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【一点選評】乱酔夢脳内夜景(加えて私の詩感について)
初めましての方は初めまして。 4月よりB-REVIEWに投稿を始めました山本琴煢(きんけい)と申します。 公式キュレーターの花緒さん、まりもさん、HI言語さん、百均さん、三浦果実さん、コーリャさん、スポンサーのAROMATIC ARTISTRYさんには一度挨拶したいと思っておりました。 この場でさせていただきます。 楽しくかつ乱れていない詩の提供の場を与えていただいて、本当にありがたく思っております。 おかげさまで、純粋に現代詩、特に今の今に生まれる詩に向き合うことができ、非常に充実した毎日を送っています。 投稿される詩からたくさんの刺激を受け、それを自分の詩に反映させることは、清らかな循環になりつつあります。 今後ともよろしくお願いいたします。 ******** それでは選評に入らさせていただきます。 私が推薦するのはジャンブリーズさんの『乱酔夢脳内夜景』です。 http://breview.main.jp/keijiban/?id=1589 この詩は本当に素晴らしいと思うのですが、それを説明するためには、普段私がどのように詩を読んでいるかということに言及しておかなければ、批評の責任を果たせないと思います。 そのために、まずは私の「詩感」がどのようなものであるか、説明したいと思います。 私の実感として、詩を書く人、読む人には二種類のタイプがいるようで、「順番に書く、読む人」と「全体を創る、見る人」にぼんやりと分けられるような気がします。 (私がどちらなのかは、選評前に述べます。) 図にするとこんな感じです。 「順番に書く人、読む人」 ①--------------- ②--------------- ③--------------- ④--------------- ⑤--------------- ・ ・ ・ ・主「体」的(想いをしたためるのであれば、最適な方法) ・論理的(起承転結を基盤とし、その上で意外性を持ってきたりする。そのために順番は非常に大切である。) ・秀でた言語能力(言葉というものに対してサッパリしている) ・『無限性の演出』 「全体を創る人、見る人」 ┏―――――――――――――――┓ | ------------- | | ------------- | | ------------- | | ------------- | | ------------- | | ------------- | | ------------- | | ------------- | | ------------- | ┗―――――――――――――――┛ ・客「観」的(自分という存在をなくした(或いは薄めた)観点から詩を作る) ・創造的(特に、組合せ、結合性を大事にする。このことによって順番を変えても雰囲気は損なわれない。) ・感覚的(表されている言葉に対して裏の意味を探ったり、視点を変えてあれこれ考えたりする) ・『宇宙という枠組みを創る』 ここで強調しておきたいのは、「詩に枠を作るか作らないか」です。 枠を作らない場合、前者となります。 詩を進めるに従って、どんどん世界は広くなっていく。 枠がないから、進みたいだけ進め、そのことが気持ちいい。 その「完成しない広がり」、つまり『無限性』を楽しんでいる。 枠を作る場合、後者となります。 限られた資源の中で、最適な組合せを探すことを楽しんでいる。 頼るのは「自分の納得感、腑に落ちる」という感覚のみ。 自分が作った枠内をいかに整えるかに神経が注がれ、詩が完成することを重視している。 人には分からない『自分の宇宙を創造し切る』ことを夢見ている。 この枠、一概に「ある、ない」ではなくて、『濃淡』だと思っていただいた方がいいと思います。 枠が薄ければ、前者のように、光が外側に向かってどこまでも届くような詩になりやすい。 逆に枠が濃ければ、光は枠の中で乱反射して、万華鏡のような世界を作る。 「全体を創る人、見る人」の方が主「観」的なのでは?という疑問を持つ方もいると思います。 私は「主体的」と「客観的」という言葉は使っていても「主観的」という言葉は使っておりません。 そのように分類したのは、「詩中の書き手の実存がどのように現れているか」という意味で使いたかったからです。 「順番に書く人」が使う一人称は外に向けられているので、詩で使われている「私」はそのまま「私」であり、外側から見ても、その「私」は「その人」を指すことが多い。 