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二人の老人と僕
なんで僕を誘ってくださったのかな あの小さなバス旅行 僕にとって忘れられない 今あなたたちにとってはどうなのでしょう あの岩壁 あの厚い波 あの淡い色の山々 あの花々 あの古い名の知られたリゾートホテル あの昭和の風情がたちのぼるロビー 僕はあれらが好きだ 今でも あなたたちは二人の老人でした 地位や権限を持たなかった 同じ職場の二人の老人でした そして僕はたくさんの若造のうちの一人でした 僕はあの時もあなたたちほど純朴な人間ではなかったと思う 気難しくて 勉強家で 遊び人で でもみんなにはとても親切で明るかったはず そのためかな 僕を誘ってくださったのは まだお元気ですか 二人とも 退職されたあなたたち 職場を変えた僕 僕は未だ一人で暮らしています 旅行なんて行ったりしません 伊豆をめぐったあの一日のバス旅行 思い出せば胸が締めつけられるよう なぜって僕はあなたたちみたいな謙虚で素直な人間ではないと思うから なんだかあなたたちをだましていたみたいで 本当の僕を知っていますか あの時僕が心からは楽しいとは感じていなかったことを知っていますか 僕は感情を表に出せない人間で お二人に無礼があったのではないかとやや不安なのです 本当の僕を知っていますか 傲慢で だらしがなく 好色で 浪費家 でも伊豆の風物をあなたたちとともに見てまわったことが 僕の忘れられない思い出であることに偽りはないのですよ 思い出は胸いっぱいに広がる 人生の一コマであるにとどまらない それは人生の全部 僕はあなたたちの長い一生を連想する 写真をたくさん撮りましたね 僕のカメラで 僕は現像してあなたたちに配りました 僕たち三人それぞれ好きな写真が違いましたね たくましい風景 繊細なもの 懐かしい建築 僕はあなたたちの現在の消息にはほとんど関心がありません あなたたちは生きています そして生き続けます 僕の胸に あなたたちがくださったやさしさがこの胸に染み出すたびに 生来僕が持つ禍々しい性根は消えて 正しい透明な思いが湧き出すのです
二人の老人と僕 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2911.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 21
作成日時 2019-10-12
コメント日時 2019-10-22
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 11 | 10 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 2 | 2 |
構成 | 1 | 1 |
総合ポイント | 21 | 20 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1.4 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0.6 | 1 |
エンタメ | 0.1 | 0 |
技巧 | 0.1 | 0 |
音韻 | 0.3 | 0 |
構成 | 0.1 | 0 |
総合 | 2.6 | 2 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
yamabito様、コメントありがとうございます。 多くの人々と同じように、私も、過去の思い出に美を見出し、しばらくの間それで胸がいっぱいになることがあります。そして私はこれを作品化したいと思ったりするのです。着想から完成まで時間はかかりませんでした。今回は、私にとって、美はこれからさらに作り出すものではなく、すでに十分にあるものでした。あたかも二人の老人によって洗われたような心で、力まずに、静かに素直に書いていきました。レトリックという語は、思えば簡単な語ではありませんが、この拙作の、このような成り立ちが、レトリックの色合いを薄くしているのでしょう。
0比喩が徹底的に削ぎ落とされた、柔らかくも固くもない文章。詩というよりは思わぬところから発掘した手紙のようななまぬるい時間が流れる情緒があって、こういうの書くの逆に難しいなあと思います。あたたかいですね。 ひとつ言うとすれば、「でもみんなにはとても親切で明るかったはず」のところ、自分で言っちゃうのかいという図々しさのようなものが感じられて違和感がありました。
0>僕はあなたたちの現在の消息にはほとんど関心がありません と語り手本人が語っているように、語り手はおそらく心の底ではこの二人の「老人」には本当に興味がないのだろう。自分自身の性格の裏については告白しておきながら、その二人の「老人」たちもまた、自分には見せない顔があるかもしれない、ということには一切目もくれず、ひたすら二人の「老人」との思い出を美しく懐古することによって、物事を心から楽しいと感じられなくなった「悲しい」自分を間接的に美化するこの心理構造は、一種の自己憐憫とも自己陶酔とも読み取れるが、そのような心理構造はこの作者のかつての作品から一貫して見られるものであり、そのことを非常に興味深く思う。普段なら個人的な好みから、そのようなメンタリティーは嫌悪の対象としてしまうのであるが、南雲氏の作品を継続して読んできて、そのように唾棄してしまうのはとても惜しい気がしている。確かにこのような美化された自己憐憫的感傷はどうしても肌にあわないのであるが、この感傷はどうやら作者の奥深くの通奏低音なのではないか。