作品を読む
「文学」って何?(第4回)(夢野メチタ氏『営巣』を読む)
題名は相変わらず『「文学」って何?』だ。私はこれからこの批評文のシリーズの4回目になるものを書こうとしている。3回目で私は、るるりら氏の『そらおそろしい』という作品を批評対象としたが、その批評のしかたに反省しなければならないことがある。それから、「文学」とは何かを今さら問うことの意義を読者から疑われた。 私は「文学」とは何かを問うことはまだやめられない。何より、「文学」という言葉を使用するとき、私はこの言葉についてよく考えてあるという状態でありたいから。 るるりら氏の作品を批評対象として私が書いた文は、崩した言い方をすると、「なになにを欠いているからこれは文学ではない」という結論を含むものであった。そして、この「なになに」とは、「作品の中に永久に癒えない傷があること」というものであった。これは多分に曖昧なものである。私はいずれこの曖昧性を解消しなければならないであろう。 批評のしかたについてであるが、私は今後、「なになにを欠いているからこれは文学ではない」という結論を出さない。そうではなくて、「なになにを有しているからこれは文学であるらしい」という結論を出すという態度で行きたいと思う。 さて、今回批評対象とする作品は、最近投稿された、夢野メチタ氏の『営巣』という作品である。私は今の段階ではまだこの作品を精読していない。斜め読みしたところ、おもしろそうだなと感じた。字数もけっこうあって、読んでみたら、なにかしら「文学」的なものを汲み取れそうだと感じた。これから読んでいこうというわけである。 まずは『営巣』の斜め読みをおこなったので、それで感じたことなどを書いてみる。 始め、「ぼく」は、そして読者は、「一羽の鳥」に突然遭遇する。この時点で、エドガー・アラン・ポオの『鴉』を思い出す読者は多いだろう。だが、模倣であるとは感じさせない、少なくとも私には。書こうとして、表現が他者のものと重なってしまうことはよくあることである。そんな場合、表現することをやめるか、続けるか、書く者の自由である。独自性を作品が持つならば、それでよいと思う。独自性を期待して、『営巣』を読んでいくことにする。 この作品は、「+」の記号により、五つの連に分けられている。 一の連は導入部だと思われるが、 >鳥の種類なんて分からないから例えようもないけど、 >「鳥ノ種類ナンテ分カラナイカラ例エヨウモナイケド、」とカサカサと羽音を立てながら、鳥は思ったことをそっくりそのまま輪唱した の箇所が痛快で、おもしろい。 二の連でも、この鳥の態度が、笑ってしまうほど、おもしろい。 >ここはぼくの部屋だ この「ぼく」の気持ちが、ちょっと強い色彩を持っているように感じられる。 この二の連も、導入部だと思われる。 三の連に、鳥は登場しない。 時制は、「半年前」になっている。 鳥との遭遇がいつのことなのか、疑問に思うところだが、ここではこの疑問は保留するより他ない。 ただ、 >1Kの廊下を占領するゴミ袋が笑い転げた雪だるまのように洗いざらい中身をぶちまけている とあり、それを、鳥のせいにする読み方が可能だと思う。 四の連でも、鳥がおもしろい言葉を連発して、その口調もおもしろくて、笑える。 しかし、この鳥を造型した作者には感服する。 連の最後の、 >「ボクラノ敵ハボクラ自身サ。ワレ思ウ、ユエニワレ在リ、ダカラネ」 は、インパクトがある。 五の連の最後にはこうある。 >「これからどこに行くのですか?」 >何度目かの質問を運転手に投げかけるが、白い頭は微動だにせず >前方に続く暗闇を静かに見すえていた 普通、運転手が発する問いを、乗客が発している。 運転手が、『前方に続く暗闇を静かに見すえてい』る。 そわそわしているのが、乗客の方である。 この立場の逆転がおもしろい。 以上が、私がおこなった『営巣』の斜め読みの感想である。 なんだか、もっと踏み込んで読みたい気持ちにさせる。 だからもう一度読む。 この作品の時制はどうなっているのだろうか。 私のとらえ方は、五の連の続きが、一の連なのだというものである。 