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我慢知らず大国ニッポン
僕は我慢弱い人が苦手だ。 『正道』というものがあって、この道を歩くには、教えられた筋道に従う。それを素直に受け入れ、歩いて行くには忍耐と努力が必要なんだ。 私の同級生に『飛田正道』という男がいた。 「俺は我慢している」 そういうオーラを剥き出しにして、私に対して『我慢ならん』という態度をとった。 サッカーの時にこいつの顔面に、私の蹴ったボールが思いっきりぶつかったことがある。 『ごめん』と謝る僕。このアホは、なにか屈辱で儲けたかのように、私を恨めしく睨みやがった。器の小さいやつ。サッカーでそういうことがあるなんていうことはザラなこと。それを謝っている私に対してそういう態度を取るとは、全身から頭の悪さが滲み出ている。これだけのバカだから勿論出世などしなかったし、出来なかったろう。背の高い男で、デカチンだった、sexの話を、良く女の子としていた。 「この中で、全員とやるとしたらどう?」 みたいな宮内という女の質問に 「いや、一人だけパスがいる」 と、後ろの席に座っている相田みつおというブスの女をチラ見していう飛田正道。 この相田というブスも酷い。愛嬌というものがひとつもない。他人に優しくしてあげたいとか、思いやりとかひとつもない。おまけにブスのため、皆から嫌われていた。 飛田が俺を嫌っていた一つの理由は、面白くないから。それが先ず日本という国の抱えている問題だ。 『面白い、面白くない』そのことについて考えすぎている。ナイナイとか、とんねるずとか確かに面白いけれど、昔は寄席ではああ言うのは『ダメな芸』と言ったのだ。なにがダメか? それをひとつひとつ言わなければいけないのは本当に焦ったい。それは何故かというと、昔の価値観では『常識』でさえあったからだ。オチがない。自分の発想と頭で十分な組み立てと筋書きをしていない。他人を笑い物にしたり、パロディや、自分の奥深くにある内面的なものではなく、表層的な外面的なものに頼るタイプの笑い。そういう笑いを、ヤンキー化する日本人がある時期まで『格好いい』と言っていた。その『格好良さ』が他人への痛みや、人を思いやる情のなさだとするなら、ニューアメリカン化し、属国化する日本は、なんとも上っ面だけの軽薄になったものだろう。 飛田正道が、小野瀬勝という同じ同級生と昔やっていたギャグをひとつ紹介しよう。二人で顔を見合わせ、お互いの人差し指と中指を突き出し合わせて、足をくねらせ 「っていうか~、ハゲ!」 これをやって二人で笑う。ちっとも面白くない。ノリだけだ。むしろ寒い。ノリやテンションに頼る笑いというのは、ガキの笑いだ。内容や文脈の面白さで笑わせなければいけない。それにこれは恐らくテレビでやっていたネタだろう? 私が言いたいのは、テレビでやっている人間は仮にもプロとして、オリジナルのネタを考え、披露し笑わせ、それが面白いと言われている。ナイナイだろうととんねるずだろうと、それは同じだ。そのノリとテンションに浮かれ、感化されて、素人のガキが集まって真似をし、自分たちは面白いと一瞬の集団催眠に陥り、そのノリについていけない人間を貶めるなど倒錯も甚だしい。私はこういうびっくりするぐらいのバカだらけの街で育った。茨城県の水戸市見川町。バカの屯する街。あれから彼らは賢くなれたか? 今の日本を見れば、結果は言うまでもない。大人になり、成長する過程で様々な大人に叱咤され、怒られてきただろう。それが彼らにとって教訓になったのはいつか? きっとそうだ。社会に飛び出てそれが通用しないと気づいた時だ。 好きな人に好きだという。実はこれも我慢だ。自然に馴染めて、好きだと簡単に言える関係なら、良い。でもそうじゃない。上手く話せないけれど、好き、気になる。そういう思いがある相手に対して、愛を抱いていることを告白する。それは勇気でもあり、我慢なんだ。恥ずかしい、傷つきたくない。そういう思いに逃げていた方が楽に決まっている。女は苦手だ。自分から好きだと言えない。手を握りたいと言えない。