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one
一、 ずっと昔、一基の灯台だったころ 蠍の祭で頸をきられた ぼくたちのからだは書庫に打ち棄てられたまま 頸の断面から夜ごと伸びた羽 ヒヤシンスの芽のように 紫色のこどもたちの実がなって ぼくたち、切り刻まれながらも 世間を知った あれから、ぼくは 土くれを寺院にして僧侶になった 夜にはほそい四肢に炭を塗り 砂浜にひとり 火を鏡としてくらす そこにきみの顔がみえた気がしたから けものたち、あたたかい どうか、このまま 朝まで血をくべて 市、 橙色の麦ばたけできみをみた その日から 葡萄をふみしだく花嫁の足首 船をひく偏西風の手首 古時計のねじの回転に きみをみた 夏の空におちる火のなみだ 灰を塗った顔は きみだった 位置、 この街の 一番高いところに立つきみは 風にたなびく かみのようにまっしろく あんなに強い風、あそこからやってくる 砂漠に生える葡萄の木の下あたり 砂に抱かれて沈んでいった 閉じた瞼に映る涸れ川あたり 今にも張り裂けそうな葡萄の実 それらがたたえるあまい水は 忘れ去られた川の記憶だ 煮出された血液は 複雑な水路をたどり やがて色はうしなわれ みんな、みんな、 きみへとつながる きみの横顔を映す鋏で きみはみずからを刻んでいく 風は吹き散らす、足の先から まっしろな切片を 最後のきみは、どこに宿っていたのだろう この街はきみで埋め尽くされて ぼくはみうしなった さようなら、こんにちは 簡単なおしゃべりが 今もまだ終わらない
one ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1133.8
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-04-01
コメント日時 2017-05-01
項目 | 全期間(2024/12/04現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
- 疲れてしまったら身体に染み入るものを摂取しましょう (百均)
「いち」という単語による様々な展開。第1連は自由な言葉の展開によって美しい夜のイメージが綴られる。第2連では西脇順三郎のような西欧風の表現で「季節」が語られる。ここにきて第1連」の「紫色のこどもたちの実」とは葡萄の実ではなかったかと思いつく(遅せぇよ 第3連における「きみ」とは何なのか。ここまでの流れからすると灯台かも知れない。「きみ」は自らをハサミで切り刻み、その切片が風に乗って街へ堆積していく。語り手は「最後のきみ」を見失うが、見方を変えれば彼のまわりには常に「きみ」がいるとも言えるのではないだろうか。非常に完成度の高い、美しい詩だと感じた。
0鶏が先か、卵が先か。その答えを知る術がないが、どちらにしても仮の答えを出すことはできる。では、雲が先か、雨が先か、川が先か、海が先か、つまり、水の出自は一体どこから始まったのか。 仮に雲が先だとしよう。雲はやがて雨を降らすと同時に、自らの存在を消してしまう。つまり、雲自らが雨になって地上に舞い降りてくる。それは、全体であり、部分でもあるのだから、人称をつけるとしたら「きみ」になるのか、「きみたち」になるのか。いずれにしても、降りてくる間は雨という名前を持っているが、地上に降り注ぐとそれは一体何と呼べばいいのだろうか。湖や海に降り注げば、その全体の一部となって名前が消えてしまう。植物に降り注げば、吸収されて、その体の一部となる。雲は白かったはずなのに、雨となることで色をなくし、地上に降りることで何かの一部となってしまう。 だが、いずれまた、元の場所に戻る機会が訪れる。湖や海の水は蒸発すれば雲に成り得る。植物が孕む水分も人に吸収されようが、誰かに踏みつぶされようが、いずれ姿を変えて、天に昇る。 天から降り注いだ水は、誰かの一部となり、また天に戻る、その循環。地上にいる「ぼく」は、それを見送るのだが、また同じような姿で訪れる「きみ」に挨拶をする。
