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9月投稿作品選評―記憶にまつわるお話たち―
0.はじめに いや、実は「はじめに」というのは嘘である。選評を全て書き終えた上で書いている。 結果として、今回は「記憶」というものを中心に作品を選んだ気がする。「記憶」というものは、僕にとって大事なものであって、僕が書く作品についても「記憶」について書かれたものが多い。 なぜ、「記憶」について書く人がこれまで多いのだろう。僕らは無論哲学者ではないから、『物質と記憶』などという著書を書く必要もない。それでも、「記憶」というのは生きている以上、つきまとうものだ。「記憶」についてついつい書きたくなってしまう理由について、今回選評を書いてから見えてきたことが1つある。それは、「記憶」は共有できる/できないからだ。 同じ時間/空間をともにして、同じ出来事を目にした時に、その瞬間は「記憶」を共有できる。だが、「記憶」は形に残るものではない。それぞれ、個々の生の中で残るものであり、時間や空間が変わることによって、その「記憶」もまた形を変えることがある。だからこそ、その時その場所で「記憶」を書き記すことで、「記憶」を「記録」にするのだ。 形に残らないからこそ、「記憶」は共有できない。むしろ、共有できることより、共有できないことの方が「記憶」の持つ魅力ではないだろうか。だからこそ、言葉/声/文字などにすることによって、共有化する/語ることができるようになる。だが、読み手はその語りを見る/読むことによって、追体験することしかできない。その現場に立つことはできない。 「記憶」の魅力とは、共有できないからこそであり、共有できないからこそ、共有できるように書く必要がある。つまり、「記憶」について書くということは、出来事や時間/空間を共有するこということへの想いを秘めており、それこそが読み手に開かれた作品であると同義であると言うのは言い過ぎであろうか。 1.選評 (1)大賞候補 「ストロボ」survof https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2264 読解については、コメント欄に記したのでそれを再掲。 僕は実体験から書くのですが、これはどうも創作話っぽさを感じさせます。その根拠を示すことはうまくできないのですが、場面の切り取り方が絶妙です。誰かとの思い出や記憶というのは、地続きの映像であり、何時間も一緒にお出かけとかしようとも、実際に思い出せるのはせいぜい10秒ずつぐらいなもので、そうした中で、いわゆる「大事な思い出」を語るということは、その小さな映像を繋ぎ合わせること、そして、どの映像を選択するのか、というその選択が大事になってくるのでしょう。 花火を映像として捉えるのではなく、音の記憶として捉えてあります。「愛情と母性の落穂拾い」という何でもない表現が実に巧みで、「花火」という言葉自体が比喩で、花のような火が散った後で、残るものは何もないのですが、その火がいずれは地面に落ちていて、花火が散った後の空間や時間について想いを馳せるという着想がこの「愛情と母性の落穂拾い」という表現に凝縮されていると思うと、とても惹かれました。ただ、花火の音によって、記憶されてしまったその映像に伴っているのは「僕の絶叫」であって、この絶叫がどうして生まれたかの詳細はわかりません。 そして、「お姉さん」が誰なのかも読み手にはわかりませんが、僕がお姉さんと呼んでいた人物がいたという過去があったのは確かなのでしょう。そして、単に「僕はお姉さんが好きだった」という短絡的な表現ではなく、「僕のことを呼ぶ『君』というその呼び方が僕は本当に好き」というのは、映像でありつつも、やはり、音の記憶なのです。花火の音、僕の絶叫が語り手の記憶である映像に付き物であるように、お姉さんとの記憶も僕への呼びかけという音が付き物なのです。 彼女はある本を貸してくれたのですが、僕はその本の物語を蔑みながらも、その物語のプロットを借りて、彼女に打ち抜いて欲しかったと願っています。それは「撃ち抜く」という音と同時に、読み手に花火の音を想起させます。思えば、花火は音だけでなく、その響きによって、体の振動を生んでおり、それが「内臓の粘膜を低音で揺さぶる」と描かれています。その響きによる振動がまるで、語り手の体が裂けてしまう衝動を感じさせており、花火の音/記憶というのは、語り手にとって振動で避けてしまうような痛みを伴うものであるからこそ、これが「自傷」であるのだと納得させられます。 