私から言わせればそれは、弱さであり、我慢弱さだ。思わせぶりな素振りも大嫌い。私の昔よく話していた女で、森田ひろみというクソみたいな女がいて、このクソ女が、私にメールをしたいと言って声をかけてきた。しかも彼女の友人を通じてだ。他にもこの女は私に思わせぶりな素振りを散々してきて、一度も手を握りたいの一言もなかった。私が冷たい態度を取ると、辛そうに顔を伏せた。愚かな女。私が一度だって他人から受ける好意を足蹴にする姿を見たとでもいうのか? そんなものは一度も見ていない。その素直さを彼女はいいと思い、裏で尊敬すら口にしていたのに、つまらない思わせぶりな態度が主で、時間の無駄のような関係に付き合わされた。もしこのクソ女が私を好きだと思っていたとして、プライドが許さなかったのだろう。自分の方が優れている女でいたい。他にも私が女性から人気がなかったので、告白しづらい。可能性はあるが、なんにも出来ない。それでくだらないカウンセラーに悩みを相談し、考え事や悩み事が出来ると薬に頼る。私が女性に人気がなかったのかは実は不明だ。後で聞いた話では『みんな万太郎さんのことを狙っていた』と語る女性もいた。その中から私に告白を出来た人は? 一人もいない。 大体日本人なんて私は昔から大っ嫌いなのだ。あくまで占領されて洗脳されてからの日本人はということではあるが。くだらない素直国民。アインシュタインが来日した時、自分に熱狂する姿を見て驚いたアインシュタインは 「日本人はマナーはとても素晴らしい。しかしよく分からないものに人気があるからという理由で飛びついたり熱狂することをやめればもっと良くなるだろう」 と日本人への賛辞と、軽蔑を語った。ビートルズにしろ、最近の将棋の名人にしろ、内容をよく分かりもしないで、日本人は人気があるからという理由さえあれば直ぐに飛びつく。このポピュリズム傾向はサル並みと言ってもいい。正にジャパニーズクレイジーモンキー。日本人にとって、人気はバナナみたいなもんだ。 助けて欲しい時に『助けて』という。これも結局勇気だ。辛く苦しい。人は結局一人では生きていけないのだから素直に自分の弱さを認め、他人に甘えることも、自分のくだらない自意識やプライドと闘う我慢が必要なんだ。他人のために身を犠牲にする愛なら素晴らしいと思う。その時に自分の身を危険に晒し、助けてあげる。これを優しさという。自分で自分を救えない人間が他人を救えるわけがない。甘えてる。今回はその甘え切った男の半生と私の被害体験、それを私の極最近あった、グループホームの脱走体験を交えて語りたいと思う。先ずはその極最近あった精神病院の脱走体験について。 私が精神障害者向けの芸能界のオーディションに研修生タレントとして受かったというのは、業界側の策略だったようだ。要するに彼らは私の才能が気に入ったのではない。障害者を研修生として合格させ、授業料を通所しているB型作業所や本人から騙し取る。このやり方は障害者や福祉の現場で良く起きているらしい。施設長が私を呼び出し、辞めるよう説得する。 「あなたのお金と財産が破産したらどうする? これは国のお金だぞ」 と切れる施設長。 「お前に才能なぞない。そんなに才能があるなら、YOUTUBEでフォロワーが沢山ついているはずだ」 と更に恫喝。私はDAIGOというタレントが所属しているA-TEAMグループという事務所のオーディションにも二次選考まで合格している。最終選考に東京まで行かなかったのは、金銭面での不安があったから。私が著名なメディアで賞を受賞したり、文章が掲載されたりしてきた過去を全部俯瞰してみてこの人は私に『才能がない』と言っているのだろうか? (ちなみに私はロッキングオンの批評文でも二回掲載されたことがある) 「お前は、国に全部介護して貰って生きていく力しかねーんだよ」 とイキリ立つ施設長。まるで猿が人間を脅迫しているようだ。私はスーパーで二年働いた経験がある。 その職場で私は結構褒められたし、頼りにもされた。今通っている事業所においては、午前のコーヒー選別の後、昼間の皿洗い。いずれも他の利用者より頑張っていると言えるものだ。