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日記
かのかつての唐の詩人、たとえば杜甫、白居易には若い時分に書いた作品が残っていないという。若い時分に書いた作品は未成熟な作品であって、遺っては恥ずかしいので、それらは処分してしまったからであるという。 夏の陽の照る。その暑さにぼうと、ほうけてしまって自分が自分であることを忘れてしまう、その刹那、危機感より、体中をりきませる。そこらにある水も飲んだかも知れない。危険な暑さだ。陽がちりちりと刺してくる。 それでも、背にあった詩の束を積んだものから 可/不可 を選りすぐって、不可のものは棄ててゆく。それを決定するものは霊感である。と云って、この暑さでは作業効率も下がってしまう。求めるものは詩の曼陀羅を完成させることだった。仏たちに、ゆるされる為に、まずは仏たちへギフトを送らなければならない。詩が、自分を知ること、世界を知ることならば、銀河系に遍く存在する仏たちへ向けて、秋が来るまでには先の 可/不可 の決定、そしてギフトを、曼陀羅を、ひたすらに完成に向けていかねばならない。夏の陽の照る。 梅雨空に 何もしなかった 生がぼやける・・・ ここち 体に 駄目な それでも大切な 体に運ばれて 今 へやにおります 目下 体と反省中 かのじょの 会話に 遊んで 涙を落とす 涙 もろくなった もう大人だもの 日に日に なにか 忘れものをした 忘れものに なったりしている ・・・さようなら さようなら 作り笑いよ ここまでマメに手帳に書き留めていたミミズは、ついにアスファルトの上に出た折、暑さで一切意識が混濁してしまった。ミミズはもうただ伸びる、縮むをくりかえすこともできない。 夏。地球。やばいっすよ・・・。 私は、南無馬頭観音菩薩、と呟き、ミミズの死骸を、川へと流した。川は凄まじい勢いで流れていた。午後五時ごろ、すっかり夕暮れになってから、作業をやめて、もう一度その川を見に行った。今日、救急車のサイレンを三度聞いた。いつか頂いた残暑見舞いを思いだした。こんなフレーズが書いてあった。「夏には沢山のものたちが死んでいきますね」私は先のミミズの死を、川へ隠した。そんな身でありながら、私は私の死を隠されたくない。総ては、かの阿弥陀如来の浄土への深慕、あくがれを抱きつつも今日もリハビリする身であるから。
日記 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1078.2
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-07-22
コメント日時 2024-07-26
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
この日記という作品は、いやほんとうに日記なんだろうけども、自分を保つために何もしていない私にはなんかいい感じでした。絶望なのか希望なのか分かりませんがそれらの果てから生まれる文章に感じまっす。
1>若い時分に書いた作品は未成熟な作品であって、遺っては恥ずかしいので、それらは処分してしまったからであるという。 すごく人間臭い理由で親近感覚えます。断然処分する派が多いと思うけど…どうなんだろう。 >そこらにある水も飲んだかも知れない。危険な暑さだ。 ここ好きです。さりげなく巧いです。 >「夏には沢山のものたちが死んでいきますね」 生き物の代謝が活発になる時期、古い自分から新しい自分へと生まれ変わるタイミングですね。 >可/不可 の決定 幼虫から成虫への変態過程で起こる計画的な細胞死、アポトーシスを思い浮かべました。これは曼荼羅に成るための「死」でしょうか。 道路に転がってる赤黒いミミズの干物。あれはなぜか仰々しく歪んでるけど、ノートから這い出した若き日の叫びだったのかな
