バード - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

ことば

ことばという幻想

純粋な疑問が織りなす美しさ。答えを探す途中に見た景色。

花骸

大人用おむつの中で

すごい

これ好きです 世界はどう終わっていくのだろうという現代の不安感を感じます。



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バード    

クリアファイルに差し込んだ昼過ぎの歩道にはいつも決まって入口も出口も見当たらないから、ちょっとしたスワイプで後ずさりした場所から耳を切り落としたトーストの柔らかい部分にハンディカメラを低く構えるやり方で、歴史も思い出も残らないつるつるのアスファルトを誰かが履いてた革靴で斜め後ろに蹴とばしながら歩く、ちょっと前までシリアルバーをかじってたベンチの前の薄い黒板にすうっとかすれた風色のチョークで記憶を削った一羽のシラサギが、ペンキの渇かない擬木柵に生々しい密度でまっ白く止まっているのはバグでも変数でも関数でもなくて、ルートを折り返すいつもの公園がたったいま遊んでるこどもたちと一緒に手際よく折りたたまれて、ツルの姿で向こうの空に離陸したところかもしれないって気づくなら分かった方がいいし考えなくても何も違わないけど、それと同じくらいあの日の校庭のはじっこで初めて世界を完璧に回したあの子の逆上がりを遠くから誰かがじっと見てたってことをテロップの代わりに沈黙で伝えるためだとすると、たまたま同じ場所と季節をプログラムのとおりに歩いてるたくさんの知らないきみたちとは死ぬまで一度も友達になれないかもしれないし、夜にはまるごと消えてしまう縺れた予感をウィともノンとも言わない気の抜けた陽射しがミストみたいに溢れてくるのを見ていると、これまで二つの足の裏がぐりぐり砕いてきたありきたりの砂粒は、きっと宇宙から量子レベルで観測される変化のなかでモノとして失われた誰かを支える背骨のかけらだったのかもって思うから、生まれたときから目の前に高くそびえる手応えのない壁に頼りないハーケンを打ち込みながら、わたしはわたしの現在地を生きる代わりにとにかく歩くことはやめない


バード ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 32
P V 数 : 2739.2
お気に入り数: 1
投票数   : 4
ポイント数 : 0

作成日時 2025-02-08
コメント日時 2025-03-01
#現代詩
項目全期間(2025/04/12現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性00
可読性00
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技巧00
音韻00
構成00
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閲覧指数:2739.2
2025/04/12 14時48分40秒現在
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    作品に書かれた推薦文

バード コメントセクション

コメント数(32)
鯖詰缶太郎
鯖詰缶太郎
作品へ
(2025-02-08)

おはようございます。 光彩、豊かなスロープやカーブ、建築物には例えられそうにないくらい、言葉の繋ぎ目が透明度が高く、これをたぶん「うってつけの朝」というんだろうか、なんて思い 、普段、コーヒーは飲まないけれど、ワンランク上っぽい珈琲を飲みたいな、と思いました。 これだけ、いきつぎなしならばどこかに「ほころび」があるのでは? などと、意地の悪い「遊び」を目論んでしまいましたが、ほころびなどあるはずなく、鏡を見れば、「源氏物語」を他人に紹介する時の、「光源氏のゴシップ」をひらひらさせながらやる、あの下卑た笑顔を自分自身に見つけてしまい、ほころんでいるのは自分ではないか、なんて思い、反省しております。 朝から、なんて不毛な事をやっているのでしょうね。 だいたい、その水味のカーブも、飴色の滑走路、風の通り道も、たやすく描けるものではないと、読み進めていけばわかるものなのに。 作品、ありがとうございます。 自分は朝一、ほころんでしまいましたが、よい土曜日をお過ごしくださいませ。

2
1.5A
作品へ
(2025-02-08)

