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I・・・に教わったこと あるいは批評について
もし、前世というものがあるなら。私はこの人と出会ったことがある・・・きっと、バラモン。インドのヒンズー教の僧侶。あるいはどこか南方の、ウコン染めの僧衣をまとった修行僧・・・それが、「**研究会」講師、I氏の、ファーストインプレッションだった。なぜ、そんなことを感じたのだろう。今もって理由がわからない。 浅黒い丸顔、禿頭、老年とも壮年とも見える風貌。彫りの深い目元には鷹のような眼光があり、ふっくらとした口元や頬は、南方系の血を感じさせる。真一文字に唇を結び、器用なのか不器用なのかよくわからない肉付きのよい指と手つきで、提出された詩作品の束を丁寧にめくっている。印刷された詩作品の周囲、裏側の白紙部分を、数色のボールペンの文字がびっしりと、紋様のように埋め尽くしているのが見える。権威的ではないが、安定して動じることのない、岩のような存在感があった。 研究会は、参加者が事前に詩作品を提出し、一週間前に全員の作品が回送されてくる。事前に作品を読み込んできて、当日、会場で合評しあい、最後に講師の講評を頂く。いや、頂く、という言葉は不正確だろう。対等な関係を保つ為に、講師を「さん」付けで呼ぶ。生徒として「拝聴する」のではなく、対等な関係として意見を交わし合いましょう、講師も参加者の意見を傾聴しましょう、という、「学校」「授業」的な一方通行の場にしたくない、という講師や司会の意図が明確に見えることが、とても新鮮だった。 詩作品を作者が朗読し、何人かの参加者から感想や意見を聞いた後、講師の講評を待つ。Iさんの声は、想いの他高いハイバリトンだった。かつては美しいボーイソプラノだったろう。Iさんの批評スタイルは、事前のメモを読み上げるのではなく、その場で(参加者の意見なども受けながら)評していくものであったが、語りかけるような会話体ではなく、そのまま文章として成立する、論旨の明快な批評文となっていることが鮮烈だった。 おそらくは、詩人としての直観によって得た印象が、詩の分析や解釈の原点にあるのだろうと思う。しかし、Iさんの詩評は、印象批評からは一番遠い所から始まる。詩の形式、行間や単語の持つ音感が作品に与える効果、作者の伝えたい感情の強度と、語句の選択の関係性。日常的な使用において単語の孕む意味が、たとえば配列の工夫によって新たな意味へと開かれたり、独自のニュアンスをまとったりする、その微妙な(一般には気づかれにくい)特質の指摘。文字列が生み出す表層的な意味の背後にある、作者が意識的に、あるいは無意識的に潜めた多義性を、単語や連結の仕方や語り口の呼吸などを手掛かりに、丁寧に掘り起こしていく。 Iさんの講評は、ひとつのものを偏光顕微鏡で観察したり、空間に置かれた作品を、その周囲を巡りながら多角的に観賞したりするような、様々な角度からの新しい発見に満ちていた。作品や作者に対するリスペクトが常に感じられる、その控えめな踏み込み方も、大変好ましかった。恐らくは主観的な「直観」――それも、思い付きの直感ではなく、過去作品の重層的な積み重ねを基層とした直観――から発しているであろう作品の分析過程は、なぜ自身がそう感じたのか、ということを、どのように説明すれば参加者に伝わるか、と工夫を重ねて作り上げた、独自のスタイルであるように思う。なんとなくそう感じるとか、説明できないけど、なんだかいい、というような、ディレッタント的な曖昧さがまるでない。わからない時は分からない、とはっきり言い切る率直さや、誤読である可能性を否定しない誠実さにも驚いた。 意味を読み取ることばかりを「詩の読解」だと思っていた私に、音の響きの面白さや、詩的空間の深さや奥行きを探る冒険のような新たな詩の読解の楽しみ、精神分析や心理分析を援用した多義性の探求、社会的、文化的背景を踏まえた、ある種の共時性をあぶりだしていく面白さを教えて下さったのは、まぎれもなくI氏である。同時代に生きる私たち、同じ場を共有する私たちが、気配やムード、予感といった、ぼんやりした形で感じ取っているなにかを、言葉に取り出していくこと、顕在化させていくこと・・・それもまた、詩を書く、書かざるを得ない、重要な動機となるだろう。 