一見ばらばらのような映像というのが、必然的に結び付けられていき、作品内における場面の選択の必然性というものを感じられ、そういう点で全く無駄がない完成度を感じました。それに、何とも言えない、この切なさが、読み手である僕はとてつもなく愛おしく感じました。 無論、具体的な場面や人物に描かれている以上、一般論に置き換えて論じるのは、作品に対して失礼な行為であるのだが、それでも、記憶というものについて考えざるを得ない。下記の選評においても記しているのだが、記憶というのはいつでも思い出せる記憶もあれば、ふとした時に思い出される記憶もある。それについては、W・ベンヤミンにおける「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」で論じられているプルーストの「失われた時を求めて」におけるマドレーヌについての考察がより詳しい。簡潔に述べれば、マドレーヌを食べる時の匂いが幼い時に食べた匂いと結びつき、故郷を思い出すというもの。 この作品においては、そのような仕掛けがあるわけではない。それでも冒頭から「その夏のあの花火」という一つの出来事についての想起がされている。その花火の音/振動が体に刻まれて、その感覚から導き出される銃についての描写。本来であれば、花火と銃が結びつくことはなかったのかもしれないが、それが結びつく契機として、彼女が本を貸してくれたことがある。花火を見ること、と、彼女が本を貸してくれたこと、一見無関係な出来事を語り手が結びつけるという行為。 それだけ、彼女がした行為に意味を見出したかったという語り手の切実な想いがひしひしと伝わってきて、その巧さというよりは、やはり、切実な想いに胸を打たれてしまった。これが人を想うということなのだと、改めて気づかされた。 (2)優良 「交差点のリリィ」 https://www.breview.org/keijiban/?id=2301 約束についての詩かと思って読むと、急に「こおろぎの事を思い出し」たりして、場面が展開されていく。何かに関する記憶を思い出す時、このように、とりとめもなくばらばらに思い出されることが多い。いつでも思い出せる記憶ではなく、ふとした時に思い出されてしまう記憶の方がなんとなく意味ありげに感じさせられるが、そのメカニズムや意味についてはわからないことが多い。 君は「糸切りを持っ」ていて、糸/約束を切ろうとしているが、ふと、親父が毎年述べていた「今年の鮎う、ちっこおてえ」という声の記憶に移り変わる。そして、語りは、この親父を中心に展開されていき、君の存在を遠くに追いやる。「親父/の秋を告げる声」と「庭の虫の音」が対照的に置かれてあり、いまだ謎である「こおろぎ」の存在を読み手に思い起こさせる。 毎年ある時期に決まって聞こえてくる声に応えるようにして、僕は「ああ、あじずし、なつかしい」「この山椒の葉、やっぱり辛い」と毎年言っている。これらもまた過去/記憶にあることだ。 「廃線に 祭の灯 潮の風」という詩行の後に置かれた「辛い」が漢字で書かれているからこそ、さきほどの「山椒の葉」が「からい」から、「つらい」へと自然に読み替えてしまう。 「この春に廃線になった鉄道の無人駅」という移り変わってしまう景色に対する想いが述べられて、その「道」のイメージだけが引き継がれて「三日月1号線」の場面へと展開される。無論、読み手はこの「三日月1号線」について予備知識があるわけではない。だからこそ、「全ての痛みを解いてくれる/ここではないどこかへ行ける」という説明は必要不可欠な詩行として存在し得る。 「三日月1号線」に対比されているのが「日常57号線」であり、読み手の勝手な解釈であるが、「三日月」へと続く道はそう簡単に生まれるものではない。おそらく念願の、ようやく生まれた道であって、その希少性が「1号線」という表現によって強調されるが、「57号線」は「行ったり来たりしている」とあるように、日常における道は複数あるものであり、その日常感/身近さを強めるものとして、「57号線」という数字に意味を感じさせられる。そして、日常57号線と三日月1号線は繋がっているものであり、時に1号線に差し掛かると「あの娘」を見かけることができる。つまり、語り手の僕は日常57号線沿いに生きていて、冒頭の君及びあの娘は三日月1号線沿いに生きているのだろう。 そして、冒頭の「今日はしゃがみ込んだ君の足もとの/こおろぎの事を思い出していた」について描写されていく。彼女が走り出すこと、と、こおろぎが鳴き出すことが同じ時間/空間における記憶として、僕の中に刻まれている。そして、彼女が「道のまん中に崩れてしまう」こともまた同様だ。そして、その彼女に対して僕は何をするかと「崩れた彼女の横を/真直ぐに進むしかなかった」のだ。