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扉
扉をあけると 空が立っている 言葉は二重の雲をかかえ 越えられない岩壁を瞬いている 唇から落ちる偽装の飛沫 取りそこねた水底のあおいガラス 奥底にことばが渦巻いて 呪詛にも似た辛辣な祈りが 都市の交差点をよぎっていく 街にたたずむひとりの老婆よ おまえの背後で少女の海が 人びとの無関心な袖口を濡らしている 都市、この猥雑な酒場に身を横たえ 晩年を抉る訣別の半旗よ 逆巻き立つおまえの白髪を しなやかに梳く制度の指 固く 白磁の器になみなみと注ぐ酒は 象徴のように苦い 扉をあけると 空が立っている 夕陽に似合う音階で 休止符はわたしの譜面に死をのせる 喪失にうろたえる音符たちが いま 晩年と回帰をつらぬく 母なる老婆が持つひと針が 彼岸のうすいヴェールを刺しとおす
扉 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 884.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-07-19
コメント日時 2017-07-24
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
なんかかっこいいんだよなあ〜! 扉をあけたら空が立っている、すごい! 言葉が言葉を呼んでいるかんじがします。
0詩の教科書は詩集、という概念は好きではないのですが、イメージの連鎖、構成、飛躍する言葉のチョイス、行間、韻律、これらを勉強するのにはやはり先人たちの詩を解体していくのが一番ではないかと思います。 白島さんの詩には指示する言葉と標識になる言葉があり、それらが一連の道しるべとなり進むので無駄がない言葉の連なり となっています。 一連目ではイメージの核となる扉と空があり、 空から雲、扉から岩壁、言葉から唇、飛沫から水底、空、水底、扉、これらに絡む、あおい、ガラス、この、あおいガラス、が効いてますね。 青いガラスだとガラスが強くなってしまう感じがします。 このように最後まで書いていくのはまるでピンセットで昆虫の皮を剥いていくような気持ちになるのでやめますが、とても勉強になりました。 晩年、とは書いておりますがまだまだこれからでは無いのでしょうか? 失礼しました。
0白島真さま、御作にコメントさせて頂きます。 御作から、懐かしさと美しさを感じました。翻訳詩をはじめて読んだときの感覚が蘇り、言葉ひとつひとつに光沢が見え、切っ先が見えました。 晩年、回帰を描きながら、その勢い力強さはこれからを感じ、鮮やかな飛翔を見た気がしました。
0白島さん、こんにちは。拝読致しました。 「扉をあけると空が立っている」とは、冒頭から引き込まれますね。 これをお借りして「空をあけると扉が立っている」から作ってみようかななどと思いました(笑)。 透明なものなら別ですが、扉はその先が見えないシークレットのような役目もあります。 この2行が一番初めに降りてきたのでしょうか? 2行に導かれた詩句たちの柔らかな自由さは凄いと思いました。 老婆の出てくる2つの連が特に好みです。 勉強になりました。 また改めてゆっくり読ませていただこうと思います。
0これはすごく良い詩だと思います。シチュエーションがイメージしやすいのみならず、言葉遣いが巧みで美しい効果をもたらしている。こんな風に美しく書くことは、私にはできないでしょう。すごく繊細で、心が綺麗な方という印象です。
0白島さんの詩は詩人が想像する「現代詩」の概念そのままの形をしているなと思っています。それは良くも悪くもですが。 それはそれとして、宣井さんと同じよう私も冒頭二行がとても良いと思いました。小説は読者がその後の文も読みたくなるようなキャッチーな冒頭というのを意識して書かれるものですが詩だとそういう意識がとても稀薄。それは良くないと思う。その中で、この詩は良い意味で小説的なキャッチ―な冒頭だ。