何故それが評価されないか? それがポピュリズムの構造の問題で、一生懸命働いている人より、仕事の時間ロクに作業もしないでダベッてはしゃいでいる奴がコミュニケーション上手として愛されるのだ。日本の甘え文化、甘やかし文化は私は行き過ぎたと個人的に思う。スーパーで二年働けたということは同程度の内容の仕事を転々としてこなしていくことも出来るということだ。別に長続きすることだけがすべてではない。海外ではそうやって仕事を転々としてまわり、世の中の仕事のあらゆることを覚えてかえってよかったと語る人もいる。このままB型事業所に所属したまま、クソみたいな行政の管理の世界で生き続けるのは嫌だ。それだったらホームレスとして、道端で生きていた方がいい。なにより精神的にムカっ腹がおさまらなかった私は、このままの状態でいれば、皆に嫌われ続けると感じ、衝動的に部屋の外から、お金も持たずに夜の中を飛び出した。 夜は暗かった。危険な橋をいくつも渡った。おじさんがその場にいたのでおじさんと一緒に渡ったこともある。佐野元春さんの『約束の橋』のようだ。 一日目の深夜は、清水駅までついた。そこから歩いて富士駅まで。ご飯はどうしたか? 富士駅の近くでバザーがやっていて、そこで少し試食品を食べた。三日目の深夜は箱根駅に泊まった。シーツを持っていってそれぞれ空いているスペースを見つけて寝たんだ。箱根の急坂は意外と長かったけれど行き届いていた。4日目も早朝の曇りの中歩き出す。途中富士食堂というところで、おにぎりとコーヒーを貰った。後、おからのサラダ。そして箱根のエリアパーキングで、道が切れていることに気づいた。どうしようと思い、二日ほどヒッチハイクをしたが、ダメだった。 「今は、そんな優しい人はいないよ」 と断られた人に言われた。その人はそれなりに事情があったから断ったようだが、進む方向が違ったり、後ろに物を乗せていたり、確かに日本人はどんどん欧米化している。その上で保守を語る人が増えた、優しさを否定するのは保守の精神ではない。全体的に日本は保守化しているのではなく、左翼化しているのが現場。これは小林よしのりという有名な漫画家も語っている。保守派を自称する作家で『東大一直線』『おぼっちゃまくん』『ゴーマニズム宣言』などのヒット作を放つ。少し前は『コロナ論』という作品で、コロナ想像ワクチン騒動を痛快に切り倒している。是非今の日本の現状に不満がある方はお読みください。5日経って、腹も空いて、現実家の私は夢より現実をとった。これは無理だと思い、箱根の『やすらぎの森』という公共の施設を訪ね、車線だけで歩道がないため、交番まで行けません。交番まで連絡お願いします。と頼む。事情を説明し、新宿まで行ってホームレス生活をするつもりだった、と私が語ると、色々私の話にうなづいてくれた彼らだったけれど、私の話の内容がしっかりしていることや、記憶力の確かさを認め 「君は能力がある。ホームレスは勿体無い。炊き出しに三時間並ぶし、先輩後輩関係も厳しく、ひどい時は食べれない時もある。新入り杯虐められることもある。君はまだ可能性があるから、まだ若いし、今は国のお世話になった方がいい」 とアドバイスされた。B型作業所や、少なくとも今通っている作業所に関し、未来の可能性を約束するものがあるかは疑問だ。とりあえず私は警察署まで連れて行かれ(その前にパンを二つご馳走になる。チョコパンと、クリームパン♪)施設長と管理者の二人が迎えにくる。 「色々ご迷惑おかけしました」 と私。怒って飛び出た私だが、礼儀はきちんと守る。途中車の中でおにぎりを二つ貰い食べる。靴下を履いていなかったため、右足の親指のは膿んでいて、帰宅後、包帯を巻いて頂き、次の日に病院に行くことになる。帰宅後グループホームで色々な人、主にスタッフに詫びを入れる。利用者にはもう謝らない。彼らは馬鹿ばかりだ。人間として認められるものがない。デブの利用者がいて、国の金でいい歳して作業所にもろくにいかずスイミングスクールなんか通っている。なにかしら精神的ショックがあったとかいうが、彼のよく喋ること喋ること。こいつがみんなに愛される? 作業所でさえ、力の半分も出していないと自慢する彼。