手を差し伸べるとか、体を起こすとかではなく、何もせずに進むという、それは選択である。 「ある日/彼女の姿が見えな」くなってしまう。そこで僕がとった行動とは、かつて彼女が走り出していたように、「裸足になって/全速力で走ろう」とするのだ。ただ、ここでもまたこおろぎが鳴き出すのだが、前述した場面との違いは、走り出す主体が違うということだ。こおろぎが鳴き出すのは、彼女が持っていた能力ではなく、僕が走り出したとしても鳴き出すのだ。ただ、ここで考えておきたいのは、そのこおろぎは、語り手の記憶が呼び覚まされて、頭の中で鳴き出していたのではないかと。 そして、日常57号線にはいなかったはずの彼女の姿が再び現れるが、その姿は喜ばしいものではない。それでも、「僕は嬉しくなり/涙でボロボロになってしま」うのだが、かつて僕が彼女にしたように、泣いている僕の「その横を彼女が通り過ぎた」のだ。 かつて彼女が走り出したように僕は走り出そうとし、かつて僕が彼女の横を通り過ぎたように彼女もまた僕の横を通り過ぎていく。行為の反復。同じことを相手にすることによって、ようやく相手の立場がわかるというものである。 その立場に立ってみて、ようやく見えてきたものが「こおろぎが一晩中鳴き続けた」ことである。このこおろぎの横に、果たして彼女の姿はあるのだろうか。いや、きっとない。なぜなら、彼女は僕の横を通り過ぎてしまったからだ。きっと、このこおろぎの声は僕の記憶の中で、残り続けてしまうものだ。忘れたい/忘れたくない、そのどちらであるかは示されていないが、いずれにしても、残り続け、きっと、親父の声の記憶のように、何でもない時にふと思い出されてしまう記憶として残り続けるのだろう。 「蜂蜜紅茶」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2361 冒頭二行で、語りの丁寧さ/巧さが伺える。 「死者の町に行き着いたことがある」という表現を口にするならば、容易にいくらでもできるが、それが果たしてどういう意図をもっているかが追い付かず、ただ言葉だけが浮いてしまう恐れがある。それを忌避して、「もちろんそれはただの比喩」だと、自らの表現に対してきちんと向き合っている姿勢が伺える。 そのような前置きがあり、あくまでも「地図にも載っている実在の土地だ」と宣言しながらも、その町がまるで「死者の町」であるかのようにとらわれてしまう表現が続く。一言で言えば、寂れた町であることがわかる。あくまでも実在の土地だと宣言することによって、反語的に、まるで「死者の町」であるかのようなその性質が強められる。 この作品では場所に応じてきちんと場面展開がされている。他の作品においては、場所も時間も不明瞭になっていることが多いが、読み手にわかりやすく、「いま・ここ」がどこであるかが提示されている。 ドライブの途上からの景色から喫茶店へ変わった場面。語り手は「死者の町」を否定しながらも、その想いにとらわれており、つい喫茶店の主に「あなたも死者ですか」と尋ねてしまう。ここで「もちろんそれはただの比喩だ」という表現が、あたかも強がりであったような印象を受ける。 視線は「養蜂場」にうつり、花と蜂に想いを寄せていく。無論、そこに墓の存在も関与されており、墓に手向けられた花、というごくごく当たり前のイメージもまた読み手に優しい結びつきである。「蜜源によって味も香りも違うらしいが、それはヒトの勝手、蜂たちには関係の無い話だ」という想いからは、この語り手の視野の拡がりに感銘を受ける。それでもやはり、乱暴に散らかっているわけではなく、一つのまとまりがきちんと保たれている。 場面は喫茶店に戻るのだが、この蜂への想いが伏線となって、一見とりとめのない話がまた一つのまとまりに集約されている。喫茶店で出された紅茶に蜂蜜を入れるということ。ただ単に目の前に置かれているものを描くだけでは、視野、言わば、世界の拡がりを感じさせない。目の前にある紅茶と蜂蜜、まるで静物画のように置かれてあるだけなのではなく、眼には見えない時間を含んでいるということ。 つい長居をして、喫茶店の主が「ここじゃ生きている方が肩身が狭くて」とつぶやくのも、何だかぞっとしてしまうし、やはり、冒頭の「もちろんそれはただの比喩で」という表現がここでも活きてくるのだ。より、それが反語的/強がりとして聞こえてくる。 語り手は、比喩としての「死者の町」を後にする。生者も蜜蜂も静まりかえった町を「見届けることはでき」ず、その理由は「宿泊施設もなかった」からである。語り手は、眺めるものとして、その町を訪れ、その町に暮らすことはなかった。