0もとこさま お読みくださってありがとうございます。 作者的には人類史みたいなものを意識して書きました。なので、西欧風の比喩とかって古臭い気がしてあれなんですが、あえて入れてみました。紫の子どもが葡萄の実と結びついているのは、つい数日前、最後に推敲したときに私も気づいたので、全然遅くないです。笑 当初は、ヒヤシンスの花のつもりでした。 なかたつさま お読みくださってありがとうございます。 上述のもとこさんへのお返事でも書きましたが、作者的には、歴史のなかで「一」が変容していく過程みたいなことを書きたかったと思います。それで、最後の連の前にもう一度「一、」を入れて戻ろうかと思ったのですが、内容的に「位置、」のままのほうがいいので諦めました。ですので、なかたつさんが「きみ」を、水の流転を比喩として論じてくださって嬉しく存じます。
0一二連目の古風な感じは、どこから来るのか、と思い、もとこさんのレスを見て、そうだ、西脇が居た、と思い・・・ 自由連想を書き連ねたような顔をして、伏線を縦横に張り巡らせた作品。用意周到だと思ったのですが、レスを見ると、かなり無意識的に抽出されているようでもあり・・・。 冒頭、生贄のイメージがありながら、生々しくない。古代ギリシャというのか、地中海の香りがするのは、サモトラケのニケ像のようなイメージとか、書庫とかヒヤシンス、僧侶、などの単語が喚起する複合的なイメージの故でしょうか。西脇の「カルモヂイン」苅藻寺院、のような明るさ(実際は愛用していた睡眠薬の名のもじりだそうですが)を連想したところで、二連目の、もとこさんが西脇的と評する秋祭りの景に入る。 蠍の祭り、これは宮沢賢治の蠍の心臓を喚起させますし・・・「ぼくたち」が「ぼく」になって、「きみ」を捜す永遠の旅に出る、という展開を夢想するなら、犠牲となって(人類の罪、誰かの不幸の身代わりとなって)死んだカンパネルラを捜すジョバンニの旅、のようでもあり・・・。 三連目の「かみのようにまっしろく」これは、紙に記された物語、を連想すると共に、神のように真白く・・・19世紀以降の、白いギリシャのイメージを喚起します。神々に捧げられた葡萄酒のイメージ、神の血、人間の罪を贖うものとしての贖罪の血、のイメージも重なる。 冒頭で「ぼくたち」であったはずの、幸福な状態を求め続けてさまよう主人公、その舞台としての、少し古典的なギリシャ風(東洋的ギリシャではなく、西脇や近代西欧人たちが夢見た、ヨーロッパ文明の故郷としてのギリシャ)の風景が印象に残る作品でした。 灯台も、人間を啓蒙するものとしての、知の灯台、啓蒙の灯をともす白い塔、のイメージでもあります。
0まりもさま 北さま お読みくださってありがとうございました。また、お返事が遅くなってしまい申し訳ございません。 イメージが古臭いので、今日日あんまり需要がない文章だと思いますし、テーマ的にも私みたいな一般人が書いて何の意義があるのか、と我ながら疑問の残る文章なのですが、コメントをくださって本当にありがたいです。 別に平和主義者でもないんですが、個人的に金子光晴の「寂しさの歌」がこの世で最高、完璧な詩(異論は認める)で、いつかこんなふうに書けたらと思っていました。もちろん遥か遠く及ぶものではありませんが、「金子光晴みたい」と評していただけたのは素直にものすごく嬉しく、もうここで詩作をやめてもよいと思いました。
0oneからはじまって、 一、というものを灯台から始めたという所で、僕はなんとなく一定の満足を得られたような気がします。市も位置も、語のセレクトが好ましいですね。内実についてどこまで掘り下げて読めたのだろうか、というのは、僕はまだそこまでこの作品を読めてないのでなんともいえないのですけど(多分もっと内実を湯掻いていけば、それなりに実った読解を提示出来るのかもしれないのですが、位置が多分一番好きですね。)それらは他のレッサーの読みで示されているように思うので、個人的には取り敢えず文章がなだらかであったという所感を、まず伝えたい。 レスを読んだ後で、金子光晴をさっきざっと読ませて頂いて、少しだけ金子光晴の詩集を手にとって読んでみようと思いました。
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