1カーシヤパよ、心は砂の城に似ている たしかでないものをたしかと思うから カーシヤパよ、心は季節外れの天気に似ている 傘は要るときにいつもないから カーシヤパよ、心は空中ブランコ師に似ている ギリギリのところで指先が触れ合うから カーシヤパよ、心は太平洋に浮かぶヨットに似ている その下に巨きな鯨がいるのにも気づかないから カーシヤパよ、心はバンクシーに似ている 思いもしない場所に美しさを発見するから カーシヤパよ、心は燃える川に似ている 本当に燃えているのはこの世界だから カーシヤパよ、心は片想いだったあの娘から貰えなかった返信に似ている カーシヤパよ、心は手放した風船に似ている カーシヤパよ、心は霧の中の車の後部座席のぬいぐるみに似ている カーシヤパよ、心は蝶に似ている カーシヤパよ、心は、ライオン、故事ことわざ辞典、五木ひろし、磨かれたテーブル、チョコレート、お母さん、アップロードとダウンロード、雲豹、シリカゲル、神聖ローマ帝国、実存的存在、水、Qf3、夢 カーシヤパよ カーシヤパよ
1先ずこの間あなたの作品上で荒れたことをお詫びしたい。あなたは関係者であるが故に少々乱痴気?騒ぎになっても許される範囲だろう、という甘さがあったことは確かで、そうだ、揉めるに乗ずるのは一応ルール違反なのだ。ルール?よく読んでいなかった。ルールとは破られる為にある。とは誰かが言った言葉だが、もちろん常識ある社会の中で通用しないことはわかっている。それでなくても今日の世界情勢を鑑みれば、一部の為政者によって国際秩序はどんどん破られて破壊されようとしている情勢なのだ。 まったくここまで来て喧嘩騒ぎを起こしてしまうとは、いい歳をして少しも治癒されていない。恥ずかしさにお尻が痒くなる。どうにも性質上本能的に凶暴さを自ら封じ込めない。これも人間という生きものの本質なのであろうか、必ずや次々から次へと面白がって人が湧いてくる。まるでエンターテイメントじゃないか。しかしながら、詩のサイトというルールが掲げられである以上暴言によるお笑いになるだけの軽薄な互換は避けられるのは当然だろう。認識の違いからそこまで発展した経緯をお詫びしたい。 ところで歴史上優れた詩人の所業を引用して序文からなるこの日記という作品ですが、冒頭からして推敲はどうなのだろうかと思った次第なのです。というもの、かのかっての唐の詩人~かのかっての、同じような意味が重なって入る冒頭。小さなことだが、文としては気にはなるのです。わたしがこの文節の冒頭に置いたところで~これに、それからところで~と話しを切り替えるようなものに近いと思われるがどうでしょう。否、それでもかまわない、とおっしゃられるならばそれでもよろしいという小さな意見ですが、後々の詩文を中心とされた文章はよろしいですね。読むほうとしても作者の気合いを感じました。
2こんばんは。よんじゅうさん。ありがとうございます。 どうしても一作書こうとすると、スポ根に近いものが出てしまいますね。 ・・・えーっと、きっと人は大なり小なり、なにとなく、努力しているような気がするのですが。。。 まったくしていないと言い切られることにも、何か含みがあるような気がします。。。 ただやっぱり目的のあることをしているかどうかというと うーむ、確かにこの作では詩の曼陀羅を作るという目的が 私の中で明確化していて書かせた? やっぱり夏はスポ根ということで。。。すいません、レス下手で。重ねてありがとうございます。
0こんばんは。コメントありがとうございます。 唐詩というか、漢詩の人はめちゃくちゃ多作でありながら、形式、スタイルとして 若いときの作品は処分するそうですよ。 どーなんでしょうね。ネット詩人の場合、投稿掲示板に投稿されたものはアーカイブされてしまうでしょう。 若いときの作品からフラットに残っていくよ、というのは意識した方が良くて そーしないと、今度は自分の筆名の方を変えないと、アーカイヴとの無関係性みたいなものを 処理できなくなる。 ネット詩人のネームロンタリング問題はそれが原因だと思いますね。 そう。ミミズ。ちょっとアニミズムみたいなものが僕の中にもあるんですけれど 絶対、ミミズも言葉みたいなものを持っていると思うんですよね。 それは可能性というか、僕の中で。。。うーんと、解明されているのかな? 希望ですね。
0カーシヤパよ 心をば花に喩えん いつもあなたの蝶を待っているから サンクス!