宿泊施設がなかったから帰ることしかできなかった、という当たり前の理由から導き出された当たり前の帰結があり、ただ、この帰結があったからこそ「生きている間は、留まることができないのだ」という最終行へと昇華することができるのだ。 これらの詩行に、疑問は持たず、一見ばらばらに切り取られた場面は、「死者の町」の話であるにも関わらず、どこをとっても連関があり、詩行自体が死んでいない。こうした切り取り方の巧さが読み手に優しく、何でもなく読み進めることができるのだが、こうした作品こそ書くのが難しいだろう。 「氷菓」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2360 なんてことない出会いについて語られた作品である。語り手にとっては、大事な出会いであったことは伺えるが、このような出会いというのは一つの物語として、読み手にありがちなものとして印象を与えるものだ。「文学部で知り合った」ということは、大学で知り合ったのであろうということから、共に過ごした時間の過ごし方について説明されている。 転機は「ある初夏の日」にあり、「静かな公園で詩を朗読」することになった。僕らを結ぶ共通点として「詩」があるのだ。その道中にある会話が想起され、抜き取られている。その時、その場所に何があったのか、というのは必ずしも事物だけでなく、形として残らない声もまた記憶に残ることがある。記憶に残った声というのがこの作品における重要な主題であることは後からわかる。 きっと彼女が読み上げたであろう詩に以下のような言葉がある。 僕たちは 降ることのない雪だ これを読み上げた彼女の声は、「氷菓のようにあまく、僕の胸に玲瓏と響」くものであった。氷菓とは、あまい反面つめたく、何より、その形を留めることはない。語り手はその特徴をあえて語らず、「声」における形として残らないという特徴をも氷菓にたとえたのではないだろうか。 僕たちは降ることない雪であったが、雪は雪として降ったのだ。やはり、雪もまたアスファルトに溶けて、形を残すことはない。ただ、その上を歩いた足跡を形として残す。それはつまり、人がそこを歩いたという記録だけを残すのみであって、その全体像を描くことはしない。雪は無情にも、形を残さないだけでなく、人の歩みを邪魔するものとして存在し、さらには、薄汚れていく。 氷菓も雪も形に残らず、彼女の声も形として残らないはずであったのだが、語り手の中にだけ確かな形を持って残っているのだ。 誰かが発した言葉や声が形を変えずに残りつづけるということ。それを確かにあったのだと、外部に証明はできないのだが、形に残らないものだからこそ、より意識して残し続けようという語り手の想いが強く感じられた。 (3)推薦 「遺書」エイクピア https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2323 エイクピアさんの作品を読むと、いつも西脇順三郎を思い出す。西脇の詩が憧れでありつつも、遠い遠い存在であって近付けない、その感覚をも思い出される。どういった点が西脇を思い出させるかと言えば、行間の連関である。行と行の間の展開における飛躍が読み手の想定を超えてくるのだ。 「蚊が輪を作って悠々と」という出だしは、読み手の経験を活かすことで容易にイメージとして思い浮かべることができるが、その後が「歴史に参画する」と続く。蚊の飛行と歴史への参画が結びつくという。西脇の「超現実主義詩論」には、詩作の手法として「遠きにあるものを近づけ、近くあるものを遠ざける」といった意が記されている。平易に言うならば、思いもしない組み合わせを持ってくることだが、それは乱暴/適当/闇雲に持ってきたとしても読み手に何も喚起されない恐れもあることだ。 それでも、読み手の疑問を入れ込む隙がなく、あたかも当たり前であるかのように詩行/語りは続いていく。「涙の香りはどんな悪さをしたのか」「色が抱える苦しみは何であるか」といった疑問すら「放って置いて/行こうとするから」、「悪阻に鈍感な男が死んで」しまう。ただ、その男にも役割があり、「蚊の塚だけは作」るのだ。ここでようやく、詩行の連関が繋がってくる。唐突に現れた一行目も、この男が蚊の塚を作ったからなのだろうか、と。 語り手は、男を「悪阻に鈍感」という価値付けをしているが、男は自らを「コマが飛んで来て痛いのを隠して/雑巾でサッカーをやるから死んでしまった」と語り手の思いとの行き違いを述べている。雑巾でサッカーをやる、とは、一体どんな状況であったのかと。その理由はわからずとも、その映像を読み手は思い浮かべることができる。 