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一枚の鏡のように
「わたし」が楽しいと「あなた」も楽しい 「わたし」が退屈だと「あなた」も退屈 でも 「わたし」が悲しいと「あなた」も悲しい ・・・とは限らない たぶんきっと 「楽しさ」は 「わたしとあなた」の間に生まれるもので 「悲しみ」は 「わたし」の中に生まれるものだから 「わたし」の中の水鏡に「あなた」の影が映る その水鏡が平らかに凪いで 水底が透き通るほど美しく澄んでいれば 「あなた」の悲しみも喜びも映るだろう でも、いつのまにか水は濁り 周りに生い茂る木々の枝が 水面(みなも)にのびて お日様の光をさえぎってしまう 木々の影のすき間に 波立ちさざめいている水面に 途切れがちに映る「あなた」の影 ・・・の上に 色とりどりの葉が舞い落ちる 水面にゆれる葉の群れは 様々な模様を描きながら しばしたゆたい、やがて 水底に沈んでいく 「ことのは」とは言い得たるものかな 水面に浮かぶ葉の美しさに しばし驚き面白がるうちに 葉は水底に沈んでいく 落ち葉はいつか醸(かも)されて 滋養に富んだ土となるのだ その泥濘の中から 美しい花が咲くや否や すえた臭いの不気味な泡が 泥水の上にぶくぶくと浮く・・・ そんなことにならないように 水面に落ちる葉の様子には 常に心を配っていなければならない 水面が平らかに凪いで 湖水は清らかに透き通り 静かに光照り返す 一枚の鏡 ・・・であるように 祈り、そして願う (※5、6年前に書いたものです。割と素直に書いていた頃。)
一枚の鏡のように ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1024.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-04-12
コメント日時 2017-05-05
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
美しい水、汚れた水、様々な水のイメージが鮮やかに思い浮かびます。こういう視覚的なイメージが豊かな詩は好みです。人の心を水に例えるというシンプルな詩ですが、下手な小細工のないところが良いと思いました。
0花緒さんへ 後半の「メッセージ性」の部分は、読者を「自分の子ども」に設定しているから、ですね・・・。中高生でも読める(イメージを追っていける)ように意識して書いていた、と思います。言葉のインパクトが弱い(日常生活で、通常使われる言葉を、通常使われる文脈で並べている)のと、心の中の水鏡、といった、昔から用いられるイメージを借景として借りている感覚なので、どうしても新鮮さに薄れる、と思います。 もとこさんへ 中高生向けに書いている、といった時期のもの、ですね。「現代詩」って、なんだろう、と考えていて・・・結局は、読者を誰に設定するか、の問題でしかないのではないか、という、答えの出ないところに行きついている、のですが・・・詩をあまり読んだことのない人にも伝わる形式ではある、と思います。でもまあ、理屈っぽいですね、最後の方が・・・。
0この詩は、心が 澄んだものであれば きっと 「わたし」の中の水鏡に「あなた」の影が映るはずだという祈りの詩。 どうしても 濁ってしまうことを 残念に思うにとどまらせないで腐葉土のように 花か咲くための滋養となるはずだという 心の励ましのようなものを感じました。 でも わたしは 批評が苦手ですので 感想を もっと率直に発言させていただきますね。 わたしにとって 一連目が宝でした。 正直に私の場合をいうなら 「わたし」が楽しいと「あなた」も楽しい とは、限らないです。それぞれ趣味が違うし 「わたし」が退屈だと「あなた」も退屈 とは、限らないです。退屈そうな人の顔をただただ見るのがあんがい退屈ではなかったりすることが私にはあるから) でも 「わたし」が悲しいと「あなた」も悲しい ・・・とは限らない ↑衝撃でした。 悲しみは、悲しみだけは だれにとっても 個人個人のものだったんだ!という驚きです。 たぶんきっと 「楽しさ」とは 「わたしとあなた」の間に生まれるものであったのか。 