0田中修子さま 修子さんに「かっこいいー」って言ってもらえると素直に嬉しい^^ 言葉のイメージ連鎖で作ってみたような詩です。 5or6さま >イメージの連鎖、構成、飛躍する言葉のチョイス、行間、韻律 そうですね。私も他の方の詩や詩集を読むとき、こういうことに気を配って読みます。 特に初めはあまり意味を追わず、で、いいなと思えたものは2回目で意味を探るようにしてます。 私自身はイメージや言葉のチョイス、繫がり、韻は気にして詩作しますが、「構成」は最初に考えることができないタイプです。こんな主題で、とか、こんなイメージで、はあっても最初から1連はこれこれ、2連は~、3連は~という風には書いたことがないですね。作りながら考えていく感じかな。推敲時に構成のことをチェックします。全体がギクシャクしていれば、気に入っていた行、連でも作り直す時もあります。 晩年、・・・・・・やはり晩年は意識してしまいます。67歳ですからw でも、辻井喬なんかは西武社長を退いた60代後半から後の10年で凄い文学的仕事を成し遂げたので励みになります。また、たしかに80代、90代で頑張っておられる方もたくさん。やれるだけやって、くたばりたいものです^^ 夏生 さま ほぇー、翻訳詩に近い懐かしさですかー。まあ、何かを感じていただけたのは嬉しいですが、私はあまり外国の詩は読みません。(最近でこそ、リルケと上田敏の『海潮音』読み直しましたが、いいのですが、自分の詩作上においてはあまり役立っていません。『海潮音』の訳は凄い!と思いましたが。、何せ原文が読めないのでw 外国詩はやはり音韻の美しさで読ませる部分、リルケなどの深い宗教観、を理解した上でないと本当にその詩の良さは分からないでしょう。翻訳の場合、韻を取るか意味を取るかの二者択一ですが、たいていは「意味」を取ります。意味をさらに深い意味に造型する韻律が欠けてしまえば、それは全く別物と断じてもいいくらいです。だから、20代のころから外国詩は殆ど読まなくなりました。パウル・ツェラン、シュペルヴィエルくらいですね。関心があるのは。ノーベル賞詩人など殆ど知りませんw >その勢い力強さはこれからを感じ、鮮やかな飛翔を見た気がしました。 ありがとうございます。大いに励まされます。 (よく消えてしまうので、ここで一度UPします)
0宣井 龍人さま >この2行が一番初めに降りてきたのでしょうか? そうです。まず、2行が降りたってきました。天孫降臨でっすw そこから展開をふくらませていきました。 老成した詩を書いてみたいという思いだけは強かったのですが、 成功しているかどうか・・・・。 最初の老婆の詩句は、ぼんやりしたものが既にありましたが、 ここで初めて纏まった気がしています。 年金の減額、介護制度の不備、老人に対する敬意のなさ、そのような風潮を 老婆に象徴させてみました。 いつもお読みいただき、ありがとうございます。 kaz. さま お久しぶりです^^ お褒めいただき、恐縮です。 心はちーとも綺麗ではないですが、だからこそ綺麗な嘘を書いております(笑 蛾兆ボルカ さま バッハは大好きで、ご指摘の三声のインヴェンションなどもたまに聴きます。 天才グールドさまは、どうしても演奏中の声が気になり、私はダメなのですが・・・。 この詩を音楽の三声に分けて評していただけたこと、嬉しいですし、流石の見識眼だと感じました。 自分では意識していなかった部分を深く掘り起こされた気がしています。 この評は最初に構成することが苦手な私にとって、大きなヒントをいただけました。 ゴールデン街のイメージ、まさにピンポ~ンでしたw 民衆、群衆は政治的であるかどうかで使い方が違うでしょうし、そもそも個に対して群衆があり、また最近では群衆のうちのひとりが個である、同時に個のなかに群衆(世界)があるだけという考えに至っています。 いわゆる個と集団の立ち位置が同等なのです。(群衆もひとりひとりの個であるという意味において) 孤塁、孤高という言葉に若い時分は憧れてきましたが、今は、人間関係こそ個を生じさせしめていると思っています。人は関係性の中でしか生きられない、が実感です。