個人的な苦悩や喜悦、悲哀といった感情を吐露することから始まり、その個人的な吐露を普遍的なものにまで高めていく、研磨していく行為は、ぼんやりと私たちが共感している、言葉にしえない感情に触れていく行為でもあると思う。なぜ「わたし」は詩を書くのか、という問いを突き詰めていけば、詩とは何か、詩を書く私、詩を書く行為とは何か、という詩論的な思念に踏み込んでいくことになるし、許せない社会悪や、世間の理不尽に遭遇した怒りや疑問が、個人内部の世界観や反発力に感化されて、詩の言葉となることもある。日常の生活に、ふと心が留まった瞬間――そんなきらりと光る一点に繊細に目を注いで、その感情の変化を確かめるように言葉を紡いでいく人もあるだろう。 多様な詩の書き方が存在し、多様な読み方もまた存在している。その時空の中で、切実に発せられた言葉のまとう輝きに目を止めていきたい。その喜びを教えてくれた、Iさんの批評スタイルは、これからもずっと、私の大切な指針である。 初出 『ポスト戦後詩ノート』第8号 ※個人名など、一部修正
I・・・に教わったこと あるいは批評について ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1123.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-08-16
コメント日時 2017-09-20
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
下二段落、頭の一時下げを忘れてしまいました。もとは4ページの「エッセイ」です。
0(この御批評を読んで、書きたくなり、数名個人名を出してしまいましたが、まずいようでしたら、削除してください) こんにちは。このサイトに参加させて頂くことになりました。前田ふむふむです。 このテキストの批評ではなく、 私自身の思い出話になってしまいますが、ご容赦ください。 「・・・・研究会」は、僕には懐かしい思い出です。僕は、2007年の半ばから2009年の前半ごろまで、勉強させて頂きました。家庭の諸事情、(特に母のこと)、仕事のこととかに、 忙殺されて 参加できなくなりましたが、とても凝縮された日々だったと思っています。 年齢的にも遅く現代詩を知り、 2006年から、詩を書き始めて、右も左も分からない日々だったので、 何とか詩の勉強がしたいと、本来、極めて出不精の僕も、思い切って応募して 参加したのです。 I 氏は、先生と呼ぶと、僕は先生じゃない、「さん」呼びをしてくれと これは、僕の勉強のためにしていることもあり、皆さんから学ぶことが多いので、 と仰っていたのが印象的でした。二次会では、I 氏とは、詩の考え方、なぜ詩を 書いているかとか、本質的な話から、ふだんの日常的な他愛無い話まで、 幾度となく、話しをして頂いたことは、とても良い思い出です。大詩人でありながらとても謙虚で、その当時の研究会皆さんから、尊敬を集めていたのが印象的でした。 メンバーは、伊東浩子さん、高岡力さん、渡ひろこさん、長谷川忍さん、岡田ユワンさん、 永方ゆかさん、ブリングルさん、中井ひさ子さん、長尾雅樹さん等、錚々たるメンバーを 中心に20名から30名の方が、参加されていました。中には、秋田から泊まり込みで 来られた常連の方もおり、皆、少しでも、何かを持ち帰ろうと真剣でした。 特に,伊藤浩子さん、高岡力さん、長尾雅樹さんとは、特に親しくさせて頂きました。 渡ひろこさんは、朗読とか、その当時から活発に活動されていて、何度かイベントに誘われたのですが、本来、出不精の私は、かなわず、申し訳なかったと思っています。 この期間を通して、詩の何たるかの入り口を、自分なりに勉強できたと思っています。 その後、僕は、仕事のこと、家庭のこと等、切迫することが続き、 何度か、ペンを置くことがありましたが、今でも、なんとか詩を書こう、書きたいと 思っているのは、この「・・・・研究会」に参加した経験からだと思っています。 僕にとって、短かったが、素晴らしい時間でした。
0こんにちは。 前世と現世と後世に、詩の批評精神が伴うという 詩の批評論をエッセーとしてかみ砕いて伝えてあることが 親しみ深い言葉で描かれており、 穏やかな気持ちになりました。 今後ともよろしくお願いします。
