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秋が訪れるだろう
過ごし方を考えていたこの夏 人はみな太陽に負け大人しくしていたのではないだろうか そして皆がそれぞれの秋を迎える この夏に光を見たものは 夕方にしみじみと虫の音の涼しい音を聞くようになるのだ 太陽への勝利 譲ってもらった勝利 ビールは飲まずともいい だってもっとするべきことがある 人と共に生きていたい そのためには不器用だとか言っていてはだめだ いやそれでもいいのだろうが 僕は秋の美しいところを鑑賞する 皆が紅葉を目にする
秋が訪れるだろう ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1088.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-08-18
コメント日時 2018-08-22
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
景色を定期的に再確認するのを習慣にしています。 定期的に紅葉を見なければ忘れてしまう機能に、今は前向きです。そのことを思い出させられました。
0誰目線なんだろう?と思いました。 ”人と共に生きていたい”ということはペットかな?それとも秋を迎えた虫たちかな?と考えました。夏の太陽に勝ったということはずっと日向にいるって言うことなので人間ではないんだろうなとは思いましたが、でもビールを飲むことを知っているっていうことは人間なんでしょうね。 すみません、そういう事を考えてしまいました。
0作者黒髪さんの文脈に沿って本作を読んでいる私にとって、黒髪さんが一つの到達点に達せられた作品であるという感慨がある。ここ最近の黒髪さんの作品は独白に次ぐ独白の作品が続いていたと思うのだ。それを、「体育座り」と評するコメントを文学極道の方で見かけたこともあった。もちろん作品本位、作品のみで評はされるべきであろう。だけれども、宮沢賢治の「永訣の朝」を賢治の文脈から読ませてしまう作者・作品の関係性も否定出来ないことと思う。その観点からすると、本作には、作者が求めていた自身を肯定する答えが普遍性を持って私には迫ってきた。 >人と共に生きていたい >そのためには不器用だとか言っていてはだめだ >いやそれでもいいのだろうが 読者である私も、突き抜けたい、突き抜けて到達したい情景、詩があるのではなかろうか。極私的な気持ちが宿っていなければソウルフルでもエモーショナルでもない。肉体が宿る言葉。
0かるべまさひろさん 読んでくださりありがとうございます。ご批評下さりありがとうございます。 季節を確認すると、季節感を満喫できますね。忘れてしまわぬように。 柿原 凛さん 読んでくださり、ありがとうございます。ご批評下さり、ありがとうございます。 誰目線なのか……そんな風に読めるのですね。たしかに、人間目線ではありました。どうもありがとうございます。 三浦果実さん 「海」をほめていただきましたね。たぶん、そのようなもののいいところへ行けたと思います。人に見られること、 見えぬ人を見ること、つまり対話を心がけました。お褒めにあずかり、嬉しかったです。 花緒さん 読んでくださり、ありがとうございます。ご批評下さり、ありがとうございます。 詩情があるということで、教条的から、やっと逃れている、とおっしゃってくださりました。 ギリギリを攻めるのは、そのほうが良い作品になると思ったからなんですが、作品として纏まっていると いうこと、それは大切だなあと思いました。
0「太陽への勝利」との一節が特別目を引きました。ただ単に暑さに勝って夏を乗り越えただけなのか、それとも多分に暗喩的なものを含むのか、気になります。「ビールは飲まずともいい だってもっとするべきことがある」。太陽への勝利に酔わず、祝杯などあげている暇などない。四季折々の変化に気を配り、「僕は秋の美しいところを鑑賞する」ことに備えるとの流れ、詩情にあふれています。ただ一つ贅沢。「鑑賞する」というほかに表現が、黒髪さんならあったのではと、多分に僕の趣味を含めたワガママに近い贅沢を記しておしまいにしたい思います。
0stereotype2015さん 太陽への勝利は、ちょっとユーモアめかして、耐えたぞーというようなことを言いたかったです。 負けてから、勝つ。自然との闘いです。ビールは飲まずとも、というところは、下戸の僕がコンプレックスを 表現したのですが、そんなこと、誰にも分るはずはありませんね(笑)。 詩情にあふれている、という言葉とても嬉しかったです。詩情こそが詩の勘所ですからね。 「鑑賞する」は、辞書を引いたら、「観賞する」が正しかったです。違和感を覚えられて当然。 今作は、僕と読者の対話を考えながら書きました。今までとは違う意識の持ち方をしました。 意識とは、詩作の実践を方向付けるものであり、自己の探究と言う意味もあります。 詩の喜びとは、知的な遊びや、自然に対する見方の発見、随想や、味わい深く構築された意味、言葉の実験的挑戦、 自己の表出、自分の客観の修行、交流、など、さまざまだと思う限りで、現在はそれらを実践していきたいと、思いながら、 書いたり消したり、詩作を楽しんでいます。
0残暑お見舞いもうしあげます。 今年ほど ニュース&天気予報で 熱中症の注意が報道されたことはなかった気がしています。ですが、きっと秋が訪れることでしょう。たのむよ 秋。ばっちこい! たいがいもう涼しくなって送りますれよ。と、わたしも思います。 太陽の光線が秋になる感じは、太陽がなんだか席を譲ってくれた感じです。 >ビールは飲まずともいい >だってもっとするべきことがある ↑ここ、ダイエットナウな私には うれしかったです。 あと、三浦さんの評を読んで、文学極道でのゼンメツさんの評を再読させていただきまして、ああ わたしは「体育座り」なる自体に 悪いイメージを あまりもっていないなー、へぇー そーなんだ。わたし自身の言葉の感覚は人と違うのだなと思いました。なので わたしは変なことを言ってしまうかもしれません。 「体育座り」って、わたし自身は 体育の時間くらいにしかしたことないんです。 体育の時間の待ち時間って、「静」だけど 心の中は「動」と「動」とに挟まれた「静」ですよね。次の動作のことを考えている思惟の姿勢だと思います。たとえば、文学極道でいうところの ねむのきさんがお書きになった【朝の詩】なんて、体育座り的詩の名詩だと思う。「体育座り」も かなり素敵なものがある。 ただ、この詩の場合は 体育座り的詩ではないと思いました。寝ていた人が 起きようとして、自身を鼓舞している詩。 >ビールは飲まずともいい >だってもっとするべきことがある ビールなんかで 幻こいてる場合じゃない もっと すべきことがある。じゃあ なにをする? わたしの場合は、体育座り的詩にチャレンジしたくなりました。秋。ばっちこい!
0るるりらさん、残暑お見舞い申し上げます。 お読みいただきありがとうございます。ご批評いただきありがとうございます。 僕は、体育すわりは好きでした。なんとなく気分が落ち着く。でも、一人ぼっちの象徴でもありますね。 高校の文化祭、体育祭の時は、いる場所もなく、体育館の陰で体育すわりしていました。 僕は、中学校の部活ではバレーボールをしていました。補欠にすら入れなかったのですが、 バレーボールの楽しさを知ることはできました。 詩にチャレンジ、秋、ばっちこい!ですね。 僕も起きますよ。ダイエットもしますよ。
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