このような書き方(と読後)を分析するにあたって、一例をあげると、始まりがA地点だとして、そこからB地点、C地点を経て最終的にD地点にいきつくものとして、通常では“読む”と、B地点、C地点を通過していることが分かる、それが“展開”なのだと思いますが、そうではなくA地点から目隠しをされて、様々な場所をくねくね通って、D地点についてようやく目隠しが外される。無論その間耳は聞こえているのですが、D地点に連れてこられた読み手は、ある種ワープしたような感覚を抱くように思います(過去作では『ストリーム』にその色が濃く出ているように思います)。つまりここでは、視覚という五感を隠す、という例え方をしましたが、これを概括すると、読み手に“ある(存在する)”ものを“なくし(ないしは隠し)て”読ませ(てい)る、そのような書き方(と読後)になると僕は考えています。 以前読んだ本のなかに(穂村弘さん)体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ、や 校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け、があるのですが、 短歌のことはほとんど知りませんし、知らないから思えるのですが、とても力のある一文だと思いました(あるいは歌集等を読まれてみるのもいいかもしれません、そして一文という表現はおかしいかもしれませんが)。この、読んでから数秒経って状況が見えてくる感じ、今作等の書き方とどこか似ているのかもしれないと、そんなことをふと思いました。今作にはワープ感(適当)をあまり感じませんでしたが、安定した書き方が示さていると思います。あと、この作風で歌詞などを書くと、息継ぎをする場所で迷子になりそうだと、下らないことを考えました。息継ぎをせずに次のフレーズを歌う、それが結構心地良かったりするのはなぜなのでしょう。読ませるということもそういうことなのかなと、ちょっとだけ思いました。

1
佐々木春
佐々木春
鯖詰缶太郎さんへ
(2025-02-09)

鯖詰缶太郎さん、コメントありがとうございます。 そう仰っていただいて嬉しいです。わたしはコーヒーがとても好きなので、コーヒーをゆっくりとおいしく飲める土曜日の朝はかけがえのないものです。 今回の作品はあまり考えずに自分の中から出てくる言葉や声をつながるところまでつなげていこうと思いました。その結果なので、ほころびというかそもそも成立しているか自信はないのですが、「水味のカーブも、飴色の滑走路、風の通り道」と素敵に読んでいただいてよかったと少し安心しています。

1
メルモsアラガイs
メルモsアラガイs
作品へ
(2025-02-10)

コメント書いていて途中止めていたら佐々木さんがあげられたので消えてしまった。泣き ということでもう思い出せないので主要な部分だけを。 この作品の内容からどうしてタイトルが「バード」鳥と置かれたのだろうか。ということ。 上記のお二人が、その優れた選語感覚や内容から詳しく解析をされてコメントされている。しかしながらそれらを参考にしてもこのタイトル、ザ、バード(鳥)の意味がわからない。よもや白鷺や鶴から持ってきているとは到底考えられないのだ。 そこでわからないものはわからない為りに考えることを一旦停止して、感覚に頼ることにしてみようと思った。 読んでいると不可思議に現実的ではない光景が展開されている。まるで夢遊病者が迷路を彷徨うように。 それらの動きと反比例するかのように語る時間は流れてはいないのだ。なんとも言葉による不思議な感覚の詩ではないか。 確かに鳥の視界は人間とは比べものにはならない。カメラのようにマクロからミクロの領域両方を備えているらしい。かといってそれらの光景を俯瞰的に眺めている様子でもない。 では一体なんで「バード」と置かれてあるのだろうか。 文体それ自体はただ疑問符を引きちぎるように答えを求めて彷徨う。話者はこれらの景色に付いていかないので時間は止まったままだ。現実的ではない絵に書かれた景色だけが目まぐるしく入れ替わる。話者はそれを日常から眺めるように冷静で現実的なのだ。その光景はまさにマクロからミクロの視点で眺める鳥の目線。交錯する非日常と日常、現実と非現実な機械の目のように。 つまり鳥「ザ、バード」とは現実と非現実の物語を風に揺られて彷徨う機械の鳥。飾られた「風見鶏」なのだ。 そしてその遠く現実からかけ離れた距離感に戸惑い、疑問を投げかける話者がいる。という、鳥の答えがわからないので、曖昧な解釈を提示してみました。

