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高架下
夏至は過ぎた それらの日々も どこかへいってしまった 空は薄く明るいというのに 雨が一滴 降ってきた 男はひとり 夕暮れのもとを 誰にも見られないで歩いていた くしゃみを細道に投げかけて ぶらぶらしていた あぁ いつもの家だ 軒先で家族が何かしている じっと見つめている 誰が… 一瞥をくれたような気がして 大きな道に出ようと思った 電車の通る音が降ってくる 思い出すものは 淡い光明の中で 話し合う男女の姿や 月下のもとで佇む 昔の人の姿 落ちてきた神様の声も 電車の音にかき消され 耳鳴りのように 腹の底に 響いているのである がたごとがたごとは 誰が言い始めたのだろうか 男は高架下の道を 家路の一つとして愛していたのだ 今日は 彼の足音が聞こえない 町に静かな生活があるだけだった
高架下 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 838.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-08-09
コメント日時 2017-08-16
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
軒先といいますと、小津の映画にでも出てきそうな、まさに家族の団欒を象徴する場所であるように見えるんですが、軒先は、家族でないものを家族のようにたらしめる装置ではないかと思うのです。そこに座ってもしくは立って「何かをしていれば」家族のように見える。たとえ、彼らが家族じゃなかったとしても。しかし、男にはそれを確かめる術もないのです。
0こんばんは。 郷愁を誘うような詩ですね。 「落ちてきた神様の声」や「高架下の道を 家路の一つとして愛していたのだ」といった表現が新鮮且つ効果的だと感じました。 ただ、もう一捻りあったほうがいいかな、とも思いました。 あまり大したコメントを書けないで済みません。
0最近は、色んな「祈り」が叫ばれてますよね。それがどんな神様に対してかは別としても。 長詩を書くのがどうも不得手でして、短詩の中で足掻いています。次作で試行錯誤してみます。
0返詩カルチャー万々歳なので、返詩を書きます。 あ、 し、 お、 と、 ととと、とととと、 アーサー、君はルージュラのように、青ざめて、 あるいは、ルージュのように、青ざめて、 短い詩の中で、 ぼくは大きな道に出る、 ある種の、ため息でもって、
0高架線の下を歩く男。高架線が在る目的は、電車を走らせるためであり、それも踏み切りをつくらずにして、人間の通り道の邪魔をしないように、利便性があるものです。その目的を果たすための高架線は、何故か詩情をもたらすのでしょう。 「軒先で家族が何かしている/じっと見つめている 誰が…」という二行が、いつもの景色が違って見えることを示唆しており、それが不気味な雰囲気を醸し出しています。というのも、家族であれば、それが誰であるかは一目瞭然であるはずですが、その視線の持ち主が「誰が…」とわからなくなっているからです。 雨の比喩を援用して「電車の音が降って」きて、そして、「落ちてきた神様の声」は電車の音にかき消されており、神様の声は言葉として存在できるかもしれないですが、男の耳に届かなければ、最初からないものと同然です。そして、男にとっては、神様の声より電車の音が身体感覚として知覚できるもの、言い換えれば、身近なものであるということでしょう。 そして、「男は高架下の音を/家路の一つとして愛していたのだ」という思いが明かされます。 繰り返しになりますが、高架線は電車が走るための道具です。そういった当たり前の日常は淡々と繰り返されます。だからこそ、「彼の足音」は電車の音にかき消されるのであり、絶対的な存在だと思われる「神様の声」ですら電車の音が書き消すのですから、「彼の足音」は消えざるを得ないのでしょう。
0返詩有り難うございます。 これには異化を直感しました。
0高架線は日常に埋められた利便的なものという視点、面白く読ませて頂きました。 高架線は、必ず人の上を張り巡らすよう設計されるものですが、高架線をずっと見続けて歩いている人はそうそういません。しかし、電車の音はその下にいる限り、永遠に降ってきます。 それを感知した瞬間、私の目線は自ずと上を向き、高架線が不気味に浮き上がってどこまでも伸びていくような感覚がするのです。