そして、更に登場してくる「大量の天使」は、「歴史に参画する蚊の大軍」に対等して存在するものだ。国防軍は理由がないと動けないが、果たして、歴史に参画する蚊の大軍は理由があって存在しているのか。やはり、理由はわからないが、ただそこに存在しているということはわかる。 蚊の大軍というのは、一匹一匹の蚊が一つの単位/集まりとしてまとめられた存在であり、歴史に参画する資格を有しているのは、冒頭にあった「輪を作」る必要があるだろう。さらに言えば、輪を作るためには、動いている必要がある。「死んで居る蚊と死んで居ない蚊」の違いというのは、歴史に参画するために「輪を作って悠々と」することができるかできないかという違いがあるのではないかと。 そして、「雑巾でサッカーをやるから死んでしまった」と喝破していた男は、口ではそういいながらも、自らが作った蚊の塚によってそこに存在することになってしまった「蚊の大軍」に対する想いを遺書に残しているのだ。それはつまり、蚊は歴史に参画してくるとあるのだが、逆説的に、蚊の塚を作り、雑巾でサッカーをやるから死んでしまった男は、蚊の歴史に参画したのだったと言えるのではないだろうか。 「壺中天」社町迅 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2289 「壺中天」という言葉について詳しく知らない。調べたが、それでもその言葉について理解ができたとは今のところ言えない。それでも、考えることはできる。 壺というのは、その輪郭の内に文字通りの空間を持っている。その空間は狭い空間でしかなく、その限界が小さいものであることを思わされる。そもそも壺の中に何を入れるものなのだろうか。すぐに思い浮かぶのは、水、であるが、実際に水が入った壺などあまり見たことないし、壺の中に何かが入っていることに出会った記憶がない。だからこそ、壺の中には、空間がある、というのがふさわしい。 壺の中は暗い。壺の中に、本当は何が入っているのかを確かめたことはないし、それを本当に確かめる/証明することはできるのだろうか。 壺中天というのは、壺の中に天がある、という発想でいいのだろうか。仮の定義としてそのように捉えると、それを否定することはできない。なぜなら、壺の中に本当は何が入っているかなんて見たことないし、見ることもできないからだ。壺の中はやはり暗い。そういった前提を踏まえれば、壺の中に何が入っていようと、それを疑うことはできても、否定の証明をすることはできないのだ。 この作品では、大きな世界が壺として捉えられていて、身の回りにある小さな世界がその底にあり、大きな世界という壺に満たされた「夜に浸る自分」という立脚点が先ず示されている。「星空」と「自分」は、分け隔てられた存在ではなく、大きな世界という壺の中で同一の空間に存在するものであって、まるで壺の中で「夜」という液体に浸っている自分がいるという表現/視点が魅力的である。壺の中が暗いからこそ、大きな世界という壺に、暗い空間の言い換えとしての「夜」があるというのも納得ができる。 それでも、身の回りの小さな世界に生きる自分は自分で「携帯している水筒」という小さな壺を手にしており、「お砂糖とスパイスが詰まっている」のだ。 壺の中はいつだって暗く、それがまるで「夜」の中にいるようであるが、「夜」という存在はいつまでも「夜」であることができず、いつかは明けなくてはならないため、「早く遠く霞んでいってしまう。」のだろう。夜は霞んでしまうが、人は大きな世界という壺の中に居続けなければならない。 「薄明の頃、水筒の中で眠る女の子が生まれた。」という唐突な出来事について、読み手は多くを語ることはできない。それは作品の世界の中では起こってしまったこととして語られている。壺の中の空間について、何かが在る/無いことを証明できないように、「水筒の中で眠る女の子」が在る/無いことを読み手は証明できない。この一行をそのままに読み手は受け取るしかない。 この後に、読み手に想起されることとして「水筒」という存在について先ずは考える必要がある。壺を持ち歩く人はいないが、今となっては水筒を持ち歩く人は少なくない。つまり、壺、しいては、大きな世界や夜や星空などは、浸ることなどができたとしても、持ち歩くことはできず、また移り変わるものだが、水筒は身近なものとして持ち歩くことができる。語り手は、身近な存在として「水筒の中で眠る女の子」を持ち歩く権利を有したのだ、と、最終行を言い換えることができるだろう。そのことによって、読み手はその後の成長物語などを自由に想像できる権利を有するのだ。 