お前の力など知ったことではない。社会義務を守れ! 帰宅して部屋の中で音楽でも聞こうかと考え、長男のことを思う。酷い長男だった。甘やかされきっていた。普通家が気に入らないと、自分から率先して出ていこうとする。これは家主への気遣いでもある。ところが長男は、あろうことか、父親が出ていった隙を見て家に鍵をかけて、締め出そうとしたらしい。信じられない。自分のお金で建てた家ではないというのに、どうしてそんなことが出来る? 馬鹿すぎたからだろうか? 父親は怒らなかったそうだ。他にも父親が長男を甘やかしたケースは無数にある。バブルの時期に生まれた長男で、父親はまだお金の羽振りが良かった。長男にやたらお金をポンと渡していたようだ。私が物心つき始めた頃は不景気が来ていて、誰よりも私に渡すお金は少なかった。散々お金を渡され、宇宙雑誌を買ったり、好きな物を山ほど買った兄だが、ミュージシャンを目指しても全く目が出なかった。才能は全くない。ユニークな音楽。小室哲哉の影響から始まって、坂本龍一、コーネリアスまで影響を受けたようだが、その音楽は思想がなく、哲学もなく、言葉もなかった。インストゥルメンタル。兄は滅茶苦茶な面白くもない気持ち悪いインストゥルメンタルを作っていた。それがいいという人も少しはいた。音楽を聴く耳がない。共演する人すらいた。しかし全く売れる見込みはなかった。兄の周りからの評判? まあまあ良かった。兄は辛抱強く我慢深いと言われた。例えば、助けて欲しい時に助けて欲しいと言わない。きちんと対話とコミュニケーションを積まない。こんな人間のどこに我慢があるのだろう。キチンと自分の内面に目をやり、弱さを見つけ、人は人と人との輪の中しか生きられないと悟れば、辛い時に辛いとハッキリ言う。それはもう義務でさえある。そんなことも出来ない百姓以下のこの長男を褒めそやしていた世間などクソ喰らえ! 私は次男と仲が良く、よく遊んでいて、昔から長男は苦手だった。次男は私のユニークさを高く買っていた。私はもう少し伝統的だった。音楽もポップな音楽以外基本的に聞かない。ポップな音楽の『分かる!』と言うこの感じ。それ以外手を伸ばしたいとはあまり思わない。 ビーチボーイズ ハイロウズ サザノールスターズ ボブディラン ビートルズ ブラジルの音楽。ボサノバ。 ワールドミュージック。 クラシックはモーツァルト。ベートーヴェン。 再びポップス。ドノヴァン、ハリーニルソン、日本人ならYMO、どちらかと言うと坂本より細野晴臣が好み。坂本は進歩主義者で左翼臭が強く、共産主義っぽい。私はどちらかと言うと音楽の歴史と、伝統、正統の中に生きる細野の方が好きだ。 色々な音楽を聴いてきた。タモリの昔やっていた冗談音楽のようなものも、ある。これに影響されて音声作品を幾つか作った。スネークマンショーも好きだ。 私はそれらのものを熱心に聞き込み吸収し、作品だけでなく自分の生き方思考にも生かした。小林よしのりも大切な作家。この人は私の世界観を覆した。その上でこれは私が昔から感じていたことだと思わせるものがあった。私は進歩主義者の生きる世界で、脳の半分は洗脳されながら同時に疑っていたのだ。長男はまるっきり洗脳から覚めなかった。小林よしのりはハッキリ嫌いだといい、反ワクチンなら、内海聡を読んだ。彼の中のナルシズムが、小林よしのりを受け付けなかったのだと思う。方かで逮捕される直前は、私のCDを部屋から持ち出し、勝手に聴いて、私が問いただすと『いいじゃん』と笑った。クソだ。クズ野郎だ。何が人権だ、馬鹿野郎! 私の本棚からアインシュタインとフロイトが平和について語る本を抜き出し読んでいた。狂った頭で考えていたのが、平和だとは。洗脳が行きすぎている。。太田光より、酷い。 この狂った長男が私をいたぶった内容に関し、いまだに俗世間では弱肉強食の結果であり、致し方ないと言う見方が強い。 私の耳を引っ張ったままシャワー室へ連れ出し、シャワーを浴びせ、かけると 「わかったのかよ!」 と恫喝。 「分かった!」 というと 「分かってねーだろう」 と一発。次の時は 「分かってない」 と答えると 「分かれよ!」 