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ピアノ
いまはすべてのきみの時間が追憶となった 岸辺に鳴るのは水音か、山鳩か 梢をわたる空の風 爽やかな驟雨が降っている寂しい初夏の日 窓を閉めなければならなかった 雨が窓枠を内、寄木造の床と肘掛け椅子にしぶきをはねかけていた きみはピアノを弾いていて 六月の雨が窓を打ち続けるなかで フーガの狂瀾を通じてきみの指輪が鍵盤に音を立てた きみが輝かしいさざなみに指を押し当てるとぼくはこころを安らぐような感覚を覚えた 雨よ、雨よ、雨音を音楽でかき消そう ほとんど毎朝、ぼくは自転車の楔型をしたサドルに飛び乗って君のもとに向かった きみの灰色がかった屋敷の光のなかできみの榛色の眼、軽やかに波立つ睫毛を 耀く緑髪は光と黒い鳥たちとに照らされて周りで震える空気と混ざりあって溶けるかのようだった きみの愛は静かなものだった でも、ときおり、きみの中の何かが破裂して飛び出してくることがあった そんなとき巨大なベヒンシュテインが轟くのだった きみの手をぼくは覚えている、蒼い静脈が見えるような白くほっそりした指の長い手だ 愛の何週間かが過ぎると ぼくたちの間にぼんやりとした何かが生まれていた 雨が降り、きみが思いかけず見事にピアノを弾いた幸せな日々に それがはっきりとした形をとった ぼくにはわかったのだ きみにはぼくを思い通りにする力はない ぼくは白樺の木の輝かしい樹皮に眼をやり、自分が持っているのは 手ではなく、小さな濡れた葉に覆われ傾げられた枝なのだ はるか彼方で轟いている滝と 小道でさらさらと音を立てている長い金のしずくの両方をぼくは感じ取っていた 空を覆った蒼い瑪瑙、噴出された脂の匂い ぼくは自分自身をすべて自然のなかに注ぎこみたかった きみはうっすらと笑みを浮かべて、雨の後っていいわねと言った 凪いだ風、上には太陽、樹々がわななき、ぼくのこころは震えていた それはこんなふうに起こった ぼくたちは友人の家に向かった ぼくたちは工作室に通された 彼は大工仕事をしていて、膠とおがくずの気持ちのいい匂いがしていた 彼の部屋に移ると、そこは日当たりがよく、ちょっと狭苦しい感じだった ビスケットとお茶を飲みながらぼくたちは話をした 友人宅を出て橋を越えきみの家への上り道を登っていたとき きみは煙草を吸いたくなった なんてお馬鹿さんなんでしょう、シガレットホルダーを忘れてきちゃったの ねえ、あなた、ひとっ走りして取ってきてちょうだい、煙草が吸えないもの ぼくは笑いながら、きみのひらひら動く睫毛とうっすらとした微笑みに口づけをした きみが出迎えたのは、庭園の舗装された部分、ベランダの階段の脇だった わたしの留守中に主人が町からから電話してきたの、十時に帰るんですって 何か起こったに違いないわ、でも誰かが告げ口をしたらどうしようとか もうどうでもいいの、わたしがどんな決心をしたかわかる、聞いて あなたなしでは生きられない 彼にはっきりとそう言うわ すぐに離婚を認めてくれるでしょう シガレットホルダーを取ってきましたよ 肘掛け椅子の下に落ちていました わかったわ、もう行って きみは背を向け、足早に階段を駆け登った きみには拷問のような苦しみだったに違いない ぼくは甘みを帯びた陽気のなかに佇んでいた ぼくはきみのところには戻らないだろう きみの家は、翼の生えたピアノや、何巻もの芸術評論や 額縁に収められた影絵などとともに、素晴らしく憂鬱な彼方に去っていった 川に行くと友人が釣りをしていた 釣れますかと、僕は訊いた 彼は僕を見上げ感じの良い気取りのない手振りで答えた ぼくは固く押し込められた小道を通り農民の丸太小屋の前を通り過ぎた 森の水辺、すべての心を離れて自分を塗り込めよう もっと先の会堂の上、夕焼けの巨大な広がりのなか 微かに霧の立ち込めた草原の真ん中には沈黙だけがあった ぼくの心は黒い鳥たちと、風に、包まれてゆく 大樹の茂る森閑たる林から動物たち、馬や犬、蛙たちの声が幻覚に似たピアノの音のように聴こえてきた
ピアノ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1892.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 34
作成日時 2019-08-20
コメント日時 2019-08-22
項目 | 全期間(2024/12/26現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 6 | 6 |
前衛性 | 2 | 2 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 8 | 8 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 2 | 2 |
構成 | 6 | 6 |
総合ポイント | 34 | 34 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 6 | 6 |
前衛性 | 2 | 2 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 8 | 8 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 2 | 2 |
構成 | 6 | 6 |
総合 | 34 | 34 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
小説を読んだような気がしました。 比喩もとてもよくできていると思います。
0gorokiさん コメント有難うございます。 詩も小説風に書けると思いますので そのひな形のようなものを作ってみました。
0誤>きみが輝かしいさざなみに指を押し当てるとぼくはこころを安らぐような感覚を覚えた 正>きみが輝かしいさざなみに指を押し当てるとぼくはこころが安らぐような感覚を覚えた
0誤>雨が窓枠を内、寄木造の床と肘掛け椅子にしぶきをはねかけていた 正>雨が窓枠を撃ち、寄木造の床と肘掛け椅子にしぶきをはねかけていた
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