1アラガイsさんこんばんは。 いえいえ~、私は頭に老子をインストールしているので大丈夫ですよ。 「・・・ま、いっか」っていうマインドですね。 かのかつての、という冒頭ですね。ちょっとこれはエモーションでそうしたので 実は突かれると痛いwという部分ですね。 そうですね、夜は冷房消しても涼しいですけれど、やっぱり書いているときに 暑さで頭やられていたんだなと思いますよ。 何か、あとで読みかえすと、抒情に触れてゆきたいところ、この文章 根底からどっかおかしいみたいな部分が、自分では感じますね。 そのおかしさが何かわからないんですけれどね。ありがとうございました。
0作品全体の含意は僕には難しく、部分的なコメントで申し訳ないのですが、そもそも「不可」の作品なんてあるのだろうか?と思いました。杜甫や白居易のしたことは間違っていたのではないか、とも。 だって、だってですよ?もし稚拙で幼稚だったりする詩なんかがけっこう残ってたりしたら、それこそ、こんな人が大詩人になったのか!よし俺もがんばろう!みたいに勇気を貰える人、たくさん生まれていたかもしれないじゃないですか(笑) なにより、なんだか神経症的なものを感じるんです。要するに、より良い自己イメージを残したい、やな部分が人目に触れるのは耐えられないってことなわけじゃないですか。でも稚拙で幼稚な部分も含めて自分なわけで、そんな自分の丸ごとを晒すというのが本当なんじゃないのと僕なんか思うわけですが。過去を嗤うような輩が現れても、小さい奴だと逆に嗤い返してやればいい。 …と言いつつ、僕も最近登録し直し再出発させてもらった身ではあり(苦笑)ただ一応、3分ちょっとの動画で、登録し直した理由をごく簡単に述べさせていただきました(←宣伝)僕の場合は、ちょっとあからさまに不快感を与え得る作品が散見されたので、丸ごとの自分といってもさすがに、と思った次第です。でも、反省している旨さえ伝えられれば、隠す必要まではないかなと思い。 ちなみに僕は、杜甫の諸作品については、技巧のための技巧のような気がして、こんな素朴なこと言うためにこんな凝る必要あるか?と白ける思いがするのですが、白居易の長恨歌なんかは本当に好きですね。技巧(すさまじいです)と情感が手を取り合って流れている感じで。
1あなたはコメント欄で、偉人が創作物を消すということを、間違っている、と言っている。では素朴な疑問。あなたは黒歴史消すために名前変えたらしいが、(YouTubeききました)あなたにも読者がいたのではないかな。それを捨てて名前を変えたわけだろう? あなた自身に特大ブーメランかましてるなーと、わたしは、おもう。ついでにこの場でYouTubeの宣伝するのはとても失礼だと感じました。交流スペースに置くべきではないでしょうか(他者のコメ欄を荒らす気はないので、一意見として、失礼しました)
1私は神を信じない、のでなにかに祈るようなことはないのだけど私自身のはなしを力説するのは他者コメント欄であるし脱線とおもうので私はしない。なのでまず、この作品の話者の立場になって考えてみる。日記と書かれているから作者自身だろうが、あくまで作品を真摯にみつめることが重要である。さて、すらりとかいたこの文たち、さっすが田中せんせー 全然錆びてなーい。詩なんだよね、これ(私はそう見えます。)出来事を詩に書き起こすのはかんたんであるけど、出来事をそのまま書いてしまっては、本当にただの日記になる。ただその日記も作者をしらなければなにも響かない、断片的であればなおさらだ。そこで書き出す際になにを絞りなにを描き、覗かせるか、だと思っているので、日記っぽいの詩は本当はとても難易度が高い。さて投稿した時点で作者と作品は切り離すべきなので、(詩として)こころして読ませていただく。一行目の唐の詩人の話をじぶんと重ねつつ素直に書かれていることがよく分かる、この日記を書くにあたり迷いはないのだろう(まあ日記だからね)。