0はじめまして。よろしくお願いします。 読み手に解り難く書いてあるような前衛作品ならば、わたしもまた前衛的な批評を試みたりしますが、分り易い文体を使って内容で勝負するような作品の場合は、なるべく寄り添って読むようにしています。ところが、本作の場合、文章を捻っているのか、下手なのかが不分明な為、わたしとしてはどういう読み方をしたものか少々迷うところです。先程の分類のちょうど中間にあるようなカンジですから。 そういった作品の場合というのは、あたかも、頭がライオンで尻尾がネズミであるような動物の鑑定に似ているので、それを、頭だけを見て、これはライオンだ、というのもちょっとな、という気がするし、逆に、これはネズミである、というのも、(部分だけ取り出して論じるのは)外れてはいないが、ちょっと、当たってはいない、という気がするわけです。 そこで、うまく全体を掬い取れるような、読み方ができないか、と思いながら読んでみました。 (というわけで) 高架線の下で電車の轟音に掻き消されてしまう個人の「足音」という純粋な結晶を取り出すには、本作品は、混合物(あるいは雑音)が多すぎるような気がしました。 その読み方だと、他の雑多な要素をどうするんだ、という取りこぼしてる感じが残ります。つまり、ネズミの尻尾が見えていないことになる。作者は、批評者がへんだなと思う部分にもその作者なりの力を込めているでしょうから、なるべく、その(へんな)部分も無視せずに全体に沿って読んでみたい気がします。 そうすると、本作品を、きちんと成立するように、一貫した作品として読むためには、この「男」が既に、轢死しており、その幽霊が冒頭から登場していつもの家路をかえっていく、そういうわりと単純な話になっているのだろうと理解するしかありません。 そういったわけで、 作品が「がたごと」しているので、掻き消されないように読んでみました。(以上です)
0鋭いご指摘です。とてもとてもがたごとしていて、立っていられないような詩です。 それにしても、ネズミの尻尾をしたライオンは、果たして猫を怖がるんでしょうか。
0(笑)どうなんですかね。そもそも、ライオンの頭とネズミの尻尾というだけで、他はまだ不明ですから。ライオンネズミには前足が有るかどうかもわかりませんので。 ただ、推測ですが、頭がライオンのなので、虎が優しく殴っても、あくまで強めの猫パンチくらいにしか感じないかも知れません。
0現状、胴体は見えないままということですね。確かに、頭がライオンなら相当強そうですが、胴体がミミズみたいに細かったら、やっとのことで手にいれた獲物の大きな肉を消化するのにどれほど時間がかかってしまうのか!もしかすると、喉のところでつっかえて死んでしまうかも分かりません。 ともかくも批評有り難うございます。
0自らの子供にお仕置きをする親にあたる人間が、ほんとうは、きみははしのしたからひろってきたんだ。と子供に伝えて叱るとき、子供は親に優しさを求めるそうです。そんな、昔ながらの親子のつながりを見つけました。
0親子のつながり→親の背中、があるのではと思いました。訂正です。ごめんなさい、
0竜野さま コメント有り難く思います。 親の背中の件、もう少し詳しくお話頂けたら幸いです。 私が、この詩を書いたのは実家を出てからですが、妙にひっかかるものがあるのです。家族というものに対して。
0かつての昔を思い出したからです。ただ独り我があるという感覚には、親の背中でも見たいという願望が見え隠れするものであろう、とこの詩から直感したのです。それだけの寂寥感を真夏の終わりには独りの我について思うのでしょう。 ところで、幼な子にあっては、悪戯が過ぎて、母の手に負えなければ、先言のくだりを、父には言われ、僕の自覚のない記憶のなかでは、父の思い出のなかで、それは違うと言っては泣き出した、と言うことを、父は自分が大人になったあと、冷やかしにする訳です。当然覚えがない訳ですが、実家を出たら、そのような昔話が現実であるはずだろうナと真夏の暑さに哀しさの足跡を記憶として確かめたいとも、考えたのでは、と共感を込めて推察いたしました。
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