と言って叫ぶ。狂った兄とこう言ったエピソードを聞いて、内心喜んでいるオーディエンス。 他にも皆さんが喜びそうな話は山ほどある。 私が部屋を出ると、マスクをしていない女の子が笑顔で手を振る。とても可愛らしい子で、私はニッコリと笑顔で挨拶する。すると突然家のドアの鍵がガチャリ。長男は私が他人から好かれることがとてもとても気に入らなかった。母が私を褒めるとムキになって怒った。 父も訳がわからない。夜車庫の中にその時の飼い犬を閉じ込めると、電気を消す。明かりのない暗がりの車庫で、ワンワン吠える犬の声を聞いて、私ににっこり微笑み、共感を求める。もう死んだ方がいい。 泥棒が来たのではないか? と私を起こして、 「確認してこい!」 と命令すると、自分は布団にくるまい、押し黙る。情けない。お前は仮にも父親だろう。 兄の持っている歪んだナルシズムと極度の照れ症上っ面だけの恥ずかしがりは、日本社会の病理でもある。 訳のわからない音楽に身を任せたがるのも、兄なりのトリップ体験なのだろう。シュタイナーの本を熱心に読んでいた。霊学で、こう言った難解な本を独学で読みこなし、理解しようとするのは無理がある。しかし自分の能力と才覚を過信していた兄は、それを読んで、シュタイナーの特別教育学校からオーガニック食品などを注文していた。霊学やスピリチュアルに感銘を受けた人々が内容を正しく理解するよう努めず、安易に商品に飛びつくこともよくあることなのかも知れない。少なくとも私の長男と父はそうだった。狂信者は酷い。内容への十分な理解もないまま『気に入らない部分は飛ばして読んだ』と正直に語る。それはヒトラーの読書術と一緒である。本を読む。自分に不都合なことが書いてある。それは人と会う。自分と異なる意見を持っている。それに耳を傾けることと一緒だ。今の世の中における寛容のなさ。おかしくなってしまった社会は、人々のナルシズムと、不都合なものは受け付けない過剰逃避の決算である。どこにも不幸な人などいない。人々は悩み始めると薬に頼り、カウンセラーに頼り、互いに手を結ぶこともなく、羊のような顔で平和な社会を謳歌している。私はこの下れねえ世の中を清志郎が昔歌ったように、抜け出したいと思う。音楽に身を任せ、カラオケに出かけ、歌を歌い、旅に出て色々な人と出逢いながら。旅に出れば色々な人に出会える。東京は辛い街だと言うが何にも起こらないよりはずうっとマシ。旅に出かけたい。 兄が父親にいたぶられ、病気を引き起こして、学校でもいじめを受けていたのは本当だ。それでも弱いものが自分より下の立場の人間に優しく出来ないようではダメだ。小林よしのりも言っていた 「弱者を守れない弱者はダメだ」 と。私は弱いものいじめは大嫌いで、一度もしたことがない。そんな私の優しさを母は買ってくれたし、これまで結構沢山の人に可愛がられてきた。その中には、いじめのような良くない面での『可愛がり』も確かにあったが。 ジョンレノンもそう。ビートたけしもそう。ドラえもんに頼るのび太もそう。手塚治虫だってそうだ。才能のある人物や、皆に愛されるスターのような存在は常に可愛がりと同時にいたぶられの目を受ける。何故なんだろう? 私には、よく分からないが、私も熱心な才能ある迫害者として縄文人のように、大衆から選ばれた気がするのだ。しかし、私にはスターのような名誉を持つことが今のところ出来ていない。しかし、私の才能は随所随所で高く評価されていて『さくらさくら』と言う私の作詞作曲した歌を聴いて、私をそれまで馬鹿にしていた人は『泣いた』とまで言う。その人が今私のことをどう思っているかは分からない。しかし、大衆が信用出来ないのは、人々は常に忘れっぽいと言うこと。テレビを例に挙げればわかる。次から次へと新しい情報が飛び交い、人々はそれに熱を上げ語り合いながら、直ぐに忘れてしまう。ネットもそう。基本的にくだらない。ネット内でネットを馬鹿にすると言う発想は、パンクロックがロックへの反逆を試みたのと同じように、カウンター機能は常にあっていい。そう言う鞭からいいものが生まれると私は思っている。