部屋が海に沈む夕べ
私たちは静かに上を見る
懐かしい光はビロードのしるべ
眩い果ての間に、お前は健やかなまなざしを……
窓は横切るイワシの群れだ
雲は流れそのものだ
巡る浮力は光を変えず
ただこの重さに応えるのみ
ああ、たおやかな海よ
光だけがお前を従えるのだな
私はすべなくお前に抱かれ、
声は耳石を揺らすだけだ
(この身は流れぬこと知り
重力の異なることを悼む)
やがて光が沈むとき
私は近づく雨音にふれ
お前が星を映さないことを
窮屈な呼吸をもって知る
夢想するは
黒いお前と静かな潮流の踊り
自由なえら呼吸と
覚めた夜の語らい。
(本当の太陽は
お前と私のふるえの中に)
さあ、
瞳を焼こうとするものについて
安息を探さないものついて
永遠の夜に語りつくしてしまおう
三度目の、鯨がやってくるまでに
作品データ
コメント数 : 5
P V 数 : 721.0
お気に入り数: 0
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2024-10-05
コメント日時 2024-11-02
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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閲覧指数:721.0
2024/12/27 02時39分14秒現在
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言葉遣いのセンスが良く、イメージも美しい。鯨がやや唐突な感じですが、美しい詩文を読めて 良かったです。
1なかなか掴みきれない詩ですが、良い表現が光っています。 少し整理しながら追っていきたくなります。第一連は「健やかなまなざし」を「お前」が持っている、あるいは持とうとしているのでしょうか、そういう連ですね。 第二連で、空間が二つ展開されながら詩が進んでいることに気がつけます。部屋がそのまま海に沈んでいるからこそ、窓をイワシが横切り、かつ雲も見れている。海と部屋、どちらにも肉体があるんですね。 しかし、少し飛び、第四連の括弧内を見ると、現実の表現がされているように思う。その幻想的な海の流れに乗れない、重力の違う自分(=部屋の中にいる自分)もいることに触れています。 光が海を従えている、もたらしているので、光が沈むと、その海の名残を雨に求めるしかない第五連、でしょうか。ここで出てくる「お前」は、第一連の「お前」なのかどうか。同一人物だとしたら、綺麗に締めにいけるかなと思いました。 要は、「お前」の瞳は光が沈んでも、元の部屋の窓から見える星を映さず、あの幻想の海を抱いている希望的な存在なのかなと。(健やかなまなざしとは、これのことなのかなと) そう考えると、第六連は、今は別世界にいるように見えている「お前」(黒い)と、自由にえら呼吸して海に沈みたい夢想の連。本当の太陽とは、「お前」が沈む光に惑わされていないのを見るに、各々が持っていると気づく第七連。 個人的に、最終連が難しいですね。自分たちを邪魔するものについて語り尽くすことがひとまずの目的、でしょうか。なんだか、もっとロマンチックに着地すると思っていましたが……最後は鯨に乗ったりでもして、二人で遠い場所に行くだろうからもう関係ない、鯨を待つまでの愚痴話なのかなと考えると、それはそれでかわいい終わり方だと思いました。
1「白鯨」なんか、そのままピークォド号から眺め見たエイハブ船長の呟きみたいだなあ。
1読んでいてこちらもハッとさせられる考察ですね。だいぶ書いた当初の源流に近いところもあり、自分でも気づかなかった構造的な解釈もありました。特に「海と部屋どちらにも肉体がある」という表現は面白いと思いました。また、第五連の、「お前は現実の星を映さず幻想の海を抱いている希望的な存在であり、健やかな眼差しとは幻想を見続けるその眼差しである」という解釈、そこから綺麗に締めに続けることができるかもしれないという指摘は非常にクリティカルだと思いました。 うーん、仰る通り最終連は描いていて本当に迷ったところで、初稿では七連目のカッコ内の言葉で締めくくっていたのですがまだ続けなければならない気がして付け足した連でした。以下最終連を書くに至った思考の経緯みたいなものを書き連ねますね。 光は眩く私たちを惑わすもの、偽りの幸福をもたらすもので、私の源泉である海は光がないと干上がってしまい、窮屈な肺呼吸に戻ります。だから私は黒い海を夢想するしかない。だからある意味で永遠なわけですね。その中で私の目を焼くような実存、即物的ではない真の幸福の太陽を見るのですが、それは幻想の海でしかない。光る鯨がくるとまた表面的な幸福に捕らわれ、現実へと帰還します。ここにある「三度目」は私の個人的な体験から来る数字だったのでもっと良い表現があったなと思っています。詩の中の具体的な数字がもたらす影響は大きいことを痛感します……。 その後、鯨は海が育んだ鰯を食べ、その光で海を飲み込んでしまう。最後に鯨を描いた理由はその後の展開を暗示するためだったのですが、ここはもう少し続けて描いた方が良かったと思います。この連で言いたいことを詰め込んだ結果、最終連以前の叙情的な表現が結果として損なわれる形になってしまいました。しかし熊倉さんのその解釈は考えもしなかったもので、叙情的で素敵だと思いました。
1ありがとうございます。叙情的な詩を書いてみたかったので嬉しいです。確かに熊倉さんのコメントにもありますが、ご指摘の通り最終連は改善の余地がありますね。精進します!
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