「Borderline Marmalade」北村灰色 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2363 過去や記憶や思い出というのは、その人にしか持ちえないものであり、記録の証明はできても、記憶の証明はできない。それでも、現在という時間に対する過信というものは生きている以上つきものであって、「過去よりも今が大事なんだよ」という言説を耳にすることがある。 冒頭が1999年という、おそらく語り手にとっての過去が描かれており、「有刺鉄線を一心不乱に掴んでいた」ということが語られる。語り手はいかようにも語ることができるが、それが事実/本当であるか証明できない。ただ、それと同時に読み手にとっても、「そんなことは起きていない!」という否定を証明することもできない。一見起こり得ないだろうことを目/耳にしても、先ずは受け入れる必要がある。そして、「醒めきった今を僕らは嘘だと否定できるから!」という、現在に対する疑問が投げかけられる。現在は現在にあるのだから、一番身近な時間であるはずなのだが、現在に対する過信は全くなく、むしろ、証明できないはずの過去について語られているという構造に気づかされる。 「首のない人形に充たされたクレーンゲーム」など、在り得ないだろうと一見否定することができるかもしれないが、作品内では「ゲームセンターの端でワンコインの首吊り」というように、それが起こり得る根拠が提示されており、「あ、ゲームセンター内でお金を浪費していることが、死に近づく行為として捉えられていて、ゲームセンター内で量産される死に近づく人々がクレーンゲームの商品になっているのか」と、単なるホラー映像としてではなく、ユーモアとして捉えることができる。 「僕の網膜を包んだ橙色だけが唯美しくて」という表現も、何気ない表現なのだが、後に出てくる「夕景」を見て、「僕は夕景の橙色に包まれていた」というありきたりな表現ではなく、その表現に至るまでの工夫が見受けられる。「夕景」が印象的であったことは伝わるのだが、それをどのようにして読者に届けるのかということ。単に「夕景はキレイだった」とか「夕景が街を包んでいた」とかではなく、夕景が網膜を包むという構図は、書いたもの勝ちというか、驚きである。 コインランドリーについても、ゲームセンターのように、機械に硬貨を入れ込むものとして共通点がある。一見無関係な存在は、導かれるようにして導かれているのだ。ゲームセンター内では、ゲームセンターで遊ぶ人々が「首のない人形」としてクレーンゲームに並べられるという循環している/流れていることを想わされるが、コインランドリーではいまや止まってしまった時を感じさせ、そこには循環ではなく、滞留を思わされる。 「マーマレードの夕暮れに浸されたパンが、フレンチトーストになれないってことにいつの間にか気づいていたのに。」という一行は、何を示しているのだろうか。単なる語り手の気づきでしかなく、その気づきを読者が共有することはできない。ただ、「マーマレードの夕暮れに浸されたパン」がより価値の高い「フレンチトースト」に昇華することができないのだ、と示されており、ここには誠実な姿勢が感じられる。個の存在はあくまでも個の存在であって、目の前にあるものを幻想的に捉え、違うものに昇華してしまうのではなく、あくまでも別物なのだと、自戒を込めているように感じられる。このことを思えば、語り手は過去や記憶や思い出というのを、別の物に置き換えて昇華しようとしているのではなく、あくまでも、見ているままに描いているのだと言うのは、言い過ぎであろうか。いや、そんなことはないだろう。「首のない人形に充たされたクレーンゲーム」は「羨望されるキ〇ィちゃんが置かれたクレーンゲーム」に昇華されるはずはなく、現実をより現実のものとして捉えた結果として見えたものなのだろう。 「わたし。」なつめ https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2280 「わたし」について語られた作品は既に多くある。その中で、いかにその違いをうむことができるか。そもそも「わたし」という存在について考える必要などあるのだろうか。幸か不幸か、人の眼は他者を見ることはできても、他者を見るようにして自らを見ることができないようになっている。そういった点で、「わたし」と「他者」を分け隔てるのは、その眼差され方にある。しかし、他者が「痛い」と述べる時、その痛みを自らのものとして痛むことはできなくとも、自らの痛みの経験によって他者の痛みを推測はできる。そのようにして、他者を眼差すことが第一にあって、それを敷衍して、他者を眼差すようにして、「わたし」を眼差すことができるだろう。