それ故、その「私」は世界に向かって「行為」をすることができます。 そのことによって、詩が動く。 主体的に詩を動かせるのです。 対して、「全体を創る人」が詩の中で使う「私」は内面の宇宙(詩)に漂っている、実体が不明な「私」です。 内面の宇宙に「私」をどこに位置づけていいかわからないから、俯瞰せざるをえない。 「他人が私を『君である』と見る」というような絶対性に違和感を感じながら、不確定に使っている「私」という一人称です。 (それ故、この「私」はある特定の読み手にとってはテレパシーのように通じてしまうことがあります。 書き手のその「あいまいな私」に、読み手の「不確実な実存である私」を重ねてしまうわけですね。) その意味で書き手が一人称を使う場合(あるいは使っていなくても、どのように読むべきか分かる場合)、 私が確定している「順番に書く人」は主体的に詩を動かし、逆に私が確定していない「全体を創る人」は詩(という宇宙)の中では俯瞰的、客観的である。 私はこのように位置づけました。 以上を踏まえた上で、私は「主観的」という言葉は使いませんでした。 詩を書く以上、主観的であるのは当然だからです。 私が重視するのはそのあとなんです。 ある一つの詩が作者のインスピレーションを起点とし、(一応)完成され、発表されるに至るまでの過程がどのように経られたのか。 それは作者が、「能動的に探り得たもの」なのか、それとも「何かと何かが自然と組み合わさって書かざるを得なかったもの」なのか。 (或いはその分別すらできないほど、高度に抽象なものなのか…) それらは全て、詩に現れると思います。 どちらが優れていると言いたいわけではありません。 枠は「濃淡」だと言いましたが、このグラデーションこそ、その人の個性だと思います。 その人の生活状況によっても、濃淡は変わるでしょう。 全ての詩人が、各々に美しい詩題を持ち、心には素晴らしい世界が広がっていると思います。 あとは相性の問題だと思うのです。 ******** さて、前置きが長くなりましたが、選評に入らさせていただきます。 私は1:9の割合で「全体を創る、見る」傾向が強いです。 自然とそういう詩を求めてしまっています。 その人の行為より、その人の宇宙を覗いてみたいという好奇心の方が強いからです。 そんな欲求を抱えた中で、運よく「乱酔夢脳内夜景」に出会いました。 正直に言うと、戦慄しました。 ここまで芸術的に自らの宇宙を他人に分かる形で体現できるかと。 その魅力を全て語りたいのですが、特に優れているという点は ①音韻と詩の内容の合致 ②酔っ払いの混沌とした認知の巧みな表現 ③長さ の3つです。 ①音韻と詩の内容の合致 目に見える形で韻を踏んでいると分かるものを挙げれば 《乱酔スイミング スウィンギング脳波》 《酒浸りシナプス叫びちらし》 《海洋の潰瘍深く抉れど》 《感傷の不在が感情の画材》 《淡蒼球眠る 蒼穹駆け巡る夢をみている》 辺りなのですが、実際に声に出してみるとさらに隠れた韻がたくさんあることに気づきます。 最初の段落に注目します。 《酔っ払っい 外世界に飽和した眼球が がらり裏返り泳ぐ海 乱酔スイミング スウィンギング脳波》 「酔っ払っい」、と小さな「っ」が入っているのが、本当に酔っ払っていることを匂わせますし、かわいいですね。 しかし、私が注目したいのは次からです。 「がいせかい」「がんきゅうが」「がらり」「うらがえり」と「ga」の音が強調されています。 それだけでなく、「およぐ」「スイミング」「スウィンギング」と「gu」も強調されている。 私はこの「ga」の音はゲップで、「gu」の音は吐き気を抑える音だと捉えました。 それを踏まえた上での最後の一行はすごい。 「らんすいスイミン『グ』」で穏やかさ(らんすいスイミン)から少しの吐き気(グ)、 次の「スウィン『ギング』」で一旦落ち着いた(スウィン)と思ったが、一気に込み上げてくる吐き気(ギング) そして、「のうは」でついに嘔吐する。 私の勝手な解釈なのかもしれませんが、音だけで物語が出来てしまう。 なおかつ、その音と表示された言葉の意味が「酔っ払い」という範囲から逸脱していない。 こんな芸当は中々できることではないと思います。 誇張なしに天才だと思います。 ②酔っ払いの混沌とした認知の巧みな表現 私も経験があるのですが、酔っ払うと現実と夢想を行ったり来たりしますよね。 この詩はそれを豊富な語彙で、かつ言葉の性質をきちんと整理された上で表していると思うのです。 第二段落はその宝庫だと思います。 