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声
道を歩く時、以前はオペラ放送をよく聴いていた。イタリア語やドイツ語、フランス語のオペラは意味が分からなくとも、繰り返し聴いていると自分自身が風景の中に、空の高みや森の暗がりに遊ぶように、いつもの道をドラマチックに歩くことが出来た。(勿論、鳥の声や自然のたたずまいに耳を澄ますだけの散歩も、それはそれでとてもいい。) けれども、歌の意味が音楽に沿って理解されると歓びはやはり倍加する。それで、オペラを収録したビデオから散歩用のテープに移す時、ビデオ画面の字幕を自分で小さい声で読んで音楽に、つまりオペラのストーリー全体にかぶせていった。こうして録音した全曲を数度聴くと、もう音楽だけで意味が掴めるようになる。ちょうど、自転車に乗り始める頃、後輪の両側についた補助輪で空中感覚を慣れさせたのち、補助輪を外すような具合に。すると、その言葉を厳密には理解しないにもかかわらず意味を帯びた音楽は、新しい姿を現した。それは、明確に一語一語を理解しないからこそのリアルであるとさえ感じられた。 * (声って飛び道具よね。友人とよくそう言い合っていた。人間の魅力は様々あるけれど、私がもっとも重視するのは、その詩、その声、その文字だ。その3つが揃えば、それ以外のものは自然についてきてくれるという気がする。詩、声、文字のどれもが、その人の人生が色濃く反映する。詩には当然だが、声、文字にも意外なほど現れるのだ。) * 忘れられない声がある。その主はNHKのアナウンサーなのでpcの検索機能を使えば、名前も現在の消息も判明するに違いないのだが、あえてしたくない。最初に耳にしたのは、大河ドラマの語りとしてだったかも知れない。それからNHKFMの週末のオペラ放送の案内役としてだった。彼の声はワーグナーの重厚で幻想的な音楽の奥深く分け入り、聴き手をたちどころに物語の世界に誘う。物語を共に生きているような自然な格調高い抑揚は、人間の声の魔力が一つの芸術へと結集するオペラ放送の案内役として、もっとも相応しいと思われた。 その声と、しばらく前に再会した。確か教育放送のギリシア神話を紹介する番組だった。彼の声にはかすかな変化が兆していた。それはたとえば、口中に小さなおできが出来ていると言うような、あるいは上下の歯が微妙にかみ合っていない、と言うような、聴く人によっては気づかないかも知れない変化だった。ああ、彼は少し老いたのかもしれない。私は胸を衝かれるように思った。画家から視力を、音楽家から聴力をうばう力が彼にも及んだのだ。そして恐らく老いていることを自覚しつつ、その声で今新たにギリシア神話に分け入っているのだ。 刻一刻と視力を失っていった画家ドガの絵が「運命と反対に、奇跡のように色彩が新しく画面に輝いて」(田近憲三)行ったような、そんな奇跡はその後彼には訪れただろうか。ただ、私に記憶された最盛期の輝かしい声が、人間の避けられない運命を帯びてもう一度現れてくれたことで、彼の失われた若い日の輝きを改めて耳奥に刻印したのだった。(2004年)
声 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1146.6
お気に入り数: 0
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ポイント数 : 0
作成日時 2019-02-21
コメント日時 2019-02-28
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
沙一さん、コメントありがとうございます。 声というのは、文字が生まれていなかった古代でも、受け手が同時に共有すると言うことができる方法だったのですね。 インターネット時代でも、文字での受容は個的であり時差がありますね。 (その分じっくりと味わえると言うことなのでしょうか。) 好みはあると思いますが、詩の伝達手段として、声を生かさないのはもったいないという気がしなくもないです。 谷川さんが声でと思われたのは、わかるような気がします。 谷川さんの詩は、口語でできてますね。口から出てくるときの感じが、一番ぴったりするのではないでしょうか。 文語詩、ですとやはり詩自身が「孤独に文字で読んでくれい!」と言ってるかも。 聞いてみないとわかりません(笑)。 朗読に陶酔、と言うことがよく言われますが、かつて、「陶酔せよ、君たちは詩を書き終えたあと、陶酔しているか」みたいな格好いい檄を読んだことがありました。(記憶なので正確ではありませんが・・・。) 私はあらゆる過剰は陶酔の一種だと思うので、陶酔を叱る人の過剰もまた陶酔と感じたりw、感情を抑制しすぎるのも陶酔と感じます。 谷川さんは、その生き方も読み方も自然で、素敵ですね。
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