1
完備
完備
作品へ
(2025-02-10)

>一羽のシラサギが、ペンキの渇かない擬木柵に生々しい密度でまっ白く止まっているのはバグでも変数でも関数でもなくて、 の部分。ちょっと理系用語の使い方が雑かなあ。

1
三明十種
作品へ
(2025-02-10)

佐々木春さんの詩の中にはけっこう公園が出てくるよーな気がするのですが気のせいでしょうかねー公園っていいですもんねーネタに困ったときは公園の様子を思い浮かべますもの!(ますもの!)一気読みここちよかったですよーありがとうございました。

1
メルモsアラガイs
メルモsアラガイs
作品へ
(2025-02-10)

↑ 確かにね。バクる。変数関数。この表現にも迷わされた。わたしはここに表現されていない時間という概念を数式に置き換えたズレだと解釈した。 言い忘れましたが、この一連の連続して投げかけられる歩むという行為と語り手の時間の関係性はまさに魔術的なリアリティとの関係性で、客観的な鳥のように見つめる目線というのは話者とは無関係に歩む。その背景と現実との違いに戸惑う話者とそれらを導き出す作者の関係というのは差異におかれていて、つまり差延に繰り返されていく、という構図がみえてくる。  佐々木さん、このような操作を意図的でもなく詩として表現されているとしたならば、やはり御見上げ、ではなく御見事なのです。

1
佐々木春
佐々木春
完備さんへ
(2025-02-10)

完備さん、実は「バグでも変数でも関数でもなくて」って書いてるとき、完備さんがいたらどう言われるかなと思っていたのです。 まさか、直後に戻ってこられるとは思わずに…油断大敵ですね(油断していたわけではないのですが)。 作品への感想はあまりないということかもしれませんが…散文作品にコメントいただきありがとうございます。

0
レモン
レモン
作品へ
(2025-02-10)

初めまして。 ああ、佳いですね! 一文に見えて、破壊と再構築が繰り返されていて、 とても心地良いです。 佳い詩を読ませていただきました。 ありがとうございます。

1
佐々木春
佐々木春
レモンさんへ
(2025-02-11)

レモンさん、初めまして。コメントいただきありがとうございます。 佳い詩と言っていただいて、うれしいです。

1
佐々木春
佐々木春
三明十種さんへ
(2025-02-12)

三明十種さん、ありがとうございます。 なんで公園がよく出てくるか…それは単純にわたしが公園が好きでよく行っているからだと思います。 週末で公園に行かない日はないくらいです。でも、なんで公園が好きなんでしょうね、ナゾです。

0
レモン
レモン
作品へ
(2025-02-12)

二度目まして。 こんばんは。 どうも、佐々木 春さんは、厳しいコメントを望んでいるようなので、遠慮なく。 ひと息で読ませようとするなら呼吸が長いです。どっかで息継ぎがしたくなり(欲しくなり)ます。 そして、フレーズ。 突き刺さるフレーズが無いです。 いえ、あるにはあるのですが、薄いです。 全体的な調和が取れている代わりに尖ってない。 完全な円と時間の停止。 どこか歪んでる方が面白いのでは無いか?と思いました。

0
fujisaki
fujisaki
作品へ
(2025-02-13)

このようなスタイルで書いてみたいと思うことがあります。なんどかやってみたけど続きませんでした。 頭に浮かんでくるイメージや単語を思うがままに繋げてみようとするたび、脳の中の、意味を求める部分が邪魔をしてきて、どうにもならず。ふんぎりがつかないというか、これは悩みです。 そういうことで、羨ましいし、楽しく読みました。 バードって言うと、「個人的な体験」の主人公を思い出しますが、きっと関係ないでしょうね。

2
佐々木春
佐々木春
レモンさんへ
(2025-02-14)