それゆえに例えば「感傷を客観的に提示できていない」などと批判することが非常に憚られるのだ。むしろ南雲氏の作品が、なぜこうも自己憐憫的なのか、作者の生い立ちはどうだったのか、作者はその生い立ちにどう向き合ってきたのか、どうしてそのような向き合い方をするに至ったのか、などなど、純粋に非常な興味をそそるのである(とはいってもそういった自分語りを聞きたい訳ではない。) もしかしたら、このような感傷の断片を「美しく綺麗に」表現しようとするより他に、作者の核を説得力のある仕方で表現する手段があるのではないか、という気がしている。少なくとも、上記で述べたように非常に自分中心の作品として読める(他者でさえ自分を飾るための道具に過ぎないほどの)ということにもっと自覚的であっても良いのではないか。そのほうが断然面白くなるのではないかと感じた。例えばタイトルが「二人の老人と僕」ではなく「僕の正しい透明な思い」に変わるだけでも、読み方は全然変わってきて随分と空恐ろしい寒気のするような作品になったかもしれない。つまりは、やはり「感傷にどこかで客観性を持たせないけない」といっていることになってしまうのであるが、こういうのをおそらく自己矛盾というのである。
0夏野ほたる様、コメントありがとうございます。 いわゆる詩的なもの、比喩とか象徴、これらだけではありませんが、こういったものは、私には向いていないのかなと思います。こういったものを積極的には書き込まないように、半ば自然に、意識して書いていく態度が私には身についているようです。それは私がランボーとかマラルメとかトラークルを卒業してしまっているからと言えばよいのか。もちろん私は彼らが好きです。でも、彼らと同じことをしても仕方ない。また、他にたくさんの詩人によってさまざまな詩が書かれています。そういった人たちとも同じことをしたくない。それで私はできる限り多くの詩に触れようと努力しています(ビーレビにはオリジナリティが溢れています)。 『二人の老人と僕』は、夏野様がおっしゃるとおりで、比喩を抑えています。「こういうのが書きたかったんですよ」と、私はツイッターに言い添えました。 これを書くのはそれほど難しいとは思いませんが、まあ、私だから書けたものだと思ってはいます。書き手はめいめい個性を発揮するものです。 >でもみんなにはとても親切で明るかったはず のくだり、ここは現実に、 「あなたって、分け隔てなく人とつき合うのね」 と、女性上司から言われたことがあるので、自負して書き込みました。客観的に見れば、ちょっと図々しく思われもするでしょう。
0このようなノンフィクションの美しい思い出に、レトリック などは無理に必要ないと、私も思います。 ただ、少し違和感を感じた部分があります。 >気難しくて 勉強家で 遊び人で このなかで、勉強家というのは、むしろ好ましい性格ですね。 >心からは楽しいとは感じていなかった >僕は感情を表に出せない人間で >お二人に無礼があったのではないかとやや不安なのです このながれでは、僕は感情を表に出してしまう人間で---のほ うが自然のような気がします。 またよいと思ったのは、--僕を誘ってくださった--からには旅 費などを二人の老人が負担したと思われるので、その強い動機 が必要になりますね。そこで >でもみんなにはとても親切で明るかったはず ここを補強して、-でも勉強家で みんなにはとても親切で明る かったはず---と、ここで勉強家という性格を追加したらよいの ではないかと思いました。
0survof様、コメントありがとうございます。 コメントとは言っても、拙作に対するかなり細かい批評をいただいたという理解でいます。あるいは対話となっても良いと思うので、確認を交ぜつつ返信を書きたいと思います。 この『二人の老人と僕』は実話です。実話と言っても、僕の心から見た実話ですが。僕は、二人の老人との間に遠い距離が存在しているのを感じています。劣等感と言ってもいい遠い距離が感じられるのに、二人の老人が親しくも僕をバス旅行に誘ってくれたことに、とまどいを感じています。そしてしかも、そのバス旅行が、忘れられない美しい思い出となっているのです。この言い難い感性の構図を僕は書いたわけです。この構図の中で僕は自己陶酔、自己憐憫、感傷的心理の状態にあるとsurvof様は読まれたという理解でよろしいでしょうか。 このように理解されたとしたならば、僕としては、残念ではありますが、survof様の好みに合わなくとも、その通りであると言うだけです。そして、survof様のコメントの要点は、コメントの別の部分にあると見えます。 >南雲氏の作品が、なぜこうも自己憐憫的なのか と書かれています。 しかしながら、僕の自分語りは不要とも言われていますし、僕自身でも、自分で作品化しない事柄を語ろうとは思いません。 >もしかしたら、このような感傷の断片を「美しく綺麗に」表現しようとするより他に、作者の核を説得力のある仕方で表現する手段があるのではないか、という気がしている。 survof様はコメントの後半でこのように提案を開始しておられます。 その内容は僕にとって難しいものです。これだけ感傷的に表現をおこないながら、客観性というものをどう織り込むのか。徹底的に主観的な表現をおこないながら、感傷を排することができるのか。 このようなことを考察するのは、しかしながら、悩ましいことでありながらも、制作する上で、通過してみたいことではありますが。 慌てて書いたので、変な部分があるかもしれませんが、寛容な心で読んでいただければと思います。