《星状神経のナトリウムが 金色にスパークしてる虚空 その下に広がる緑の海原 酒浸りシナプス叫びちらし 海洋の潰瘍深く抉れど 感傷の不在が感情の画材 エメラルドのキャンバスに突起伸ばして 真っ赤に塗り潰したいだけ》 この中で素面で使う言葉を抜き出せば、「星状神経」「ナトリウム」「酒浸り」「シナプス」「潰瘍」 酔っ払いの内面の情景を描写しているものは、「星状」「金色」「スパーク」「虚空」「緑の海原」「海洋」「エメラルド」「真っ赤」 酔っ払いの乱れた行動を表しているものは、「叫びちらし」「深く抉れど」「突起飛ばして」「塗りつぶしたいだけ」 これらの言葉が入り乱れて内面の世界が表現されているので、素面と酩酊の間を無秩序に行き来しているのです。 しかも韻も踏んでいるという、恐ろしい芸当です。 特筆すべきは 《感傷の不在が感情の画材》 自分が酔っ払っていることを自覚しながら、しかしその酔いに飲まれながら、そうなってしまっている状況に辟易とした感覚が、 「感傷の不在」でモノクロに、「感情の画材」でカラフルに表現されている。 第三段落はその方法を踏まえた上で、書き手の心情がより露わになっています。 《吹き荒れる突風 群青の鬣なびかせる海馬の大群 きれぎれの記憶全部 吐き散らし、笑い飛ばして 泡になっちまえ》 記憶と感情を司る「海馬」という脳の器官を、「海の馬」という動物に例えて使っている。 海は第二段落で出てきています。 ここでセンスが光っていると思うのは、「馬が走る」という直接的な表現を使っていないところです。 その代わり、 《きれぎれの記憶全部 吐き散らし、笑い飛ばして 泡になっちまえ》 これで十分、馬が息を切らしながら走っている光景が浮かびます。 同時に酔っている自分の心の叫びでもあります。 しかしまた、脳の器官である「海馬」に意味を戻したとき、酩酊している自分の破裂しそうな欲求を客観的に見ている自分が現れる。 そちらも捨ててないことで、この詩がより多角的に、また深淵になっている。 そして締めの第四段落です。 《夜の一番深い時間 不覚不定の底のそこに 淡蒼球眠る 蒼穹駆け巡る夢をみている》 ここでは酔っている自分をあっさりと俯瞰している。 段落全体が、酔いに疲れて素面に戻りつつある言葉で構成されています。 詩を完結させるために、しっかりと締めています。 ③長さ これだけ濃密な宇宙をたったこれだけの長さに凝縮したことがすごいと思います。 そのおかげで、読み手にも易しく、酔っ払った状態でもこの詩を読むことができる。 内容を実体験しながら、詩を味わうことができるなんて、読み手にとってこれほど幸せなことはない。 ジャンブリーズさんはなんて優しい人なのでしょうか! 他にも、まだまだ私が気づいていない点はたくさんありそうです。 ******** 最初に述べた私の詩感からするに、この詩は「全体を創っている」、つまり枠がある詩だと解釈しています。 その証拠にこの詩の行や段落を入れ替えても、雰囲気はほとんど損なわれない。 「何がどこにあるかはどうでもいいのかもしれないが、その宇宙観、物理法則のようなものだけは決して崩してはいけない。」 そんな詩感のお手本のような作品が、この『乱酔夢脳内夜景』でした。 (私にはとても書ける気がしませんが…笑) 以上が私の選評です。 かなりの分量になりましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
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作品データ
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作成日時 2018-05-09
コメント日時 2018-05-09
一点訂正させてください。 特筆すべきは 《感傷の不在が感情の画材》 自分が酔っ払っていることを自覚しながら、しかしその酔いに飲まれながら、そうなってしまっている状況に辟易とした感覚が、 「感傷の不在」でモノクロに、「感情の画材」でカラフルに表現されている。 この部分、「辟易」と言ってしまいましたが、「感傷が不在している」上で、「感情の画材」と言っているので、「酔っていることを肯定し、色とりどりにより掻き乱そうとする意思の表れ」と汲んだ方が、その後の エメラルドのキャンバス… に繋がるような気がします。 私のバイアスがかかり過ぎていたようです。 失礼しました。
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