あくまでも、「わたし」を眼差すようにして、他者を眼差すわけではない。他者がいるからこそ、「わたし」を眼差すことができるのだ。 だからこそ、この詩の題名は「わたし。」となっていながらも、初めに他者の言葉/存在が示されていることが効果的であると言える。誰かの言葉を鵜呑みにするということ。誰かの言葉に対して、反論や反発も無論できるのだが、相手を「ペテン師」と疑いながらも、鵜呑みにするという行為をもって、「わたし」を「純粋」「一生女の子」と定義づけられている。 自らに対する定義づけは続く。「私、臆病だから、」と。そして、「死にたい」と口に発することに対しても「気晴らし」だという定義づけがされる。このようにして、この少女は世界に定義づけをしていくことによって、世界との関係を保っている。 「わたし」について語られた詩では、ついつい「わたし」だけが描かれていると思わされてしまうが、この作品では、他者への眼差しが絶えることはない。「大人ぶってる君が、紛れもない君ってこと/私が1番知ってます。」と、やはり、「君」もまた「わたし」によって定義づけられる存在である。 最終連では、悩みを吹き飛ばして、欲望のままに生きていきたい様子が示されている。「わたし」を描くということは、それこそ「自分語り」なのかもしれないが、「わたし」はこのように世界を見ている/定義づけている、ということを示すこと。単に、I am ~~というbe動詞による定義づけではなく、眼差し/定義づけを示すことが「わたし」を語ることと同義なのだと気づかされた。 2.おわりに 選評を書いてから「はじめに」を書いたから、「おわりに」で書くことがなくなりましたあ。今月分も今日書き始めて、選評書くだけで大体5時間ぐらいかかりました。 僕は9月に投稿していないので、選ばれることがないのですが、選評書く方が楽しいかもしれないです。議論スペースで選評や投票について議論されてますが、僕が皆様に伝えたいことを率直に述べます。 皆さんもぜひ選評やってみましょう。選評結果に納得がいかないこともあるかもしれませんが、それなら、なおさら書いてみましょう。投票しましょう。ここに集まっている方は、もちろん詩を書く人です。それと同様にして、もちろん詩を読む人でもあって欲しいというのが僕の願いです。 あと「僕の選評を嫌いになっても、僕が推した作品のことは嫌いにならないでください!」これが切なる願いです。僕の選評は長いし、読みづらいでしょう。わかってます。だけど、輝くべきはその作品であり、その作品を生んだ作者です。この選評における主人公は、僕ではありません。ここにある作品たちです。 あ、最後に、もし、選評について語り合いたいとか、詩論について語り合いたいという人がいたら、声かけてください。そういったことについて語り合える場所があればいいなあと思っています。 以上!あでぃおーす!またお会いしましょう!
9月投稿作品選評―記憶にまつわるお話たち― ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1081.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2018-10-05
コメント日時 2018-10-24
拙作「蜂蜜紅茶」にたくさんの文字数を割いていただきまして、大変光栄です! 作者自身よりも、作品を精密にご理解いただいているように感じました。 殊に冒頭の「もちろんそれはただの比喩」についての分析があまりにも鮮やかで、自分が書いた時にそこまで意識できていたかどうかはともかく、まさしくそうに違いないと激しく納得しました。 選評って素晴らしいですね。 >「死者の町」の話であるにも関わらず、どこをとっても連関があり、詩行自体が死んでいない。 >何でもなく読み進めることができるのだが、こうした作品こそ書くのが難しいだろう。 とても嬉しいです。ありがとうございました。
0なかたつ様、ありがとうございますm(_ _)mすごく嬉しいです。 私は普段から「他者からみた私」を意識して生きてます。もちろん、私しか知らない私もすっごく大事だけど、他者からみた私は私の知らない私なんだろうな、って。それを受容して自分を磨いてもっと素敵な私になれば、もっと私を好きになれるって思います。自論だからあてにならないけど…。実は意図してはないのですけど、生活が作品に現れっちゃったのかなぁと…恥ずかしいような、嬉しいような。思いを全て汲み取って下さり、感謝で胸がいっぱいです。 本当にありがとうございました!!
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