0前田ふむふむさん そうだったんですね。現在の「**研究会」は、長谷川さんと私とで司会を担当しています。渡さんも、時々参加してくださいますね、長尾さんは常連ベテランメンバーです。私は前田さんの後に参加したので、お目にかかる機会はありませんでしたが・・・。私の指針、これは批評に関することだけではなく、詩を書いていく時の指針でもあります。お読みいただき、想い出をお知らせいただき、ありがとうございました。 竜野欠伸さん はい、あえて「エッセイ」を投稿してしまいました・・・。分量的に、詩誌4ページくらいの分量が、この掲示板ではこのくらいの量になる、というモデルケースとしても見て頂けるかと思います。詩論や批評論を書こうとすると、どうしても肩に力が入ってしまうのですが、「エッセイ」として書くと、意外にすうっと楽に書けるようにも思います。ありがとうございました。
0まりもさん、こんにちは。 非常に真っ当な詩論だと思います。 修行僧のように言葉と向かい合い、人生と向かい合う方がいる。 生活の中で自己を見つめ、社会を見つめ、思索の深淵を言葉で表現する詩が書かれている。 書かれるべき内容にふさわしい語があり、より高い表現効果を目指す修辞法が探求されている。 詩には歴史があり、学ぶべき先人の軌跡がある。 当たり前のことですよね。僕は一切の当たり前のことができないままきてしまった感じがします。 自己不信、他者不信、社会不信に取り憑かれているのです。僕は自分のことは書きたくないし、自分が考えていることも書きたくありません。此処のこと、此処にあるものに対する理解も書きたくないのです。 自分には絶対わからないこと、自分にはとてもたどり着けない場所について書いてみたいと思っています。だから僕の書くものは詩ではないと言われるのですね。 まりもさんのこの詩論を読んで、そこのところが再確認できたように思えます。
0詩作品へコメントをする行為に抵抗感を持つ人は多い。と思う。当事者でなく、ある意味、傍観者であることのほうが詩作品への触れ方として、最適なのではないかと、私は、思ったりする。「この詩は良いと思う」と外へ発した瞬間に、自己にある「良いと思わないこと」を削いでいるというか。更に言えば、良いと発することによって、その詩が本来あったはずの、立ち位置を変えてしまうことにならないかと思う。北極で生まれた詩に対して「あなたはアフリカの草原に移動して下さい」というような、決めつけによる違和感を生む感じ。詩を読んだら黙って立ち去る、傍観者。デタッチメントな距離が詩を最も評価しないか?と思ったりする。 直観の人でありながら、なぜ、印象批評から一番遠い場所から始めるのか。それは、先に申し上げた、詩作品が孕む断絶の距離を自明なものとして、I さんは、詩に対して持っていらっしゃるのではなかろうか。顕微鏡で分析を加える批評とは、破壊してはならぬ、あるいは、失くしてはならぬよう、最低限の批評とする為の努力なように思う。詩を前にして、本当は黙っていたいのだ。きっと。
0今更ながら、ですが・・・ 花緒さん 〈グルを否定したり、グルの範囲を逸脱することから、表現が始まるのではないか〉ガツンとくる一発、ありがとう。最近、とみに思うのです。物差しを、他者に頼り過ぎてはいないか、と。 Migikata さん 〈自分には絶対わからないこと、自分にはとてもたどり着けない場所について書いてみたいと思っています〉平田俊子さんという詩人とお話しした折・・・自分が辿りつけそうな、そのさらに先を見てみたい、とおっしゃっていたのが、印象に残っています。映像が先に浮びますか、言葉が先に浮びますか、と問い掛けたら、どちらでもない、一本の木の中から仏像を彫り出すように、彫刻のように、言葉/イメージを掘り出すのだ、と。その、先へ、という、詩論。手ごたえのあるものを、という、詩論。 三浦果実さん あなたもまた、直感/直観の人だと、常々思います。〈破壊してはならぬ、あるいは、失くしてはならぬよう、最低限の批評とする為の努力なように思う。詩を前にして、本当は黙っていたいのだ。きっと。〉よいものを前にして、黙る他ない時の方が、人には多いのではないでしょうか。でも、じーん、と痺れている。そのしびれを味わいたくて、詩を探しているのかもしれません。
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