関係性を大切にしていきたいですね。 (本日発売のびーぐる36号にそんな詩を投稿し、入選したようですので、よろしければ。) 新宿では70年代に私も街頭詩人から、いくつか詩集を買ってますね。 名前は忘れましたが、友人の紹介ではかなり有名な方だったから、その冬子さんだったかも知れません。 年代が合うかどうか分かりませんが、新宿街頭で詩集を売っていた時期はそう長くはないでしょうから。 >そして灯台の海への扉を重ねて、僕はイメージしました。 そんなイメージもあるかも知れませんね。 灯台の海への扉を開けると、はてしない異界がひろがっていそうです。 祝儀敷 さま 詩は冒頭でどれだけ惹きつけられるかが、勝負だと思っおり、たいていの現代詩人はそのことを意識しているはずです。冒頭4~5行が悪くて(いわゆる既視感があって独自性が欠けたもの)、いい詩だったと感じることはあまりないですね。 (その逆で、冒頭は良いけど、全体はどうかなーってのは多いですがw) 「現代詩的な概念」、私はまだよく分かりません。概念がまだ概念として成立しておらず、人それぞれのような気もする。 現代詩とは何ぞや的な論考はそこそこ読んでいますが、戦後詩といった定説は影を潜め始めているようです。 また、最近亡くなった大岡信なども正確な言葉は忘れまが、現代詩の表層的な言葉のみが空回りしている、というような批判をしていました。述志がないということにも通じるものでしょうか。 私が「現代詩」だー、と明らかに認識するものは、記号の多用、漢字と振り仮名の逆転、振り仮名に別の言葉を当てて、二重、三重に読ませるスタイル、コンクリート詩(視覚重視)などでしょうか。 そういう意味で言えば、私の作品は言葉のつらなりは多少、今風のところがあるかも知れませんが、 むしろ古典的な作風に通じるもののようにおもいます。
0率直をむねとしたいと考えていますので、うっかりすると まぬけな感想になってしまうかもしれませんが、どうぞ ご容赦ください。 ≫扉をあけると ≫空が立っている すばらしい詩句です。 一読しただけで 胸がすく思いがいたしました。みなさんが すでにおっしゃっておられても 私も 言わせていただきたいほどに、素晴らしいです。 ただ、お恥ずかしながら わたし自身の読解力に問題があるのかもしれません。 そのほかの詩文には、私の心は あまり近寄れないという印象を持ちました。 老婆に 凛としたものを感じました。 母なる老婆とあるので ひとりの人というよりも 母神と言い換えてもよいようなしっかりとした存在感をもって、白髪も 神がかったスピード感で 逆立っているような気がしました。 ただ わたしは愚かな読者なのだろうなあ、どうも 分からないなあと。と、 恥ずかしい気持ちになっている箇所がございます。 ≫言葉は二重の雲をかかえ 複層的に ことばが なにかを隠しているというのなら、分かるのですが 二重が解らないです。一重と二重めのそれぞれがなにをイメージしているのか 付箋らしきものが わたしには、読めませんでした。 一つには、呪詛にも似た辛辣な祈りかもしれないと思いました。 二つ目の雲が 二枚舌めいた 美辞麗句とか 誤魔化しの雲のような気がしないでもなかったのですが、るるりらが拙い読者だからだとは思うのですが、わたしは この詩からは 人間の味のようなものが いまひとつ伝わりにくかったです。 レスポンスを拝読してみると 「 年金の減額、介護制度の不備、老人に対する敬意のなさ、そのような風潮を 老婆に象徴させてみました。」とあるのに 該当の風潮は レスのやりとりから伺い知ったものの 詩文からは、わたしは感じることができなくて 正直いうと、私は とまどいました。
