > 斜面を歩いていた > 足の生えた星が蝋燭を持っている ここも展開が生まれていいですね。 視点の移動のみで詩の中での動きが見られなかった前節までとは変わって動きが生まれています。 飽きずに読めますし、読者をとても意識なされているんだろなと。 また「星」という言葉はやはり我々が実際に持っている身体の目を上に上げる効果がある気がしていて、 「馬車」や「太鼓」の視点移動とはなんだか違った実際の視点の移動の効果をあげる気がします。 陳腐な言い方をすれば肉体的な共感と言うべきでしょうか。 ここで次の節の彗星まですんまりと視線誘導されていて、とても気持ちが良かったです。 ちなみに吉岡実の詩集を久々に引っ張りだす契機となりました。 ありがとうございました。 乱文によるコメント、失礼しました。
0福丸さん レスありがとうございます。 >「下の切られた彗星」の所でひっかかりました、それまでは捨てられてたゴミという前提で読んでいたのですが、彗星は捨てられないと思ったからです。でもひょっとして地球の扱い方に誰かが怒っていたとしたら、そう考えると少し怖くなりました。詩は何かを警鐘するのに十分だと想像しました。 なるほどなと思いました。僕が食べ物を詩に出す理由の一つみたいな所で、考えて思うのは、捨てられたゴミの部分なんですよね。僕は食材を腐らせて捨てる事が多々あるんですが、出された食べ物はなるべく最後まで食べようと思っています。でもなんでなのかは難しくて言えないところもあったりするし、意識的にそうしているというよりは目の前にあるものに大しての自分のキャパの大きさみたいな物が食べ物を残すという事に対して耐えられないというよりは、胃袋の大きさが耐えられるのかもしれないですね。って所から、食べ物をなんで残すんだろうかとよく考えます。でもこういう話ってマクロの目線で物を語らないといけないから、小さな物を残すという始まりから、どれくらいのものが捨てられているのかという事について広げていくと、文字通り人の思考の手には負えなくなるのかなとか思うと、彗星みたいに人に沢山映る燃えている隕石じゃないですけど、宇宙のゴミでしかない岩って綺麗だなと思っちゃうんだなと思ったら舌を生やしたくなったのかななんておもいました。 警鐘については、なかたつさんて方と話したことを思い返すと、結局詩って回りくどいコミニケーションかなと思っているし、その回りくどさは生きていれば迂回できるものでもあるのかなと思うので、警鐘した所でそれに気が付く人達がいなければ、鐘にならないのかなと思いますね。シンゴジラは偶に見返すんですけど、あれ見て何か学んだのかなって割と思っちゃうのも事実ですね。大事な事がなんなのか分からないですが、いつだって余計な事が足引っ張って隙が出来ちゃうくらいなら、多少胡乱な表現になっても、こうして書く事しかないのかもしれないですね。なんか回答からずれちゃったかもしれないですが、頂いたレスからこんな事を考えました。 ありがとうございました。
0白川ロイヨさん レスありがとうございます。 >手をあげたにも関わらず作品にコメントを残せておらず…… これについてはのんびりやっていきましょう。みたいな感じではあるので、白川さんのペースで全然大丈夫ですよ。僕も白川さんの作品になるべくコメントは付けていきたいなとは思ってますが、無理な時はスルーしようと思ってます。(他のコメントで僕が言いたい事が満たされていたらいえる事ないし) そういう意味だと僕はとりあえず白川さんにレス付けてもらえるような作品目指して書いて行きたいなと思っているので、どっしり構えていただければと思います。 >全体を通して比喩の繋がりが世界観をきちんと形成しており、 手触りが伝わってくる作品だと感じました。 私の目には中学生-高校生くらいの男の子が浮かんできたのですが、 これは私の実体験所以でしょうか。 ありがとうございます。手触り感という所でいうと、多分読み手との距離感みたいな意識を考えた時に、無理に背伸びをするくらいなら、等身大で出来るところにちゃんと手を伸ばす事の方が大事だと思っていて、上から見下ろす訳ではなく、一人でじっと詰めていくわけでもないところで物を書いて行きたいなとは思っています。で、こういうスタンスは最初から持っていた訳ではなくて、今の自分に合っているスタンスなのかなという所で詰めている部分もあるのですが、そうじゃないところに伸びていきたいよねという欲求はあるので、挑戦する事は忘れてはいけないと思っています。 >この部分だけ他と比べて浮いていて、だからこそ詩に抑揚が付いているなと感じました。 この一節に詩として単独の力があるかというとそんなにないとは思いますが、 この節がないと詩全体が意味不明になり兼ねないので最も大切な節かも知れません。 またホームランバーという言葉の選び方が見事で例えばこれがチョコレートやアイスクリームみたいな 一般名詞だと情景が全く浮かばない無駄な節となりますが、ホームランバーであることで 時間や空間に固有の意味合いが見つけられる。非常に勉強になるな、と。 詩の始まりという事を考えた時に、ある程度インパクトがないと僕は詩を読んでいて面白いなと思えないなと思う事が結構あります。ただ、それは始まりが面白くないと読めないというわがままであるかもしれないんですが、詩集はともかくとして、掲示板みたいに流れていく場所で、他にいくらでも読みようのある作品があふれている場所で、そうしたら最初に読んでもらえるのかという事を考えていった結果として、最初の二行にきっかけを与えられたらいいなと思っているからだと思います。これを意図的に出来る訳ではなく、多少感覚的に置いてしまう事もあるのですが、僕の場合は最初の着想の部分に魅力があってそこから展開していく作りにしているので、最初が魅力的だけど後から尻すぼみになって終わってしまう事も多いです。イントロもAメロもB目ともサビもアウトロもきっちり仕上げられるようになりたいなと思っています。 