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性的マイノリティとして生きること
先月、95歳で長谷さんが亡くなった。彼は、自身のセクシャリティがゲイであることを隠して誰とも交際や性交渉をせずにこの世を去った。彼の生きた青春や中高年期、ほぼすべての時代は、彼にとって生きづらい世の中だったのかもしれない。現代は、より性的マイノリティに対して寛大になりつつある社会が構成されている。だがしかし、私は思う。寛大な社会とは何なのか、本当にそれが必要なのか、実際に寛大な社会が形成されているのか。私は、「性的マイノリティに対して理解がある」という言葉が嫌いだ。「理解」とはどういう意味なのか、説明してほしい。理解も何も、人類が形成された時代から今まで人類の中には同性愛者、或いはトランスジェンダーと呼ばれる身体的性と精神的性が不同一の人間が存在していたのは明らかである。理解などしなくていい。そういう存在がいるのだということだけを認知するだけでいいのだと思う。無理に彼らに気を使う必要がないのではないか。寛大な世の中、理解を求めるためにアライと呼ばれる性的マイノリティを支援する異性愛者団体、或いは権利を認めてもらおうと強く活動を続ける性的マイノリティ当事者が存在する。彼らは、未だ日本では認められていない同性婚の合法化や、性的少数者の社会的権利を求める活動を行っている。しかし、本当にそれは必要なのだろうか。客観的に社会での私たちの立場を考えてほしい。私たちは、「性的マイノリティ」つまり、少数者であること。これは変えられない事実である。いくら公共の場で権利を認める活動をしても、国が社会的権利を大幅に私たちに与えたとしても、私たちがマイノリティであることは変わらないのである。今は、BL作品などがエンタメの世界で広がっているが、あなたがテレビをつけて見る恋愛ドラマの殆どが男女のラブストーリーで、その中にゲイやレズビアンやトランスジェンダー、クエスチョン、はたまたアセクシャル等の当事者が登場しない。なぜだと思う。需要が少ないからである。人はドラマや映画を見るときにその作品に自分自身を投影したり、共感することでその作品に対し、喜怒哀楽の感情を向ける。異性愛者にとって、私たちの恋愛(同性間の恋愛など)は共感することが出来ないのだ。なぜなら、同姓を好きになったことがないからだ。こんなことは当たり前のことである。つまり、私が言いたいのは私たちは自分自身がマイノリティであることを受け入れ、認め、自分たちのコミュニティ(同性愛者間のコミュニティ)でひっそりと生きていくことが賢明な判断なのではないかと思う。一人一人を見ると、未だに同性愛嫌悪を抱いている人や私たちを揶揄する人間もいる。しかし、あなたに嫌いな食べ物があるのと同じで、人間に対しても好き嫌いはある。あなたが清潔感のない人が嫌いなのであればそれと一緒で、見た目や容姿、行動だけでろくに話したこともないのに嫌う人もいる。そんな人と深くかかわらなければいいだけである。その人達に対し感情的に向き合おうとする必要などない。人の考え方を変えることは簡単なことじゃない。関わらず言わせておけばいい。そういう差別をする人もいるんだなって認識するだけでいいのだ。その人たちがいるからと言って自分のセクシャリティを無理して隠す必要もない。だからと言って無理して公言する必要もない。誰のことが好きになろうが他人には関係のないことだし、干渉される権利などない。私たちは、好きな性別を選んで生まれてきたわけではない。好きな人を聞かれたときに、「〇〇さん・くん(性別がどちらでもかまわない)が好きなんだよね」って言えればいいだけだ。性別など関係なく、その一個人を好きなだけなのだから。 長谷さんがテレビ局マンにインタビューされたときにこうおっしゃった。 「長谷さんが、今の時代に生まれていたらどう変わっていましたか?」 「誰に何を言われようが好きな男と一緒になって暮らしている。それが楽しそうやんか。」 この言葉がすべてである。婚姻関係を結んでいなくても、好きな人と共に時間を費やすことが最高の至福なのではないか。それ以上に何を望む必要があるのか。 しかし、私たちの多くは思春期に高い困難を乗り越える必要があっただろう。自分のセクシャリティが確立しはじめ、それが周りと違うことを認識し始める。しかしながら、あなたはその違いを誰かに話すことが出来ただろうか。多くの人が隠してきただろう。学校という狭いコミュニティが自分の私生活を支配し、そこで自分のキャラクターを確立しコミュニティを形成する必要がある。他人と少しでも違うと、そのコミュニティの中で孤立してしまうのではないかと懸念した当事者も多くいるのではないか。しかし、無理して自分のセクシャリティをオープンにする必要はない。よい関係を保ちつつ、自分のセクシャリティについて言えそうな関係だと判断すればいえばいいし、準備できていないのであれば、いう必要はない。あなたと同じ仲間はこの世に多く存在し、彼らもあなたのような仲間を求めている。