この暑さに対し、部屋で片付けものをしている、詩の曼荼羅とは詩集のことだろうか。印刷された紙束を可/不可と選別をしているわけだ。この暑さで、なんか朦朧としてそうな、連が組まれて、言葉が ぽつぽつ と 置かれて いる、が…… 『・・・さようなら さようなら 作り笑いよ』わざとわらうことは、とてもストレスかかりそうだ、無理していたことから決別しようとしているわけだね。なにを無理していたのかは書かれていない。けど全体から察することは出来る。けれど、この作品のこの部分自体からも息を抜きのような役割を果たしているので、本心がぽっと出た。として、その後我に返るように、文体もきりわかる。最終行はミミズの死骸を川へ流す、という、うまいこと実際あった出来事なのだろうが、不可とされた詩を話者はどうするのだろうかなどと思わせられ、もちろんゴミ箱inだろうけど。話者はひとつひとつ思い出とともに生を振り返り、露わにしここに記録し、また隠さずに、日々流れていくのだろう。ときは離れ去っていくとしても。やはり田中センセーはうまいなーとつくづく感じさせられました。私には書けないのでね、その素直さが羨ましくも思います
1うんうん、結構ね、同じような問題を抱えている詩人さんって多いと思うんですよ。 ゴミ箱inしながら感じたのは、若い時っていうか、それはまだ手探りで詩を書いていたときの作品の 方が魅力的ってことですよね。 結構、物を、書く人は書いていて(多分)、多分っていうのは、あなたはどうしてるんですか? っていうのを聞きたい気持ちが強かったんですね。 そこには、何が正解とか無いのだろうけれど、文中書いたように、それをギフトにしちゃう方法も あるよ、ってことなんですよね。 確かに僕のように、スポ根、清算主義っていうのは極端な例かも知れないんだけれど ある日、何か、気づくことがあっての事ですし、そのゴミ箱inした過程で持って あたらしい抒情というか懐かしさがグッとくる、ってことも含めて ・・・あと、詩を見抜く能力を養うというか。。。 いろいろ、また気づく事があるわけですね。そういう事を何か伝えたかったし 日常って自分でイベント作っていかないと追われるだけになってしまうんですよね、きっと。
1ありがとうございます。 そう、「日記」と称して、「そのまま日記を書くパターン」が一個あるでしょう。 ただ、僕個人としては、眼前のものを実況中継、これはしつつも、ちょっとエンタメ化したいな っていうところ、なんですよ。 それは主語だったり、文体だったりで魅せる(魅せたい)んですけれど、結局、この詩の作中主体は 断捨離して、ミミズをお送りして、その川を眺めに行って、っていうことしかしてないじゃん、ってことなんですよね。 それを面白く読んでもらうには、仏持ってきたりとは、それはインスピレーションの範疇でそうしましたけれど。 ただА・O・Iせんせーは、いつも、それは「心」だったり「感情」だったり、何か内側にあるものをスッ、と攻めてゆくようなところを、僕は非常に表面的にしか扱えないってことなんですね。 A・O・Iせんせーと僕とどっちがスピリチャルな詩か、って言えば、それはA・O・Iさんに軍配が上がる、上がり続ける状況みたいなものがあって、今も好きなことを僕は書いているけれど、それはずっと課題になってますね。いや、言いすぎました、すいまへん、ありがとうございます。
1あー、だから、僕は何が言いたいかというと、А・O・Iさんが非常に高画質のデジカメで何が撮れるか勝負しているときに、僕は非常にアナログなカメラかこれ?みたいなところで勝負しているということです。でも仕方ないんですよね。それも個々、人間の特性?なので。
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