例えば書き物を有料制にするのも、悪質な業者から作品の優良制を守るために、有効だと思う。ただで文章が書けて載せられる。このシステムがダメな書き手の跋扈を許している。私がたった一人でそう言うものを書く自信はあまりないが、商品になっているメディアによく顔を出している。誰かのために尽くすとか、編集に預ける方が私は得意だ。たった一人の自己表現のために頑張るということに私はあまり大義を感じない。それで適当になって作品を作っても宣伝を熱心にしない。それに作品だって全然私の自己評価ではまだまだだ。昔かいた『さくらさくら』と言う歌は、よく出来ている。決して面白くはない。この曲で問題にしているテーマは、少子高齢化社会、日本社会の行き詰まり、社会の非寛容、そしてその中で若い男女が船を出し、漕いでいく。赤ん坊を授かり、未来を切り開くと言った微かな希望。今の世の中の下ネタもダメ、手も繋がない。くだらないメールのやりとりをガチャガチャすると言った大衆的な淫らに私は否定的だ。だから私にはメル友がいない。別にそれをなんとも思わないし、下らないポピュリズムに迎合する気は今後も一切ない。 この歌はプロテクストソングなのだ。 桜をモチーフに日本の本来の戦前にあった私の好きな古典的な女性像を匂わせる。 バスの中でおっぱいを出して赤ん坊に吸わせたり、洗脳される前の日本人は性に対し開放的で、AVのような個室型のsexに終始することはなかった。 全体を語るのは抵抗があるので、部分部分で語りたい。 シュタイナー哲学での反ワクチン。反医薬品における内容は 「病は人を強くするから、薬で治してはいけない。自分の力で立ち直り、治ることで人は成長する」 と言う理屈に起因している。この曲の中にある強い芯のようなものは 「悲しみなんて癒えやしないし、苦しみなんて消えやしない」 と言うフレーズに現れているように、安易なカウンセリングや薬物療法への依存化する社会を一蹴している。正にそれはロックの精神。この曲はバラードだけれど根底にあるのはロックの精神なんだ。 マスク社会へのさらりとした風刺もある。そして最後は方舟に乗って若い男女は救われるかも知れないという悲壮的なものを漂わせつつ、微かな希望を歌う。音楽を聴いていい気持ちになる。高揚感に身を委ねる。私にはその陶酔を生む能力がある。是非私と分かち合って欲しい。私の能力とサービス精神。これを聴いて私が仕事で社会で十分に通用しない人間かどうかもしっかり確認して欲しいのだ。 さくらさくら 語っておくれ さくらさくら その物語 さくらさくら 分かっておくれ さくらさくら 道行く野薔薇 悲しみなんて癒やしないさ 苦しみなんて消えやしないさ さくらさくら 豊かに香る さくらさくら マスクの奥で さくらさくら とどめておくれ さくらさくら 心の中へ 二人の筏 月夜の晩だ 未来の行方 照らしておくれ さくらさくら 乙女の愛は さくらさくら 一度の季節 さくらさくら 叶えておくれ さくらさくら 二人の愛を
我慢知らず大国ニッポン ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 663.9
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-10-11
コメント日時 2024-10-12
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
批判的な意見をされてどのように受け取るのかは人それぞれですが、わたしの経験から大きく分けて幾つかに絞られると思う。まず感情的にキレて皮肉で返してくる人がいる。自信を砕かれたと思ったのか、思いあたる節を突かれおちょぐられたと思ったのか、反動的に感情が優先してしまう人。こういうタイプの人には女性の方に該当することが多くみられるようです。 それから内心はわからないままに否定的な感想批評ならばまったく拒否してしまう書き手のタイプ。周囲を意識してなのか過剰にポーズを取りたがる自信家に多くみられる傾向ですね。それから、これもまた内心はわからないままに自分で自信の無さを卑下をしてしまうタイプ。