0るるりらさま お読みいただきありがとうございます。 観念的な詩ですので、なかなかピタっとこない部分があったこととおもいます。 (一言いうならば決して人間そのものを描きたいと思って書いているわけではありません) 詩の自解はあまりしたくはありませんが、二重の雲を抱えについてのお尋ねがありましたので少しだけ。 これは表層言語と深層言語を意味させたつもりです。 無意識にある言葉、ここには棘のある言葉、恍惚とさせる言葉、自分に都合が悪く耳をふさぐ言葉など様々な言葉が眠っており、その取り出し方も人によってきっと様々でしょう。 Self(大文字のS)を取り巻く言葉の発見こそ、己の発見に連なっていくものという意味を込めました。 しかし、詩ですから、どのような捉え方をしていただいても構いません。 年金云々もかえって余計なことを言ったと思っております。 「老」という語感の中には、自身でさえ不明な様々なニュアンスがあり、無意識の世界ではいろいろなことを感じているはずです。そのイメージを少しでも解体、再構築することが、また詩を読み、作る楽しさに繋がっていけば良いと思っています。 (ちなみに母神という読み取り、当たっています^^)
0これは、どう読んだらいいのか・・・と思いあぐねて・・・シュールレアリスムの絵画が連鎖していくような感覚でした。ギャラリーに鮮烈な絵画が並んでいて、その一枚、一枚に引きこまれながら鑑賞していく感覚。輪郭のわりあいにはっきりした、マグリットのような、空や海やガラスなど、澄明なイメージの強いスタイルの絵。エルンストとか、そういう輪郭をぼかしていくような方向ではなく・・・。 〈言葉は二重の雲をかかえ 越えられない岩壁を瞬いている 唇から落ちる偽装の飛沫 取りそこねた水底のあおいガラス〉 ここは、詩による詩論だと思いました。意味とイメージ、いずれも雲のようにとらえどころがなく、曖昧なものを抱え込んでいる言葉。しかも、雲の合間に、越えられない岩壁のような(その先に至らせてくれない、目の前の壁のような)拒絶が垣間見える。くちびるは、それでも言葉を発するけれども・・・本当にとらえたい真実、イマージュの源泉というのか・・・ポエジーそのものの結晶のような、そのもっとも美しいもの、たとえるならば、水底のあおいガラス、のような・・・ものは取り損ねてしまう。唇から漏れるのは、〈偽装の飛沫〉に過ぎない・・・。 この一連から(!)思い出したのは、茨木のり子さんの唯一?の童話、『貝の子プチキュー』の中の一節でした。 日常のルーティンに退屈した貝の子が(よせばいいのに)「みたことのないものをみようとおもって」深海への冒険に出発します。途中で〈きれいなもの〉をせっせと集めているタツノオトシゴ(恐らく、詩人の喩)に出会うのですね。タツノオトシゴは、海の上から落ちて来るガラスの欠片、最初は〈トキトキの とがった やつが 波に あらわれて・・・だんだん まあるくなって すきとおってくる〉それを見つけて、洞穴にため込んでいます。ため込んでどうするの、と尋ねられたタツノオトシゴは、時々眺めに行く、そうすると、頭がすっとする、と答えます。貝の子は〈たつのおとしごちゃんは おとな? こども? どっち?」と尋ね、タツノオトシゴが「おとなだよ」と答えると、じゃ、と、さらに違うものを探しに行きます。 最終的には、寂しさや競争心ばかりを見つけて、疲れ果てたあげくに貝の子は死んでしまう、のですが・・・見たことのないもの、を見るために、命をかけて無謀な旅を続ける、そんな貝の子とは、何者なのだろう、と、しばしば考えます。 〈猥雑な酒場〉〈訣別の半旗〉といったフレーズや、〈しなやかに梳く制度の指〉というような暗喩、なんとなく、学生運動期の詩世界を連想してしまうのですけれども・・・〈老婆よ〉というような、ハイトーンの呼びかけも含めて・・・当時の文体をリバイバルさせ、現代に蘇らせた、という印象もありました。 全体に、一定の張りつめたトーンで格調高く詠われていく、その強度と、扉を開けたらそこに青空が〈立っている〉かのごとく立ちふさがっているイメージ・・・摩天楼の廊下の突き当りの扉を開けたら、すぐそこに空がある、ような・・・鮮烈なイメージから、詩論的な、詩を生み出す、ポエジーを求めるとは、なんぞや、的な問いかけをしつつ・・・一気に地上の喧騒にまで滑空していくようなスピード感。