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自転車を押す坂道にて
こどもの声がする しんとした団地の 無表情な窓から 民家のガレージから 坂の上の陽炎の向こうから 空耳のような BGMのような こどもの声がする 風がなくて 嘘みたいな風景だ 美術館に展示されている 絵画のようだ ここは片田舎の住宅街で 空調の壊れた美術館で そこで傷んでいく油絵のようだ だがこれは絵ではない きっといまに動き出す 畑のトマトが 百舌鳥のはやにえのようだ いまにも崩れそうな どきり、と落ちそうな 『傷んだトマト』 (落ちるとき、赤い汁が飛び散る、のを想像する) 「ママ!あのね!」 背後から唐突に呼ばれ どきり、とする 止まると吹き出す汗が 背中をつたう トマト、は まだ落ちていない 生きている、を確かめるために ペダルを漕ぎ出す と、風が生まれる
自転車を押す坂道にて ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1189.4
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-08-05
コメント日時 2018-08-27
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
今は季節が夏のせいか、暑さのせいで正気や理性を失いそうになります。その感覚、もっとシンプルに言うと頭がうだるようにボーッとする感覚がとてもよく出ていると思います。その上トマトの描写と、それが暗示しているであろう不穏なもの。ペダルを漕ぎだして我に帰るラストは、なかなかに読み手を安心させるに充分だと思いました。
0日常の中にふいにおそわれる奇妙な感覚、ぞくぞくしました。境い目に立っているような。 トマトはまだ落ちていない、という一文が頭に残りました。
0stereotype2085さん 今年の夏は、なぜかいつもと違う気がして。そしたらいつもと違うトマトがあったのです。でも自転車を漕いだらいつもと同じでした。今日は台風が近づいたので、あのトマト、もう落ちているかもしれません。 お読みいただき有難うございます。 仲程さん すみません、なんて、とんでもないです。 好きです、と言っていただいて嬉しいです。 お読みいただき有難うございます。 帆場蔵人さん 私はいまだに頭の中でずっとトマトが落ちる様を繰り返し妄想してます。どんなふうに、落ちるのでしょうね。 お読みいただき有難うございます。
0杜琴乃さんの作品に出てくる子供たちは子供らしく正直に思える。少なくとも嘘つきな子供じゃない。僕は嘘つきで悪賢い子供だったので大人になって自分の子供が出来ても子供嫌いなまま現在に至るから世界はいつも僕よりも大人だ。 本作にある美術館や片田舎の住宅街や、そしてトマトは残酷な世界だ。そんな残酷さを大人である杜琴乃さんも私もいつか子供たちにみせてあげなくてはいけない。トマトが落ちるまえに生きていることを教えてあげなきゃいけない。そんなことを考えてしまう作品だ。
0子どもは私にとって純真無垢な象徴であると同時に現実からの逃避を許さない存在でもあります。立ち止まる私を良くも悪くも動かそうとするものでもあります。最近、子どもから教えられることが本当に多いと感じています。教えられてばかりです。私から教えられることなんて、本当に僅かです。ただ、好きなことを続けるための強さを身につけてほしいので、何とか力になれるよう頑張りたいと思います。
0街角に路地裏に子供の声が溢れていた時代は既に過去のものなのでしょうか。自分が育った、子どもがワラワラといた時代、に比べて、孤独、孤立した状態で子育てをすることを強いられる、そんな時代になっているような気がします。 熟れすぎて、あるいは痛んで持ちこたえられなくなって、落ちていく寸前のトマト・・・それは、子育てに張りつめていく、孤独な母親たちがみな抱え持つ、ある種の爆弾であるような気がしました。
0まりもさん 私もこのトマトを見たとき、爆弾に見えました。雑草ばかりの畑にひとつだけなっていたトマトは、大きく今にもずるっと落ちそうな姿で。また、この夏の心臓のようでもありました。 お読みいただき有難うございます。
0クヮン・アイ・ユウさん これを書いた時、実在する風景を淡々と書き出した詩ってどうなの?と強く悩んでいた記憶があります。 日本のホラー映画の冒頭で映し出される日常の風景だけのシーンのように、一見すると何でもない映像なのにどこか不穏な雰囲気を感じるようなものを目指しました。 また、静と動について感じて頂けたことがあるようで嬉しく思います。落ちそうなトマトも落ちない、時間が止まったような風景のなかにいると、実際に見えているものと想像したものとの区別が付かなくなるような感覚にのまれます。わたし以外の存在の声、わたしを呼ぶ声が正にこの感覚から引き戻してくれました。先の三浦さんへのレス(宛名が抜けていました。すみません。)にも書きましたが、子どもは私にとって純真無垢な象徴であると同時に現実からの逃避を許さない存在でもあるので...。 過分なるお言葉をいただき大変恐縮です。有難うございます!
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