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隔てる
瞳の奥に夜を見た 片耳に髪をかけて小さく笑うひと 山のはざまから闇は喰われてゆく 切っ先を映す白いまつげ きみの前に人が きみの目に星が その奥にはただひとつの孤独 未だ眼を開けない時 何物でもあれぬ誇りをきみは抱きしめている あをのを踏み分けて 谷底になびく銀色の夢を見た 桜色のゆびさきに歯を立てて 断絶の境界を知る このよろこびを知りたくはなかった かなしみは稚いてのひらに うつくしいままに浸みこんでしまった しっかと立つこの足元しか もう持てるものはない あなたの星がみたかった いつだってそれをみていたひと もうあなたではいられない ひとりきりの瞳の奥に 孤独が佇んでいる
隔てる ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1034.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 6
作成日時 2019-02-20
コメント日時 2019-03-05
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 1 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 5 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 6 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 6 | 6 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
作品が持つ作者の連続性を考察するに、一つのイメージがみつかる。それは自然。自然を書く時、事象を描いて終わる作品には魅力が宿ることがない。なぜならばその事象は作者に見せてもらわなくとも既に私は知っているし自然のリアリティとは外界に在るのではなくて、感触にこそあるものだから。あきらさんの作品に通底する自然とは、作者の息遣いである。1連目の山のはざまもそうだし、特に挙げるとしたら、 >桜色のゆびさきに歯を立てて の表現に作者の息遣いが際立つ。 辛口に本作を評すれば、結末を孤独の一言に収めてしまっているところにイージーさを感じる。別に即興の安易な表現を否定はしない。しかし即興の表現にこそ息遣いが出る。孤独がそれまでに在る自然な息遣いを不自然にしてしまっている。なぜならば自然とは内なる感触である。孤独とは、あるかもしれない外界の幻想だ。次回作も楽しみです。
0わたしは孤独を個を確立することによって獲得するものととらえているのでまああれですがコメントありがとうございます
0作者の塩対応へ甘味を加える意味合いと海飛さんの孤独への言及に乗っかって再びコメントさせていただきます。 詩作品を前にしますとついつい感傷的な観点から切り込みがちです。その感傷的な観点を用いずに本作から孤独を汲み出す時、真の孤独とはなんぞや、孤独の事態、孤独の本質が見えてきます。それを例えるならば、範馬刃牙と範馬勇次郎の対比にも相通ずること。独断でいえば刃牙は最強を最愛という感情から手に入れました。片や勇次郎は苦痛というリアリティから最強を手に入れた。最強であるがゆえに両者ともに孤独であるかといえば、そうではありません。最愛を知る刃牙には愛という他者が在る。勇次郎の苦痛には他者はありません。したがって孤独とは勇次郎です。つまり何が言いたいのか、本作を突き詰めて読む時、そこに刃牙が望む勇次郎の孤独が重なります。最強を目指すとして、それは未だに孤独ではないということ。この隔たりは感情と抒情とも言えるかもしれません。 語り、失礼しました。
0山のはざまから闇は喰われる、とはやがて来る日の出のことでしょうか?それとも山に沈む陽の様子が、山が夕闇を吸い込んでいるのでしょうか?いい詩で気になったので質問です!すみません。 とても美しい詩でした!
0ご質問ありがとうございます。 これは日の出でも日の入りでも良いのですが、昼と夜を隔てるひとつの時と思っていただければいいのです。 隔てることは個を得ることです。何かになることです。そして境界を得ることです。その点で言えば今月は全く作風は違いますが、同じことを語っていたのかもしれません。
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