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家族がいた
家族がいた ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2716.7
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 33
作成日時 2019-12-18
コメント日時 2020-01-31
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 13 | 13 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 10 | 10 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 33 | 33 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1.3 | 0 |
前衛性 | 3.3 | 3.5 |
可読性 | 1.3 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2.5 | 2.5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 8.3 | 8.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
鈴木夜道さん、こんにちは。 これはすごいですね!絵から伝わるものが溢れんばかりです。題名が過去形。懐かしく、かつ怖い。名前の記された人物とそうでない人物、関係性の疎密。「わたし」の不在。絵の作者の「わたし」の肉体の存在感。大きく強いのに、中身のわからない感情が伝わってきます。 アートですね。
0スマホのちいさな画面で、最初にみたときは、人影らしきラインが 人影ではなく、家系図のラインに 見えたんです。 人影と、気づくと 何やら せまってくる感じがしました。作者には 面影が うかんでいそうな感じが肉迫して、せまってくる感じが、しました。
0みなさま ありがとうございます 右肩ヒサシ さん どうもこんばんは。 写真作品の表現としまして 「ファウンド・フォト」を使った手法があります。 いわゆる無名の素人が、作品然として構えず 表現しようとせず、撮影者本人と その周辺者にしか知り得ない 被写物の背景や意図が不明確な写真。 それらのかえりみられない写真群を 他者が「発見・読解・再設定」することで 不価値/不可知だったものの可視化し同定する というこころみであります。 原型となりましたのは 70代のさる親族より届いた 一枚の集合写真をくるんでいた薄紙に 描き込まれたメモであります。 縁の遠い親族・係累たちの写真などよりも このメモ書きに強い衝撃と哀切をおぼえ フィルム写真におさめましたが 現物はとうにありません。 メモの示す集合者のなかに もちろん私は存在しませんが 血のつながりの薄い縁でしかない私に 見えなかった係累の縛りを認識させるとともに 今生で繋がった何かの縁を取り結ぼうとする その親族の心情が手書きの描線に染み込み 訴えるものがありました。 『中身のわからない感情』と おっしゃいますように その心情の中身がわかるようでわからず わかろうとすると、いささか うそ寒い気持ちにもなってしまう 奇妙な「詩」となって読めてしまうのです。 真清水るる さん ありがとうございます。 たしかになで肩のシルエットたちは 重なって系図の線のようですね。 これだけ個別の選択・遺志の自由が 敷衍しかけたような自由社会のふりをしながらも 我々は何かにとらわれることへの渇望が 何かのコンテンツに 死ぬまでとらわれつづけられたいあせりが そうでもしないと この長い人生をやり過ごせないという、おびえが いま我々を悩ませている気がしてなりません。 yamabito さん 怖いですよね。 いよいよ手書きの書画を見るだけで 何かのマガマガしさを感じてしまうほどの 時期になりましたよね。 今はまだキーボード入力ですが そのうちその指の動きすら 気味悪がられる時がくるのです。 声にも出さず 念じただけで詩がつむがれる時代を 歓迎しないのは老害者となるでしょうね…… メリークリスマス
0これは詩として扱って良いのか!? という戸惑いがあって今まであえてコメントを行わなかったが、やはり引力は凄まじくこの度負けて書くことにしました 線のにじみ具合が測れない時間を表し、言いようのない不気味さを演出している。ネットに転がっている出所不明の恐怖画像を見ている気分。いやあ引力が凄まじい凄まじい。
0渡辺八畳 さん 当作をお取り上げくださいまして ありがとうございました。 そのご慧眼への心服 増すばかりであります。 心のアンバランス 精神の変調が日常にある人々が 極私的な営みから産み出すモノを 「表現」として他者がとらえなおした 『アウトサイダー・アート』は 広く認知されつつあります。 他者からの承認や 評価を得るための表現ではなく 心の自足と発散の手段としての表現。 しかし、 そのやむにやまれぬ情動すら透過しないで 偶然に産み出されてしまう「表現」が ありうるのではないか。 旧くは、路上観察者が見出した 『トマソン』として知られる 意図しない、もしくは 意図とは別次元に放射される エネルギーの産物などがありますが はたして詩の領域で そんな「観察」は可能なのか。 まるで弓道における奥義のごとく 当てたいという意思を無にして射ることで 暗闇のマトでもその正鵠を射る。 無心になって詩を詠まずにして詩を詠む…… そんな古武術・禅問答まがいは止めて レトリックぎらぎらの創作ラーメンみたいな詩や 武者小路実篤の詩のごとく 自由で平明でただの日記みたいな 恬淡とした境地への切磋琢磨ができればいいものを 俗欲まみれの陰茎をぶら下げた凡夫のまま 〽︎ カネがほしくて はたらいてぇぇ ねむるだけぇ… の日々が過ぎていきます。 しかし、自分と詩の接点がつかみきれてこない。 詩的にこの世界とどう接するのか。 虚構と自分という自然との折り合いの困難さ。 思いつめて鼻くそほじってるうちに かつて60年代末から70年代中ほどまで 日本美術界である位置を占めた 「もの派」という動きが気になってくる。 土を盛り上げただけ 木材・石・鉄片を並べただけ 組み上げただけ カンバスを塗っただけ… ミニマル・アートとも またちょっと違ったアプローチ。 ただの自動書記的でもなく シュルレアリスティックに書き並べるでもなく 詩という形式があってこその詩ではないかという まっとうなフォーマリズム《形式主義》は 否定せずに 詩ではないものからへの詩情の接続。 はたして吉と出るか凶と出るか。 もう今年の一月が終わってしまう。
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