こういう書き手の方はやはりナルシストが多い。傾向としてはすぐに死にたくなるとか、自分はこころが病んでいるとか、自分の内面の弱さを晒して相手から同情を引き出したいという。もっとも詩人に多いタイプのお人がこれに該当するのだろう。とは思います。 そしてもっとも手に負えないのが万太郎さん、あなたのようなタイプの作家志望の方で、自己顕示欲から喧伝心も強くて一方ではその自信過剰な自分に自己撞着の矛盾を抱えておられるタイプの方ですね。こういうお人は相手の批判的意見は一応受けつけましょう。と口では言いながら内心はまったく受けつけてはいない。いや、寧ろはじめから批判的意見など受けつけない。と決めておられる自信過剰なタイプに多い。なので一旦批判を被れば相手の意見との相違を論考で解決しようとはせずに、自分の過去の功績、栄誉とか成績だとか勲章を持ち出して相手を屈伏にかかるのです。こういう過去に囚われたお人は何も詩人だけとは限りませんよね。多くはその分野で名を残してきた人に多い。しかしそういう過去に拘り続けている方には成長の痕跡はみられない。このようなタイプには天才肌のお人も多く、実際わたしもよく知っている書き手の方がおられるが、いまではずいぶんと大らかに受け入れられる姿になっておられる様子です。 個性的な見方をすれば自信過剰とは才能にもつながるので良くない。とは一概には言えないのでしょう。この叙述を拝見すれば高慢な思考にも読めてきます。それが単なる読み手を意識したパフォーマンスであるのか、本心からなのか受け取る側は推察するしかない。 しかしこの動画に上がる~さくらさくらの歌。単調なメロディはいいとしても、歌詞はあまりにも未熟過ぎて素人臭くて成っていないと思われる。その背景に浮かぶ情景がまったく思いあたらないのです。
0追記。 肝心なことを書き忘れていますね。 我慢知らずの日本人。いえ、私は日本人ほど我慢強くて忍耐強くて、そのことが却って外国人の方からみればこころに余裕が無い。ジョークを認めユーモアに溢れ、もっと大らかに物事を判断できないのだろうか?とも見られがちで、これは戦後続いてきた学歴重視の肩書きとか趣向主義宗教といった組織による派閥の天下りやコネによる利害関係が齎した弊害で、それは同じく偏向的社会性も強いお隣の韓国などの文化/Kpop.今日のポピュリズムの台頭を見ればそう云えるのではないでしょうか。
0方向性的にはgood feelですね。 改善できると思うのは、 シンプルに、インプットを怠っているのではないかな(知っている固有名詞や人物名ばかりが出てきてウンザリしました) ネット的に話題になっているような本や動画をもっと見た方がいいと思いました。
0人の話を聞いて、その意見通りに動くかどうかは本人の主体性次第だと思います。 さくらさくらに関しては、未熟なのかなあとか、本物のの歌じゃないとか色々考えるのです。 それで色々考えると自分にはそれほど深く愛せた女性がいなかったなあとかね。 私には過去の栄光と言えるほどのものはないですが、多くの人が履歴や偏見でものを見る特性を見て、どう対処すればいいか考えた末の行動です。私自身は履歴や偏見にあまり騙されないと言うのはどこかでありますね。ただ一方的に罵倒してくる相手がそのジャンルに携わる志を持った人間として履歴を作る努力をしたのかはとても大事なことだと思います。
0極限状態の時、例えば私は今ホームレスのような生活を5日間ぐらいしたと書きましたが、正直生きている感じがしました。病院に入院してからグループホームで行動が管理されている自分は死んでいる。そう思うと、ホームレスの方がいいと私は思うのですが、もし厳しい状況で例えばホームレス生活で、先輩とか男のタマタマを舐めなければいけないとなった時、私なら舐められると思う。ヨーロッパの男性もそうですね、極限状態の時が迫られたらきっとやりますよ。しかし、日本人にそれが出来るでしょうか? 特に障害者と呼ばれる私の所属している団体。彼らはとても恥ずかしがり屋です。ちっとも根性がない。こう言う人はどんどん増えています。実際精神障害者の数はこの二十年で、とてつもなく増えました。以前グラフを紹介したことがあります。戦争にも弱い日本。どうしても我慢も忍耐も根性も戦前の日本人とは比較にならないように思えてなりません。 韓国の女性もあれは一種の文化侵略ですが、一種の戦争の中を生きる女性として必死ですよ。我慢強さでは日本人は最下位だと私個人は思います。ベトナム人の男性を職場体験で見ましたが凛々しかった。美しかった。向こうは徴兵制があるのです。