0ご返信ありがとうございます。 >この『二人の老人と僕』は実話です。実話と言っても、僕の心から見た実話ですが。僕は、二人の老人との間に遠い距離が存在しているのを感じています。劣等感と言ってもいい遠い距離が感じられるのに、二人の老人が親しくも僕をバス旅行に誘ってくれたことに、とまどいを感じています。そしてしかも、そのバス旅行が、忘れられない美しい思い出となっているのです。この言い難い感性の構図を僕は書いたわけです。この構図の中で僕は自己陶酔、自己憐憫、感傷的心理の状態にあるとsurvof様は読まれたという理解でよろしいでしょうか。 その理解であってます。他の方もコメントで言及されていますが、例えば自分で「でもみんなにはとても親切で明るかったはず」といってしまう、図々しさ。とにかく語り手の関心が徹底的に自己に向けられていると云う点を自己陶酔、自己憐憫、感傷的心理という言葉で表現したのですが、語り手の関心が徹底的に自己に向けられているわりには、そのことに無自覚であるように読めてしまうのです。その自覚に対して客観性という言葉を与えてコメントしました。つまり客観性を織り込むことは必ずしも感傷性や主観性を排除することではないと思います。 南雲さんは嫌い作家であると以前おっしゃっていましたが、太宰治のの自分語りが面白いのはそこに徹底的な自嘲があるからだと思っています。つまり自分語りをしているような作品においては、自分の関心が自己に徹底的に向いていることに自覚的であることが彼の文章からは痛いほど伝わってくる。 そうした自覚の差異が読者にとっては内容が入ってくるか、入ってこないか、に大きく関わってくるのではないか、と感じました。
0st様、コメントありがとうございます。 >気難しくて 勉強家で 遊び人で この箇所での「勉強家」は、「気難しさ」につなげて、あまり好ましくない意味で使った語なのですが、私自身でも、読む人に分かりづらいかもしれないと思ってはいました。 >本当の僕を知っていますか >あの時僕が心からは楽しいとは感じていなかったことを知っていますか >僕は感情を表に出せない人間で >お二人に無礼があったのではないかとやや不安なのです この箇所も、混乱が感じられる部分です。欠陥かなと自分で思っています。 「本当の僕」の感情は「楽しいと感じていない」、あるいはここに付け足すのですが、「楽しいのか楽しくないのか自分でも分からない」という感情ですので、それを「表に出す」と、余計「無礼」です。 ここは「僕」が内に感情を秘めがちで、「良い感情」も「悪い感情」も「表に出せない」不器用な人間であることを記した部分です。
0再びsurvof様へ 議論を整理すること、深化することをやってみたいと思うのですが。 まずは作中で、単に僕が自己陶酔、自己憐憫、感傷的心理にとどまらない、「自嘲」的部分、自己の恥ずかしい性質、負い目を述べるところを引用列挙します。 >気難しくて 勉強家で 遊び人で >思い出せば胸が締めつけられるよう >なぜって僕はあなたたちみたいな謙虚で素直な人間ではないと思うから >なんだかあなたたちをだましていたみたいで >本当の僕を知っていますか >傲慢で だらしがなく 好色で 浪費家 >生来僕が持つ禍々しい性根は消えて これらの箇所は、僕の関心が主観的に自己に向けられているのと同時に、自己のマイナスの性質に客観的に自覚的であることを示してはいないでしょうか。どうでしょう。
0ご返信ありがとうございます。 確かにこれらの表現は自己に対する否定的な表現といえると思います。で、そこから先の印象として、そういった「禍々しい性根を持った自分」をどこかでひどく愛しているようなそんな印象を持ってしまうんです。つまり「「禍々しい性根を持った自分」をどこかでひどく愛している自分」に対しては無自覚であるように読めてしまう、というのが私の個人的な感想でしょうか。もちろん人によって大きく異なった印象をもたれる方もいらっしゃるかもしれません。
0survof様、要らぬ報告かもしれませんが、Kindle版『人間失格』を買いました。これを少しずつ読んでいこうと思います。
0「人間失格」は面白いですが、太宰作品の読み始めとしてはあまりおすすめしないかもです(多分、これから読み始めると太宰嫌いになります、笑) デビュー作の「晩年」や「女生徒」「新樹の言葉」「新ハムレット」「パンドラの匣」あたりの中期作品あたりから読むのがおすすめです!! で、いろいろな初期、中期の短編のなかに「人間失格」の種みたいなものがパラパラ撒かれているので、ある程度背景をおさえてから「人間失格」読むと印象が多分全然変わってくるかと思います!!
0survof様、今日、新潮文庫の『晩年』を買いましたよ。おもしろそう。これから読み始めます。とても楽しみです。食わず嫌いだったかもしれません。が、読みたいという強い動機も今までなかったので、後押ししてくださり、ありがとうございます。
0温かみがあって優しい気持ちになれる 作品だと思いました 「僕はあなたたちの現在の消息については」 の部分ではもしかしてもう亡くなられている とおもったのですがその後の「あななたちはいきている」 で主人公にとってこの思い出は重要だった ことが分かってまた温かいきもちになりました
0福まる様、コメントありがとうございます。 温かみがある、優しい気持ちになれるとの感想、とてもうれしいです。 ちょっと複雑な性格の主人公です。もしかしたら薄情さを、読む方に伝えてしまうかもしれないと心配していたのですが、優しい面をくみ取っていただけてよかったです。
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