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性的マイノリティとして生きること ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 398.5
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-11-15
コメント日時 2024-11-19
項目 | 全期間(2024/11/21現在) |
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叙情性 | 0 |
前衛性 | 0 |
可読性 | 0 |
エンタメ | 0 |
技巧 | 0 |
音韻 | 0 |
構成 | 0 |
総合ポイント | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
世界は少しずつ前進しているのだと思います。長谷さんという方のような無念を無くすためにも、歴史には今より過酷な差別があったのではないでしょうか。法整備や意識改革は一般に必要かと思います。
0時事問題を扱った内容。 カミングアウトする権利カミングアウトしない権利みたいなことで、カミングアウトしなければいけない圧力みたいな気配に対する抵抗心なのか。 性的マイノリティについては詳しくないです。 とんねるずの石橋さんがLGBTQをネタにしたら問題になったことがありました。とんねるずの番組LGBTQ結構出てたので、ああ言うの嫌だっていうLGBTQ。ああいうの楽しいっていうLGBTQ。それぞれ。 同性婚はあっていいと私は思いますね。好きな人同士で一緒にいたい。それがいけないというのは、納得しづらい。子供を産むという生産性ありきで『結婚』を捉えるべきなのか。気の会う者同士が共に生きることを社会が公的に認める。それによって活力が生まれ、生産性に結びつくこともある。目に見える生産性が全てじゃないと思うから。 問題提起としては真面目な内容できっちり書けていて読みやすかったです。自己批判気味な頑なさは苦労の現れでしょうか。国に守って欲しくないという主張に強さとこだわり潔癖のようなものを感じました。
0ゲイの人(その他、性的マイノリティ)は本当に増えていると想うのですよ。私は80年代生まれで今、30代だが、昔は今ほど浸透してなかったですよね。もちろんあくまで肌感ですけどね。 もともと日本の文化は性的逸脱に対してかなり寛容だったと言われているらしいですね。歴史的にも(現在の”多様性を認める”云々といった文脈とは異なるとしても)、それは特別なこととは見なされていなかったと。 たしか一昨年あたりに、アベマで百田尚樹と佐々木俊尚が同じようなテーマで議論していたが、欧米型国家を目指す過程で日本でも常識から逸脱した人たちを特異な存在とする現象(差別)が見られるようになったらしい、 ジャニーズをめぐる問題では、日本国内だけではなく、世界的にも注目された。西洋人のLGBTQに対して不寛容さが、このような事態をまねいた一因かもしれないという意見もありました。 しかし、それにしてもゲイであることを公言する人が増えましたよね。 重いものから、ライトなノリのもの含め、カミングアウトはあちこちで散見されるが、では、昔はどうだったのか? 昭和の文学などを読んで想像するしかないのですけど、昔は「察し」を中核とした文化であり、それはあまり目立たない形で間接的に表現されていたという気がしますね。”歌舞伎の世界”とでも表現していいような。 はっきりと明言していないが、どこか雰囲気を醸し出している、このようなタイプは、独自の存在感を保っていた。 今はというとハッキリと違う。Xなどであっちの世界をそーっと覗くと、まず実感するのが若い人たちを主としたすさまじい影響力です。じつはネットで一番影響力のあるクエリーなんじゃないかなってくらいのインプレ稼働率。 ゲイのご年配の人たちは、どう思っているのだろうかと思うことはあります。今ネットで勃興している新しいタイプ、ややもすると、恐い者しらずな人々は、果たしてスタンスを維持できるだろうか?と。 ひとつ挙げると、りゅうちぇるの場合はどうだったのか。彼は自ら命を絶ったが、この出来事を單に個人の責任の問題に矮小化してほしくないです。 別れたとはいえ、ぺこのような育ちのよさそうなパートナーが近くにいて、今年七五三を迎えたリンクくんがいて、応援していた人も大勢いたはずである。それにも関わらず。あまりにも唐突で不自然な死だったですからね。なんなんだろう...って。
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