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霜月
枯れ草を踏みしめて ふみしめて 白い呼吸 山塊にさんかいに わけいって 青い霧 季節が死ねと私にいうから 突っ立ってるだけで生きなきゃなんない
霜月 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1543.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 12
作成日時 2019-11-07
コメント日時 2019-11-15
項目 | 全期間(2024/12/22現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合ポイント | 12 | 12 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 2.5 | 2.5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2.5 | 2.5 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0.5 | 0.5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0.5 | 0.5 |
総合 | 6 | 6 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
>季節が死ねと私にいうから 個人的にはこの一文で詩がわかった気がしました。素直にそのまま読んで、時期もそのまま秋から初冬にかけての詩と思いました。 僕のように人生の大体の瞬間が悲しい思いで彩られていたタイプの人間にとっては、もの悲しい感覚でさえほとんどアイデンティティみたいになって捨てきれないという気持ちになるときがあります(思い出のペンダントとか皮肉を言われて、めちゃめちゃへこんだりするのですが…)。そういう人間にとって秋というのはなかなか厄介な季節で、このくらいの時期に抱くネガティブな灰色の感覚が捉える特有の情緒が、自らの人生の積み重ねによって得られたのか、寒さによって誘導されたのか見分けが付きにくいのです。自ら主体的に生きて、悲しい人生にも積極的に情緒的で豊かな瞬間を見出しているのか、それとも秋という季節に情緒を感じさせられているに過ぎないのか……もし後者だとすれば、もはやそんなものは情緒でもなんでもなく、もし後者だとすれば、彼の主観とはただ環境に誘導された結果に過ぎなくて、零度になったら氷になるH2Oのようにただ世界に従うだけの虚しい生だと思ってしまっておかしくないかもしれません。 そういうわけで彼は、人間性の証明のために結果として自らに向き合わなくてはならなくなるし、しかしそれではかえって人間性の反証にすらなりかねない。……と、そういうことが表現された詩なのかなあと思いました。 漢字とひらがなの使い分けがちょっと気になりました。同じ文をそのまま続けるとなんとなく不格好な感じに見えたりもするのですが、ひらがなに変えたりするとそれはそれで気になります。でも音読するとやはり繰り返しは欲しい、みたいなときがあって、どうすれば良いんだろうなあ、と悩んでいます。(しかし、斜めに撮られた写真に向かって「どうして斜めにしたんですか?」と尋ねるのと同じくらいに無粋なことをしてしまっているかもしれませんね。。)
0いすき様 > コメントありがとうございます! たくさん読み込んでいただきありがとうございました。 ええ………ほんとに厄介な季節ですね……私達はそれでもはるか昔からこの移ろいと共にありました。とりわけ日本に生まれ育つと、どうしても春夏秋冬季節の変遷に身体も心も引きづられるものだと思います。それは私たちが脈々と受け継ぐ日照時間と気候変化に伴う適応です。 それに逆らえるものなら逆らいたいですね、秋とは、強制的に私をセンチメンタルにひきづります。 そして、朝冷たい山の空気を吸った時、熱源が己自身しか無いことに気がつくのです。私は私が熱源であり続けない限り、季節は私から熱を奪い続け、死になさいと言うでしょう。 ただ、熱源であるだけで、私たちは自然に抗って人として立っているのだと思います。 辛いこともあるけど、生きたい。私はこの季節強くそう思います。 平仮名と漢字の併用は、山に分け入る語り手の、息遣いを意識しています。浅い呼吸と深い呼吸の緩急を、一応、文字表現に落としてみました。 この表現が正解かはわかりませんがね。 余談ですが、種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」という俳句を思いながら書いた詩です。たくさん解釈をしていただき本当にありがとうございました!
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