レモンさん、アドバイスありがとうございます。

0
紅茶猫
作品へ
(2025-02-14)

最後の熱い決意だけはストレートに伝わってきたのですが、その他のところは正直言葉遊びのように感じてしまいました。 詩人が読めばここはこんな風に工夫していていいねとか思うのかもしれませんが。 私は詩人さんでは無いので。 >耳を切り落としたトーストの柔らかい部分 ここは耳から書き始めているので一緒ゴッホなどの生々しい話なのかなと思うところでした。 そういう繊細な仕掛けが得意な方なのでしょうね。

1
紅茶猫
作品へ
(2025-02-14)

誤字がありました。 ❌一緒 ○一瞬

0
レモン
レモン
佐々木春さんへ
(2025-02-14)

こんばんは。 もし、私のRuleを押し付けているように思われたなら、 ごめんなさい。 アドバイスなどというおこがましいことをしてしまいました。 お詫び申し上げます。 どうか、お気になさらないで下さいませ。             レモン 拝

1
佐々木春
佐々木春
レモンさんへ
(2025-02-14)

いえいえ、全然気にしないでください。読みにくいとか強いフレーズがないのは自分でわかって(ある意味あえて意識的に)書いてるので、なんとお返ししていいかわからなかっただけです… 先月書いた「惺座」っていう作品がわたしの中ではかなり読みやすい書き方だったので、今回はそういうのなしで書いてみました。

1
レモン
レモン
佐々木春さんへ
(2025-02-14)

こんばんは。 広い御心で受け止めて下さり、 ありがとうございます。 「惺座」拝読いたしました。 字を揃えられていた辺りが、 バッチリ印象に残っています。 ありがとうございます。

0
佐々木春
佐々木春
紅茶猫さんへ
(2025-02-14)

紅茶猫さん、コメントありがとうございます。 あまりおもしろくなったのはわたしの力不足です。 ここからはコメントいただいて思ったことですが、 >その他のところは正直言葉遊びのように感じてしまいました。詩人が読めばここはこんな風に工夫していていいねとか思うのかもしれませんが。私は詩人さんでは無いので わたしは自分の作品を詩だと意識したことはないですし、おそらく詩に詳しい方ほど「これは詩なのか?」って思っているような気がするので、少し不思議でした。そういう意味では、わたしのものよりずっと詩のかたちをした詩を投稿されている紅茶猫さんが「私は詩人さんではないので」と仰ることはないんじゃないかなと思いました。 あと、言葉遊びは全然できていません。言葉遊びって例えば谷川俊太郎さんの作品にあるようなものでしょうか。ほとんど感覚で書いているので音韻も工夫もない作品だと思っています。 >耳から書き始めているので一瞬ゴッホなどの生々しい話なのかなと思うところでした。 答えになっていないかもしれませんが、例えばGoogleで「耳を切り落とした」ってキーボードに打って「ゴッホ」って候補が上がってくるとしますよね。でもそこで「ゴッホ」って書いてしまったら、うーんって唸りながら作品を書かなくてもいいじゃないかってわたしは思ったりします。「耳を切り落とした」「トースト」「柔らかい部分」って打っていって、候補が出て来なくなって、それでもかろうじて何が続けていけるか、それが勝負なんじゃないか(何との勝負かわかりませんが)と思っています。って答えになってないですよね笑

2
佐々木春
佐々木春
1.5Aさんへ
(2025-02-15)

