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海は戻ってくるんだ。それは戻ってくる。積み木を立てる。野菜をうえる。日が昇る。幸いの声をきく。梯子が宙に浮かぶ。サンゴが魚を食べる音を知っている?うそサンゴは魚をたべはしない。じゃあほこりができる音を聞いたことがある?あるわけない。だってほこりはほおこりだもの。違うよ、ふけがおちてほこりになるんだよ。それはだってふけやない、じゃほこりじゃないよ。じゃほこりはいつできるんだ?おかしいじゃないか。神はどうしてわれらを作ったのか?吹けば飛ぶこの生。 電信技官がその声を聴いたのは唐突であった。それはなにかが水底からたちのぼってくるようなおとであり、二つに割かれた双子のようであり、闇を割く灯台の光のようでもあった。とにかくそれはなにかをつんざいて聞こえる類の音だった。かれはとっさに受話器を耳からはなした。ちょうどその時だった。上官が彼を呼ぶ声がみみにはいったのは。彼は階段を下りていった。受話器だけがのこされた。受話器はなぜ受話器というのだろう。それはこちらが話すことを前提としていない。よびごえをきくことしかわれらにはできない。光はいつからそこにあったのだろう。静かにちりだけがまう。光のなめらかな目が細められる。光はどこからきたのだろうとちりが問うている。
[] ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2565.0
お気に入り数: 2
投票数 : 0
ポイント数 : 30
作成日時 2018-08-06
コメント日時 2018-09-10
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 5 | 5 |
技巧 | 10 | 10 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 5 | 5 |
総合ポイント | 30 | 30 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 5 | 5 |
技巧 | 10 | 10 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 5 | 5 |
総合 | 30 | 30 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
素敵な詩ですね。とくに「電信技官が~」の辺りから唐突にはじまる物語にこころ惹かれました。
0よくわからないけど、確かに素敵な詩です。 水の中の生き物の生死が音ともいえぬ音となって、地上の人間の不可聴領域から魂を揺さぶるのですね。そして地上の光の、感情とも言えぬ感情へと。 こういう詩が好きです。
0いい詩です。ふけの考察から「吹けば飛ぶこの生」への転換。聖俗あわせ持つ詩といったら大げさでしょうが、そんな感慨を得ました。
0こんにちは。味わい深い作品です。ついでに私自身も《吹けば飛ぶ》塵や埃のような生のなかにありますが、問いだらけです。
0※このコメントは8月選評です。作者様でなく閲覧者様に向けて執筆しました。またこの評はわたしの読解すなわちわたし自身の表現であり、作者様には関係も責任もありません。 前半の叙述は「ちりから生まれちりに返る」人間の原罪を思わせ、題名 [] と後半の叙述はそれに対するエポケー(括弧入れ、宙吊り、判断保留)を思わせます。【光はどこからきたのだろうとちり(から生まれちりに返る人間)が問うている】、そのようなわかりもしない問いの知りもしない答えを、安易に出してしまわないということ。エポケーは原罪「善悪の知識」(独善的な判断)に抵抗する思想だと、わたしは考えています。 前半冒頭の【海が戻ってくる】は、進化論に基づけば「退化」、創造論に基づけば「大洪水(神の裁き)による滅亡」と解釈できます。後半はモーセのエジプト脱出のようなイメージによって、その滅びからの「出口」が示唆され、人の定義がその根拠である「言語」が見直されます。アダムが神から担った任務である「命名」(それは言語の根幹)を、アダムの末裔が再考します。 不吉な兆しから始まり「死」を匂わせて終わる詩であり、読もうと思えば皮肉にも読めますが、受ける印象は少しも暗澹としていません。前半の軽妙な言葉遊びといい、後半の含みの多い自然な描写といい、とても印象的に感覚的で、うっとうしい思想をまったく感じさせません。そこがわたしの思う、この詩の最も偉大なところです。 * ところで友人の鈴木海渡くんとこの詩の話をしていて、「あづさならこの詩をなんて題名にする?」と尋ねられ、「アダムスファミリー」と答えたら、映画好きのカイトに盛大に困惑されました。ですので、そのようにも思った根拠を、聖書から引用し陳列しておきます。 ▼引用開始------------------------------- 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(新共同訳聖書 創世記1:1-2) 「見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。 」(同6:17) ▼引用開始------------------------------- モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。(上掲 出エジプト記14:21-22) ▼引用開始------------------------------- 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(上掲 創世記2:7) 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人 [※アダム] のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。(同2:19) 「お前 [※アダム=人] は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(同3:19) ▼引用開始------------------------------- 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(上掲 ヨハネによる福音書1:1-4) -------------------------------引用終了▲ アダムの原罪のゆえ「ちりから生まれちりに返る」と定義された人間の宿世を、アダムの末裔が「誇り/歩起(進歩)」と名づけ直す。アダムが神から担わされて遂行した「命名」を、アダムの末裔が再考しエポケー(括弧入れ)する。いつか死ぬ必ず滅びるとわかっているのに、生きたい栄えたいと思う光(命)を、神の裁きのごとき独善の「言=一義」に閉じ込め、多義と多様の可能性を奪うことをやめる────などとこの詩について述べて、カイトの理解を得られるとは、われながら到底思えない。 およそよい詩というのは「詩でしか書けないから詩で書かれている(ようにしか読者には見えない)」ので、読解も「論理的には説明しがたい代物」になります。それをわざわざ言語化するのは、はっきり言って昏愚な所業。まさに「光(命)を言に閉じ込め、多義と多様の可能性を奪う行為」です。 この詩にはそういうことが書かれていると、わたしは感受しましたので、最終的にこの詩の題名は「 [] 」(括弧入れ=エポケー)以外あり得ないと思いました。カイトの適切な質問に感謝。
0【光はどこからきたのだろうと ちりが問うている。】この結語が私は、好きであります。 塵にすら人間味を感じました。だってね塵が光に問うているのですよ。塵に擬人法をあてはめるなんて、なんてなんて人間らしい。だったら光にだって血が通っていないはずはないではありませんか! そうです。問うということは、人という生き物にとって そのモノに血がモノ通わせることであります。つまり、人とはどんなものにすら血を通わせることができる者のことであります。 (と、いうことで これより以下は、作品を光の目線で 追ってみます。) ************************************************* そおして、 光はどこからきたのだろうとちりが問うている。そして、光さんは自発的に光自身の自由意志で、戻ってくるんだ。それは戻ってくる。光はどこからともなく戻ってくる。 積み木を立てる時に。野菜をうえる時に。光はもどってくる。 日が昇るときのように、幸いの声として光が聴こえる。 天使の梯子が宙に浮かび雲間の上を示すように。もどってくる。 たとえば、サンゴが魚を食べる音はあるのかもよ。だって光目線だと、サンゴにとって魚は食べちゃいたいほど可愛い子供かも。もしかしたら波のうねる音だって光としては キコエルかも。サンゴは魚を抱きかかえる。まるで、光が誰かを抱くように。 じゃあ ほこりって何だろう。光として、ほこりの音を聞こうとしてみようか? ほこりの音。プライドのことかしら?んな 駄洒落なわけはない。 でもプライドは 驕りがつきものだもの。あれま。そういえば、不必要なプライドは頭皮のカスみたいなものかもしれない。 驕りと 頭のふけは似ている。とても人間臭い。臭さにはさすがの光も遠ざかる。けれど、もどってくる。光の奴って、必ず もどってくる。それって、 神。かな。なんでもかんでも神が作ったのか?生という生。生でないものもすべて。 見えないものを見る力で語り掛けてくる何かがある。それが この詩だと思いました。そして、この詩は、塵みたいな 存在のひとりひとりを 照らそうとしてる。解読しておられる方々も そうなのかも、 (わたしの場合は、この詩作品ををこのように 自由に ぼんやり楽しませていただいたのでありました。深礼)
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