0そうだね、能動的というよりも受動的な我慢強さ、という点に於いてかな。わたしもですが、日本人は寂しさにけっこう耐えていける。そのような我慢強さを強いられてきた。という点かな。孤独な老人が多いですよね。あの付き合いを避ける気質は外国人の方には理解できないでしょう。まあ、大陸と島国という地域的な差も関係しているのかも知れない。というよりも家族親子関係が次第に遠くなっている気もする。あれは早くから親元を離れていく離れ去るを得ない生活の基盤とウサギ小屋と言われる日本の住宅事情にも関係があるのかもしれない。 この厳しい災害事情を考慮すれば防災国防の備えという観点からも1~2年間くらいの訓練を若者たちに強いるのも私は「有り」だとは思う。能動的という意味ではこの共同訓練というのは若者たちに肉体はもとより精神的な強さを協調性を植え付けるのは間違いないと考えます。
0私の人生には38年間なにもありませんでした。グループホームを抜けてホームレス生活を5日送りました。生きている心地がした。生活保護課の方と相談して、年金をキャンセルしてホームレス生活をしたいと相談するつもりです。最もそれが実現出来るかは分からない。それが実現出来るまでは、私の人生はこれまでなんにもなかったと言うことを正直に書き続けることしかないのかと思っています。そのため、勉強して新しい言葉を覚え作品に活かすと言うようなことはあまり考えておりません。
0何故わたし自身大嫌いなこの連帯感という認識を持ち出すのかと云えば、それはこの国の将来は昏く絶望的にも感じるからである。その理由はよく言われるように何も少子高齢化社会というだけではなく、政治を中心とした行政の在り方というシステム自体に信認が持てないからである。 生まれてずっと住み続けているわたしの小さな都市でも入れ替わりは激しく、しかも新しく越して来た家族たちの顔ぶれは二件も離れるとほとんど馴染みがない。顔を合わせても挨拶すらもしない。そのような若い夫婦家族連れが多く暮らしている。自治会などは名前で在籍しているだけで、わたしが独り身だとか色々理由もあって順番制の班長をするだけで今まで行事にはまったく参加していない。というか、情けないことにそもそもこの生まれ育った街自体に愛着を持てないからなのである。 今日のサラリーマンは日頃より鬱陶しい社会生活のストレスを溜め込んで働いている。そんな中で他人の世話を焼くという煩わしい人間関係を取るよりも、まだ家族単位という枠の中で孤立したほうがいいのだろう。何故このような結びつきの弱い地域社会になってしまうのか。と、基を考えれば働いている会社組織の人間関係自体に愛着のある連帯感が持てないのではないだろうか。従業員100人を超える中小企業から大きな会社にはそのほとんどに労働組合は存在しているのだろう。しかし今日の組合組織力の低下を、ストライキも打てない状況を見ればその連帯感の弱さは一目瞭然である。何故そのように組合の組織力が弱くなかったのかと云えば、どの政権時代だろうか既に忘れてしまったが、あの国鉄の分割民営化に始まる労働組合潰しによる影響が拡大して尾を引きずりながら、その結果政府与党の思惑どおりに国政という立場から第一野党勢力の力をそぎ落とすのに成功したのである。~云々~あ~眠たい。疲れました。また今度(笑)
0人と人との縁は疎遠になりました。一緒にいた時にだって分かり合えていたわけじゃない。それでいいんだと言う程度の関係しかなかったのかも知れない。私自身寒い人間関係しか築けなかった人生に虫唾が走ります。
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