老婆と少女の関係性がちょっとわかりにくかったのですが、あえて少女は老婆の内面性である、と読みたい・・・かつてみずみずしい海をたたえていた、詩人の内面のアニマ(である少女)、いつしか老いて老婆となってしまった少女・・・あるいは、しばしば老賢者と言われる、心の中のもう一人の私・・・私の影として対置される存在・・・などと読みたい、ような気持ちにかられる、けれど・・・解釈すればするほど、わけがわからなくなるので(意味もないので)、シェイクスピアの詩劇の中に現れる老婆(魔女的な)イメージの画像として、受け止めたいと思います。 そんな画像を次々に鑑賞してくような、そんな映像的な感覚がありました。 〈休止符はわたしの譜面に死をのせる〉残された時に、あえて死を置いて行くこと(意識化していくこと)によって、あえて生を凝縮していく、輝かせる方向に立ち上げていく。そんな意志の力を感じます。
0よくまとまった詩だと思いましたが、老婆と少女。白髪と言うのは老婆と言うのかお婆さんの言い換えでしょうか。何かよくまとまって居るという印象を持ちました。
0まりもさま 全編にわたる正確かつ緻密な読み、ありがとうございます。 これだけ正確に作者の思うところ(時には作者でさえ、まだ無意識の作為であったところも含め)を述べていただくと、そう付け加える部分もなさそうですが、ご感想を読みながら書いていきます。 マグリット!!確かに大好きな画家で、若い頃に嵌っていた記憶があります。言われてみれば冒頭2行などは天から降ってきた言葉でしたが、そういう深層イメージが言葉になって表出されたようにも思えます。(あまりにマグリット的ですよねw) 〈言葉は二重の雲をかかえ 越えられない岩壁を瞬いている 唇から落ちる偽装の飛沫 取りそこねた水底のあおいガラス〉 この箇所を詩論と解釈いただいたのも、なるほどという思いで読ませていただきました。 勿論、本人は詩論でなく詩を書いたつもりですが、結果、たしかに詩論になっている。 そして解釈もまさにドンピシャ!! そうなのです。この詩はびーぐる34号投稿用として作り入選しましたが、この当時は超スランプで、自分の詩や詩作に対する姿勢を考え詰めていた時期でした。必然、その考えが詩論っぽく表出されたのでしょう。 >茨木のり子さんの唯一?の童話、『貝の子プチキュー』 読んだような、読んでいないような(笑 機会をみて図書館で借りてみようと思います。 何かよさそうな物語ですね! >〈猥雑な酒場〉〈訣別の半旗〉といったフレーズや、〈しなやかに梳く制度の指〉というような暗喩、なんとなく、学生運動期の詩世界を連想してしまうのですけれども・・・〈老婆よ〉というような、ハイトーンの呼びかけも含めて・・・当時の文体をリバイバルさせ、現代に蘇らせた、という印象もありました。 このあたりは、おっしゃる通りまさに70年代です^^ この時期、再読していた清水昶の影響も色濃く出ているのではないでしょうか。 >あえて少女は老婆の内面性である、と読みたい そのつもりで書き込んでいます。 まあ、シェイクスピアの魔女というとすぐ思い出すのは、マクベスの 綺麗は汚い 汚いは綺麗 綺麗は汚い 汚いは綺麗 さあ飛んで行こう 霧の中 汚れた空をかいくぐり ですが、そこまでは意識していませんが、イメージはどこか繋がっているかも知れませんね。 生と死の考察、と言っては大上段に構え過ぎかも知れませんが、押しつぶされない程度に煮詰めていくことはライフワークではあります。意志の力、このお言葉は嬉しいです。(ニーチェにあったけ?) エイクピアさま 初めまして。ご感想をありがとうございます。 「おまえ」が2回出てきますが、ちょっと分かりにくかったと思います。 最初は、当然老婆を指していますが、2回目は作中主体なので、白髪は老婆のではなく作中主体(ほぼ作者)のものです。 ここは、分からなくて当然かと思います。別の表現に変えるべきだったかも知れません。
0花緒さま 70年代新宿ゴールデン街、入り浸っていました^^ 詩とはこういうものだ!は褒め過ぎですが、何か感じていただけたのなら嬉しいです。
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