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午前五時の群青
夜を侵す目映さに 君を見失う午前五時 立ち尽くす僕の影に 群青は消えた 闇の中踊る街 僕の眠る場所が無い 部屋の片隅 褪せた写真が 燻んだ心を慰めた 放り投げた感傷が 星屑となって落ちてくる 楽園を追い出された二人は どこに行けばいいの 貴方となら死ねる 君は嗤うけど 波打ち際 弱い僕は 必死にもがいてる 夜を侵す目映さに 君を見失う午前五時 二人の間流れる調べは 絆を絶つ冒涜の歌か 空を仰ぐ瞳の中に 最後の明星が見える 立ち尽くす僕の影に 群青は消えた
午前五時の群青 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1417.3
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-02-11
コメント日時 2017-03-12
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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技巧 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
真夜中に眠ることの出来ない人びとは午前3時になると、詩を詠んでみたくなる。これは、定説です。しかし、午前5時の定説を私は知らない。 もしかしたら、当作品「午前五時の群青」で語られる消失感が覆う世界なのかもしれない。一読した印象としては、感情が全体を支配しており、真夜中に読むとまた受ける印象が変化するかも。少し、読者からの欲を言えば、真昼に読んでいても暗闇に連れ込むような、街を急変させる雪雲のような、強引な作者の意図が薄いかなと、私の主観ですが、そんな気がしました。なんか、でも、いい。是非、今後とも。
0あくまでも個人の感想なんですが、この詩は第二連からスタートしても良かったのではないでしょうか。そして最終連の「二人の間〜最後の明星が見える」までを第三連として、第一連を最終連にする構成が私にはしっくりくるのです。 ちなみに今の季節なら午前五時は闇の中ですが、谷山浩子の「てんぷら★さんらいず」では新宿駅のホームに赤い朝陽が散らばる時刻であります。
0この作品のいい所は群青がちゃんと消えた所。それを僕が綺麗だなと思えた所。それだけだと思うし、そこにポエジーがあると思いました。真ん中二つの連は、そういう意味で情景としては、僕には弱く見えるけど、そういう所を覆すくらい群青が綺麗。ストレートで心に響きました。心動かされた。
0「午前五時」について皆様もご意見を寄せておりますが、この時間に対する意味合いはこの詩の中で表されているので、説明してしまうとその意味合いが色褪せてしまうことがあることを承知で、僕なりに読み解きます。 この詩における「午前五時」は、夜と朝の狭間です。夜でも朝でもなく、「立ち尽くす僕の影に/群青は消えた」時間でしかありません。夜の時間帯は、日の光がなく、僕に影はできませんが、朝、日が昇ると僕の影が現れると同時に、「闇の中躍る街」が照らされて、その闇は消え行きます。つまり、街は闇の中で踊っていたと同時に、闇は街の中を覆っており、現れゆく僕の影にその闇が集約されるように消えてゆく、その瞬間が午前五時なのでしょう。 僕の影も街を覆う闇も僕の意思で動かせるものではありません。午前五時以前は、ひたすら闇に覆われているわけですが、その闇を照らすものが唯一「星屑」なのでしょう。ただ、その星屑は闇を振り払うほどの力はなく、また、僕にとっては決してよいものではありません。闇が僕の意思で動かせるものではないと同時に、それを振り払うためにも僕の意思とは関係なく訪れる午前五時を待つことで、その闇=群青が消えたのでしょう。 また、この僕は闇を振り払う希望を見捨ててはいません。「空を仰ぐ瞳の中に/最後の明星が見える」のですから、おそらく僕を照らすことによって、僕の影が現れ、群青が消える。僕の影があるということは、同時に、僕を照らす何かがあるということ。 必死にもがきながらも何かを諦めきれないでいる僕。確かに必死にもがいているのですが、時には僕の意思とは関係ないものに希望を託すことで、状況は好転するのかもしれないですね、そんなことを感じさせられました。
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