1.5Aさん、ありがとうございます。 コメントが濃厚で、考えているうちに返信が遅くなりました。 まだ考えがまとまっているわけではないのですが… コメント、興味深く読ませていただきました。 >読み手に“ある(存在する)”ものを“なくし(ないしは隠し)て”読ませ(てい)る、そのような書き方(と読後)になると僕は考えています。 わたし自身はひとつひとつの言葉・単語を探りながら(探しながら)書いているので、そのような印象になるのがおもしろいなと思いました。「A地点から目隠しをされて、様々な場所をくねくね通って、D地点についてようやく目隠しが外される。」というところ、書いてるときの実感としてはA地点からA’地点、A’’地点、A’’’地点とほんの半歩ずつくらい動いていって、気が付いたらA”””地点かと思ったらそれはK地点にも見えるみたいな感覚です。でもこのK地点に行こうとはわたし自身も思っていないので、目隠しされている感覚はわたしもおなじかもしれません。進んでいるのか戻っているのかもわかっていません。 穂村弘さんの短歌はなにかでみかけてまとめて読んだことがあります。 まだ、短歌の世界にはなじめないというか、字数が足りないというか、その中ではわりと斎藤茂吉さんみたいな世界が好きだったりしますが、まだ自分にはストンと落ちる感じはしません。でも時間がたてば変わってくるような気もしています。 今回の作品は確かにワープ感はないですね。ワープどころかほとんど移動していないです。そもそも時間感覚や空間感覚が曖昧です。なんででしょう。理由はわかりません。自分のコンディションにもよるのかなとも思ったりします。 これを歌詞にしたら大変でしょうね笑 歌うことはできませんが、実はこれくらいの一文であればわたしは読むにしても自然に読むことはできると思います。ただ音として読んでも伝わらないと思うので書いています。たぶんそれだけ単語自体の意味や役割というより単語が次に呼ぶ単語、そのつながりとか流れみたいなものを感じたいんだと思います。 丁寧なコメントありがとうございました。

1
佐々木春
佐々木春
メルモsアラガイsさんへ
(2025-02-15)

メルモさん、返信遅くなってすみません。 まず、コメント書き途中で上げてしまってすみません… そして、消えてしまったのに書き直していただいてありがとうございます。 バード、なんでバードなのか…コメントいただいてから考えていましたが、自分でもはっきりとはわかりません。ただ、たぶん、歩いている「わたし」とは違う視点というか、次々変わっていく場面というか空想というか飛躍というか、それをもたらしている何かを歩いているものとは違うものとして置きたかったのかもしれません。少し後付けのような話になってしまいますが。 なので、 >この一連の連続して投げかけられる歩むという行為と語り手の時間の関係性はまさに魔術的なリアリティとの関係性で、客観的な鳥のように見つめる目線というのは話者とは無関係に歩む。 と書いていただいたところ、ここまでかっこよくはないかもしれませんが、この無関係、というか何か関係してそうなんだけど相関が見つけられない感じを持って書いていました。 その意味では、完備さんから指摘いただいた「バグでも変数でも関数でもなくて」のところは、数学というよりは、計量とか統計とかたくさんのデータをどう説明できるかを探っているときに、何か意味ありげに見えるファクターをどう考えるか悩んでいるっていうイメージかもしれません。それが時間なのか、空間なのか、そこらへんも含めて。 >その背景と現実との違いに戸惑う話者とそれらを導き出す作者の関係というのは差異におかれていて、つまり差延に繰り返されていく、という構図がみえてくる。 ここは意識してやっているわけではないですが、たぶんわたしの書いたものの中にはそういう「ずれ」みたいなものが潜んでいるような気がします。メルモさんのコメントを読んでいて、その「ずれ」があるから「わたし」はいろいろ飛躍しながら自由に歩いているのかもしれないなと思いました。 ありがとうございました。

0
佐々木春
佐々木春
fujisakiさんへ
(2025-02-15)

fujisakiさん、ありがとうございます。 完成度のとても高い作品を書かれるfujisakiさんでもどうにもならないことがあるなんて意外です。 わたしからしたら逆にあのような作品は書けそうにないので…逆に邪魔するものがないだけかもしれません。 楽しく読んでいただけてうれしいです。 題名はそこまで深く考えたわけではないですが、少し捉えどころのない不思議なものをイメージして題名にしました。でも、大江健三郎さんの作品は全般的にけっこう好きなので、どこかでつながっているかもしれませんね。 fujisakiさんの作品もまた楽しみにしています。 ありがとうございました。