謎めいたタクシーに乗って家に帰って来て、おもしろい鳥と遭遇するというものである。 このとらえ方が正しければ、話の展開に作者は工夫をしたと言える。 それから、このおもしろい鳥は、何をあらわしているのだろうか。 「ぼく」の思っていることを、わざわざ声に出して繰り返してくれるのだから、この鳥は「ぼく」の内面の反映であると一応は考えることができる。 この鳥と「ぼく」との対決は、「ぼく」と「ぼく」との対決であると、考えるのが自然だと思われる。 >「ボクラノ敵ハボクラ自身サ。ワレ思ウ、ユエニワレ在リ、ダカラネ」 という箇所も生きてくるというものだが、それを鳥に言わせている、この突きはなし方がおもしろい。 そして、この箇所が、時制としては、一番最後の時となっていると考えられ、この作品の結句であろう。 つまり、四の連が、結論部である。 『営巣』という題も、直接的にはここから来たと考えられる。 「ぼく」は『営巣』を成し遂げられないでいる状況にある。祖父の死は、「ぼく」や「ぼく」の母を不安定にさせている。 不安定を安定へと向かわせるための道具が、あのおもしろい鳥であると私はとらえた。 これからどうしたらいいかを思うありきたりな「ぼく」の状況を、巧みに客観化して描いた作品であると、私は考える。 『「文学」って何?』という問いに対する答えとして、私が、この『営巣』から引き出したものは、以下のように表現させていただく。 私は一個の「文学」を読んだ。 映画にでもすれば、おもしろいかもしれない。 が、文字によって表現されたものを読んだわけだ。この作者の記述力と、時制的な工夫を、私は称賛する。また、特に四の連における鳥のセリフなどは、感銘を受ける。 繰り返すが、 >「ボクラノ敵ハボクラ自身サ。ワレ思ウ、ユエニワレ在リ、ダカラネ」 のセリフは、日頃からものをよく考えていないと、なかなか書けないものだと思う。こんなこと簡単なことだと考える人もいるかもしれないが、巧妙なストーリー展開の中で、このセリフを埋め込むのは簡単ではないと思われる。 ともすれば奥の浅い作品に終わってしまいそうな作品である。それが、自己の客観化、豊かな想像力、すぐれた記述力によって読者をストーリーの中にぐいぐい引き込む力を有している。このことがこの作品を「文学」ならしめている要素であると思う。
「文学」って何?(第4回)(夢野メチタ氏『営巣』を読む) ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1831.3
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作成日時 2019-06-11
コメント日時 2019-06-14
南雲さん 丁寧にお読みいただき、また批評まで書いていただいてありがとうございます。自作の読まれ方に対して書き手として何か述べるのは、作品自体の可読性を制限してしまう気がして、あまりしたくないというのが本音ですが、せっかく書いていただいたので個人の感想として返信します。 書き手の私としては、時制のつながりや各連のつなぎ方、詩の仕舞い方に対して納得いってない点があったのですが、そこに対して破綻を感じていない(むしろ評価していただけている?)というのが意外でした。何かの偶然が作用して、うまい具合に連や行間の「空白」が埋まったのかもしれませんね。 書かれていない空白が読者によって自由に想像し得ることこそ、南雲さんのおっしゃるように「映画」ではなく「文字表現」だからこそできる文学的エッセンスの一端なのかもしれない、と浅い頭で考えた次第です。 ありがとうございました。
0夢野メチタ様、作者からのお言葉、ありがたく思います。 そうですね、作品の読まれ方については、作者は沈黙に近い態度でいた方がいいかもしれませんね。でも評文を書いた者としては、ひとかけら、作者からお言葉をいただけたことは、うれしいことです。『営巣』は味わい深い文芸作品だと思います。私の読み方に縛られず、たくさんの読者によって多様な読み方をして欲しいですね。
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