ホームランバーを最初におけた理由というのは幾つかあるんですが、ホームランバーという言葉の持つイメージのレンジの広さや、書こうとしている情景にフィットしているからここから始められたというのは大きいですね。書いている時、ネタ帳や絵コンテがあってこれを組み立てている訳ではないのですが、例えばぱりぱりバーでは出ないニュアンスが沢山あるので、ここでホームランバーを使った結果として、深く読み手に入ってこないようなお粗末な物にならないといいなとは願っています。ホームランバーという固有名詞を使用する以上、それを見た事のない人にとってはあんまりピンとこないと思うんですが、見た事のある人にはちゃんと届くようなフレーズであってほしい所ですね。それは語りたくなるようなフレーズであってほしいと願う事に等しいんですが、中々難しいですね。最初の2行を書く時はいつも緊張します。 >ホームランバーとはうって変わって詩の世界が巡っていて私はとても好きです。 また仮に私が書くなら絶対に第二節からはじめてしまうなとも感じました。 オブジェクトが大量に出てくるのでその連発によってホームランバーの実世界から 詩の世界へジャンプしている気持ちになれますね。 好きです。 あんまり速度上げて飛びすぎてしまうと、読んでいて疲れてしまうと思うんです。という反省があって、昔はとりあえず色々な物を並べて、繋げてみるという所を繰り返した結果、自動筆記的な記述に全てが完結しているように見られてしまって厳しかったです。これはいまでもあるとは思っているし、手癖にならないようにしないとなと自制を書けている所ではあります。オブジェクトの連なりを落とし込むときに僕が必要だなと思っているのは、見た目と音ですかね。これは意味よりも優先されると思っていて、それが連なるからイメージとして面白いのかなと思います。これは吉岡実を読んでいてまず思った事なんですが、彼の文章はうまいです。音がとてもきれい。だから多少無茶な事をしていても読めるんだなと思っています。彼が音にどこまでこだわっていたのかは分からないんですが、置かれたオブジェクトとオブジェクトを結合させる時に、違和感はなかったですね。そういう意味で読んでいる時に読み手に隙を与えるような文章は絶対に書きたくないなと最近思っています。なので、読んでいて音が気持ちよくなかったといわれてしまうと大分へこむんですけど、そういう評が一番ありがたいかもしれない。 >こちらの節は前節の流れを受けて発展させているように受け取りました。 ただ最後の「いくつ?」の浮き方は不思議でした。 イメージの連発の中で口語+疑問符が登場していて、ここだけ引っかかりを多少感じました。 確かに読者が詩にハッとする契機となるので良い気もするし、詩の世界から没頭できなくなる可能性もあるし これは読者次第かなと感じました。 ここについての指摘は上記の理由からとてもありがたくって、僕の弱点でもあるんですが、詩の読み筋に疑問符を付けて読み手のせいにしてしまいがちですね。ここでも連の締めをどうするかという所に困って、流れを止める事の愚かさを忘れて、取り合えず一回斬る為に疑問符を置いてしまっています。この点については、「あなた」とか「お前」みたいな二人称を読者に向けてしまう事に対する自分の逃げの常套句みたいな乱用をしがちな点に反省して、ちゃんと詩文で勝負していきたいなと思いました。ご指摘感謝いたします。ここは僕が変わらないといけないいつまで経っても残っている課題の一つですね。 >ここも展開が生まれていいですね。 視点の移動のみで詩の中での動きが見られなかった前節までとは変わって動きが生まれています。 飽きずに読めますし、読者をとても意識なされているんだろなと。 また「星」という言葉はやはり我々が実際に持っている身体の目を上に上げる効果がある気がしていて、 「馬車」や「太鼓」の視点移動とはなんだか違った実際の視点の移動の効果をあげる気がします。 陳腐な言い方をすれば肉体的な共感と言うべきでしょうか。 ここで次の節の彗星まですんまりと視線誘導されていて、とても気持ちが良かったです。 ちなみに吉岡実の詩集を久々に引っ張りだす契機となりました。 ありがとうございました。 乱文によるコメント、失礼しました。 視点の誘導というのは、僕が詩を読んでいてというか文章を読んでいて面白いと感じる要素のなかで、動きというのがあります。それは退屈で同じような表現が続くくらいなら変化を付けた方がよみやすいだろうなという考えがあるからです。現に、僕が好きな小説は、同じ事を同じように語らず、一つの事を述べるにしても、色々な情報量を込めたり、見方をかえたり、表現の方法をさぼっていないし、かといって無駄に長文じゃないよなと思うからです。その点、星というのは見上げる効果があるので、目線が上にいきますよね。そういう意味で空や朝と言った背景を持ち出して来るというのは単純に描かれている作品のスケールを広げるという意味で効果的だと思います。ただ、ここら辺を意識的にどこまででかけているかというと割と感覚で処理してしまっている部分もたたあるので、自分で読み返した時に前段のイメージとつなげたり、繋がってしまう事を自分で読み返しながら気づいて付け足していくという作業は結構します。イメージの伏線を最後に回収しようとするのは僕の手癖でもあるので、あんまりよくはないんですが、書いてる事に対して感覚で処理した方が効率の上がる事と、意図的に編集を加えた時に味の広がるよう感覚を刺激できるような物にしていきたいなとは思っています。 返信遅くなり申し訳ありません。 普段こんな事は言わないんですが、こういう事を考えながら書いているという事をこの場で甘えて言わせていただきました。 ありがとうございました。
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