0
千才森 万葉
千才森 万葉
作品へ
(2025-02-15)

単語や文章、それらの配置から生み出す雰囲気の整え方が巧みで、綺麗。きっと、作品の物語に頼らずとも雰囲気だけで作品を立たせられる、ポーズを決めさせられる作者さんなんだろうなって感じました。 穏やかに流れる作風の中に座るだけ、それだけでも好きな人は満足出来そうです。 森林浴や海水浴、そうした感覚に近いのかもしれません。なにかしらの目的の達成を条件としない満足ですね。 作品としては緊張感が続いてて色の変化も楽しめる『惺座』の方が好みですけど、火が付きづらく気分を乗せられなかった日は『バード』を手にすることでしょう。 正直、正確な意味は読み取れないんですけど、規則性と前向きな文章に誰も傷つけない種類の強さを感じて、隣を歩いていたら元気をもらえそうな気がします。 文章としては最初の2文と最後の2文が好きですね。ぐっと作品に入り込ませる力を感じました。特に最初が強く作用しているように感じます。 この作品で更に出来ることがあるとすれば、何でしょうね。 内容。でもストーリー性を楽しむような作品では無さそうに見えますし、下手に組み込んだら読者の視線が固定されて雰囲気が壊れそうですし。 ただ、もしかしたら途中で飽きが来てしまう読者さんもいるかもな~とも思うんですよ。ダレると言いますか。手持ち無沙汰になってしまう感覚。 もうひとつ仕掛けを入れても良いのかも? わたしは文章が極まってくれば読者の呼吸や心臓の動きを操れると考えています。句読点や間、単語の硬さ、擬音語や平仮名漢字、そういった物で構成される文章が生み出す波に読者を乗せられれば、心臓や筋肉の緊張やリラックスを作者側が操れる。 素晴らしい文章に出会って時が止まった、なんていうのは好例ですね。 これの先にあるのが文章で疑似体験をしてもらうことになりますか。 多分、作者さんの感性があれば読者にも、まるで同じ道を歩いているような感覚を与えられるんじゃないかなと思います。楽しい推進力として。

3
佐々木春
佐々木春
千才森 万葉さんへ
(2025-02-16)

千才森さん、コメントありがとうございます。 そして、わたしのライトで中身のないコメントに比べてかなりしっかりと読んでいただき、恐縮です… >作品としては緊張感が続いてて色の変化も楽しめる『惺座』の方が好みですけど、火が付きづらく気分を乗せられなかった日は『バード』を手にすることでしょう。正直、正確な意味は読み取れないんですけど、規則性と前向きな文章に誰も傷つけない種類の強さを感じて、隣を歩いていたら元気をもらえそうな気がします。 ありがとうございます。こういう率直なコメントをいただけることもあまりないので、とても参考になります。自分としては「惺座」の方が明快というか前向き、「バード」の方が書いている自分自身もよくわかってないし不思議(というか不気味)だと思っていたのですが、読んでいただく方にとっては、言葉の選び方やテンポとし確かに「バード」の方が強さみたいなものがあるのかなと思いました。 >ただ、もしかしたら途中で飽きが来てしまう読者さんもいるかもな~とも思うんですよ。ダレると言いますか。手持ち無沙汰になってしまう感覚。もうひとつ仕掛けを入れても良いのかも? これはわたし自身が「仕掛け」を入れるような技術を持ち合わせていないということがあると思います…あと、「惺座」では気の赴くままにいろいろやってみたのですが、その反動として「バード」は自分の吐く息をそのまま文章にしてみようと思って書いてみました。だけど、仰るとおり、どこかで何かちょっとした工夫というか変化というかとっかかりみたいなものを入れてもよかったのかもしれないなと思いました。何と言ったらいいか、たぶん自分で思っているより文章が長いのかもしれないなと思いました笑 ありがとうございます。 千才森の作品もまた読ませてください。