「悲しみ」は 「わたし」の中に生まれるものであったのだ!というところに、驚いたのです。 私の他の方々は、どなたも 驚かないのかもしれないけれども。 すごいことだと 私は思いました。 だれかとだれかの間には、楽しさがうまれる性質がある。 悲しみは、ひとりでに育つ性質があるんですよ。 これは詩論にも通じると思いました。 詩(文化、芸術)は、だれかとだれかの間には 生まれる。 詩になれなかった言の葉が 悲しいのは、ひとりでに沈むからであり それを 丁寧に見つめた人には、詩が現れるのだと 私は思いました。 あらぶる心も 丁寧にしずまるのを見ようとするとき 読んでいただけるような 言の葉が現れてくるような気が 私はしました。
0るるりらさん 一連目の、やたらに理屈っぽいところ(その分、直球になってしまっている、というのか)その、骨のようなところに注目して頂けて嬉しいです。 その「骨」を感じさせる肉体、をいかに動作させるか、なんじゃないか、と思いつつ・・・その骨をそのまま出す、というやり方があってもいいんじゃないか、とか・・・詩(作品としての)が肉をまとった骨である、として・・・肉が朽ちた後に(読者に読まれ、忘れられた後に)白く骨が残って光っているような、そんな詩が書けたらいいなあ、と、るるりらさんからのお返事を読みながら思いました。
0水面の波はなぜ起きるのか。それは、風によって。あなたとは風であり、水面とは私である。あるいは逆。風が私であり、水面があなたである。なんとなく、仏教の縁起論的なものを感じる作品ですね。
0「わたし」と「あなた」の関係を、詩全体を読み終えて、女の子同士?友達または…「わたし」の密やかな片思いだと受け取れました。 水面の動きが若さ故の危うさをわかりやすく表現していると思います。素直でみずみずしくて、私はこういった作品が好きです。
0>「わたし」が楽しいと「あなた」も楽しい >「わたし」が退屈だと「あなた」も退屈 >でも >「わたし」が悲しいと「あなた」も悲しい >・・・とは限らない > >たぶんきっと >「楽しさ」は >「わたしとあなた」の間に生まれるもので >「悲しみ」は >「わたし」の中に生まれるものだから > >「わたし」の中の水鏡に「あなた」の影が映る >その水鏡が平らかに凪いで >水底が透き通るほど美しく澄んでいれば >「あなた」の悲しみも喜びも映るだろう ここの叙述の「」で括られた言葉が非常に曖昧であるし、その曖昧さを担保する言葉もないので、取り敢えず読み始めの段階で僕は躓いてしまったんですけど、その後を読んでみると、上に引用した事をそれ以下の叙述で例え、表現し、伝えていこうとしている感じがします。僕は本作をなかたつさんと一緒にツイキャスで読んだんですが、その中で、僕となかたつさんの関係が「わたし」と「あなた」になって、「ことのは」=言葉を通じて、ここに描かれている感情を解剖していったのですが、そういう行為を繰り返していく内に、僕らの読解の結果が一致した瞬間があって、それが一枚の鏡越しに映った僕らの感情が水鏡の上に言葉を通じてリンクしたように思えた事がありました。感情とは何か、心とは何か。これは大雑把な括りになって申し訳ないのですが「木」と「水」を用いてそれらを考察していく様はじっくり向き合ってよんでみると、凄く面白くて、とても良い読書体験が出来ました。 …という謎の感想しか吐けなく申し訳ないのですが、僕は本作が好きだという事。読解を通じて好きになった事をここで伝えたく思います。
0amagasasasiteさんやhyakkinnさんのコメントを拝読して、自分では素直すぎるくらいに「べた」な比喩で書いていると思っていたのですが、最初に観念(骨格)を出して、あとから肉付けしていたんだな、と気づかされました。肉付けの部分こそが、実は詩なんじゃないか、と思っていて・・・つまり、いきなり骨格標本見せられたり、解剖模型を見せられても、そこに美を感じるのは難しい(もちろん、肉体を見慣れた人には、むしろ骨格や内蔵の方が面白かったり美しかったりするかもしれませんが)そんなことを、ボンヤリ考えました。
0上記のレスはまりもです。
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