1
佐々木春
佐々木春
レモンさんへ
(2025-02-22)

ありがとうございます。 ふと、レモンさんのコメントが詩的だと思えるようになってきました。 (他の作品への)

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レモン
レモン
佐々木春さんへ
(2025-02-22)

こんばんは。 そうですね。 「どうか響いてくれますように」と祈りを込めているので、詩のように見えるのかもしれません。 ありがとうございます。

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千才森 万葉
千才森 万葉
作品へ
(2025-02-22)

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千才森 万葉
千才森 万葉
作品へ
(2025-02-22)

ごめんなさい? 操作ミスです

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熊倉ミハイ
熊倉ミハイ
作品へ
(2025-02-25)

自意識過剰かもしれませんが、拙作「チャンネルを合わせる」と同じ試みがなされているのではと、驚いて読みました。最近、他の方も佐々木さんのそのような吸収の姿勢について言及していたので、もしかしたら……と。 それはさて置き。メルモさんが考察している、「バード」というタイトル、差延・ズレ、時間と空間の問題についての話が面白いですね。 時が止まっているというよりも、情報が完結しない語りとして、一文一文が過去なのか現在なのか未来なのか分からなくなっている、時の無限な拡がりを俯瞰しているその「バード」目線、と捉えられそうだと思いました。 それは、詩の終わり方からもそうなのかなと。「現在地」=「今」だとすると、そこを生きていくのではなく、時間軸を縦横無尽に歩いていく決意のような。空間の鳥になれないのなら、時間の鳥になる。それが人間の特権だと言わんばかりに、「歩く」という動詞が使われるのがいいですね。 しかし、そんな時空の話すら飛び越えて、パラレルワールドについて触れてそうな詩に見えてきました。コメント欄で話されている「ズレ」の部分でしょうか。 そう思ったキッカケは、「代わり」というイメージ(それは、「関数」や「変数」も含めて)、「かもしれない」という推測の語尾の散見、ハンディカメラと逆上がりをする子どもの観測者などから。 記録や記憶に残すという行為は、「もしかしたら事実は違ってたかもしれない」というパラレルの可能性を無くすためだと思います。パラレルワールドの拡がりへの抵抗から、ハンディカメラを取り出したり、逆上がりを眼に焼き付けようとする人がいたり。 記憶に強く刻まれた「シラサギ」は、世界線が変わってもずっとそこにいるような、「関数」や「変数」から外れた象徴的な存在なのかなと。 そう考えると、なんだか怖い詩に見えてきました。入口や出口が無いこと=情報が完結しない歩道に違和感を覚えて、「定数」的世界を求め「歩き」始める。でも、人間が定数に辿り着くのは死を迎える時でしょう。 「生きる代わりに」「歩く」というのがつまり、トートロジーに陥っている。しかしそれは避けられない、そう完結して生きざるを得ないでしょう。 しかし作品全体の文体が孕むのは、完結しない一文、連綿とつながってしまう景色。全てを観測しようとして、鳥瞰したことにより起こる、意味性の散漫、「定数」から遠ざかるというアポリア。 なんだか頭でっかちに考えて疲れてしまいました。私は、逆上がりを見守るところと、背骨の欠片のあたりの表現が、好きです。

2
佐々木春
佐々木春
熊倉ミハイさんへ
(2025-03-01)

熊倉さん、ありがとうございます。 チャンネルを合わせる、印象に残っている作品ですが、熊倉さんの試みについて(作品についても)言及されていなかったため、どのような考えだったのかあまり確信はありません…。 もしよければ可能な範囲でよいので教えていただけるとうれしいです。 内容としてはわたしなりに感じとった世界への関与の仕方みたいなところはこの作品にも通じているものがあると思います。間違っていなければ、ですが。 かたちについては、一年間書いてきた中で自然とかたちを整えることができるようになってきた反面で、何か整いすぎて遊びというか余地というか、そういうものがなくなっていたような気がしたので、一年前に書いた自分なりのスタート地点の作品「クロール」を思い出して、一息に言葉を続けてどこまでいけるか久しぶりにやってみた感じです。 それが、熊倉さんの仰るとおり、時間軸や空間座標や主体みたいなものが曖昧になっていくこと、 >それは、詩の終わり方からもそうなのかなと。「現在地」=「今」だとすると、そこを生きていくのではなく、時間軸を縦横無尽に歩いていく決意のような。空間の鳥になれないのなら、時間の鳥になる。 >しかし、そんな時空の話すら飛び越えて、パラレルワールドについて触れてそうな詩に見えてきました。 という印象につながったのかなと思います。 あと、 >記録や記憶に残すという行為は、「もしかしたら事実は違ってたかもしれない」というパラレルの可能性を無くすためだと思います。パラレルワールドの拡がりへの抵抗から、ハンディカメラを取り出したり、逆上がりを眼に焼き付けようとする人がいたり。記憶に強く刻まれた「シラサギ」は、世界線が変わってもずっとそこにいるような、「関数」や「変数」から外れた象徴的な存在なのかなと。 というところ、なるほどなと思いました。 そうですね、パラレルワールドというか、当たり前かもしれないですけど、自分が把握できる世界なんてほんとにちっぽけなものだけど、そのちっぽけさをどうやったら集めていけるか、せめてそれを当たり前のことと思わないか、カジュアルにいうとそんな気分なのかもしれません。だからわざわざ「後ずさりした場所から」「トーストの柔らかい場所」にフォーカスしてカメラを構えているのかも。 逆上がりのところと背骨のところ、わたしも好きです。たんたんと書いているように見えますが、書いている側としてはやはり強弱があるので、ここらへんは「強い」ところだと思っています。 短い言葉でバシッと決めることができる人はすごいと思いますが、わたしはそこまで一つ一つの言葉の役割(というか意味合い)を信じられていないので、この作品は特に、長い一息の言葉のうねりの中に何か違ったものを乗せられるんじゃないかと思って書いてみました。

1
熊倉ミハイ
熊倉ミハイ
佐々木春さんへ
(2025-03-03)

佐々木さん、返信ありがとうございます。 まず、「同じ試み」という箇所について、言葉が足りませんでした。句点が打たれないという事だけ、「見た目としては」同じ試みなのかな、と。佐々木さんはその手法をどう解釈して駆使しているだろうか、と気になって読みました。 私があの詩で意識していたのはまず、句点が打たれないというのは息がつけない、少し読者を疲れさせてしまうことになりかねないと思います。 だからこそ私はそこに、「〜る」や「〜た」という末尾が来ても句点を打たないことで、読者それぞれのペースで一息つかせられるのではないかと考えていました。又はその終止しているようでしていない違和感を持たせたまま、流れるように書くとどうなるかの実験をしていたつもりでした。(口語体であること、を意識した結果かもしれません) とすると、佐々木さんとそこで区別化はされているのかなと思っていました。佐 後は、しみじみと過去を回想するエッセイの、のっぺりとした速度って嫌だなぁと、思って個人的な経験や記憶を超速で回していく意識で書きました。要はエッセイ詩で、時系列順で、そこも佐々木さんの時空がバラける本作と違う所なのかな、と。 「何か整いすぎて遊びというか余地」 この感覚は自分もありますね。毎回、詩の書き方を忘れるのに一苦労な。 端々で、佐々木さんとは気が合うようです。 「自分が把握できる世界なんてほんとにちっぽけなものだけど、そのちっぽけさをどうやったら集めていけるか」 「短い言葉でバシッと決めることができる人はすごいと思いますが、わたしはそこまで一つ一つの言葉の役割(というか意味合い)を信じられていない」 ここら辺は、お互いが持つ譲れない信念で、それぞれに模索しているだろうなと。確かめられて良かったです。 またこれからも、よろしくです。

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