わたしと同じ年輪をもつ今日という日に捧げるもの
があるとすればバラの花束だろうか、それとも一膳
のおこわ飯だろうか。自己憐憫に酔いながら一本の
線香を立てれば煙の向こうから、ゆらゆらと亡霊の
群れが立ち現れてくる。それがだれであれ皆わたし
の犠牲者だ。ベトナム人であれ居留地にいる先住民
族であれ北朝鮮人民であれアフガニスタンの人々で
あれ、ウクライナ人やロシア人であれ、かつての恋
人であれ、妻であれ、知人であれ、父母であれ、わ
たしは黙って頭を垂れるしかない。生きるとは日々
積み重なる他人の死である。きのうも病院や避難民
テントへの爆撃が繰り返された。しっ! 静かに。
蜘蛛の巣のような迷路をへて明日のための水は運ば
れる。知らぬふりをしてもそれを隠すことはできな
い。人はこの宿業から逃れられないのだ。東京の路
上でテキサスの裏通りで灼熱のカブールで極寒のウ
キエフで、ワシントンのモールから流れ出た水が今
日も酸のように人々を蝕んでいる。日本人だけがな
ぜかそれをリベラルといい進歩的文化人の身だしな
みであるとこじつけるとしても、事実は人身売買で
あり虐殺であり、民族浄化であり、大量殺戮なのだ
が、たとえそうであったとしても大事なのは今日と
いう日だから、わたしたちは生きなければならない、
あなたやわたしのように人を殺して。見ぬふりをし
て。交差する腕の間から外をみようとする通勤電車
の窓に張り付いた女性の目や、背中にとまったテン
トウ虫に気づかず肩を下げているベンチのサラリー
マン、汗をかきながら見知らぬ人におはようと挨拶
するヤクルトおばさん、そういった人たちが世界を
支えているとしても。わたしたちはそのようにトリ
ミングされた狭い短形の窓からしか美を見ることが
できなくなった。もし枠を外したら。いやそういう
想像はやめよう。収拾がつななくなるほどの汚物が
......
作品データ
コメント数 : 8
P V 数 : 1260.3
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作成日時 2024-07-17
コメント日時 2024-08-01
#現代詩
#ビーレビ杯不参加
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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2024/11/23 17時16分03秒現在
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訂正 ラストの行 収拾がつななくなるほどの汚物が ↓ 収拾がつかなくなるほどの汚物が
1収拾がつかなくなるほどの薬を持ってきて壇上からぶちまけた。ジョー.グッドジョブ! 彼のミスは出かける前にMDMAを飲まなかったことだ。ごきげんいかが?早朝からヤクルトおばさんに出合いUS養命酒を一杯ぐっと飲み干した。それから「honey」chihiroを聴きながらリラックスしてみてフルメタルジャケットの点検を滞ることなく済ませたと思い込んだことだ。アチャァ!ハズしちまった。と焦ったときにはもう遅かった。三発の銃弾が心臓を打ち抜いていたのだ。ナバホ族が居留地から強制移住をくり返して150年は経つだろうが、いまこうして僕は埼玉の大宮で自転車を転がしている。ロッキー山脈の麓から越して来たばかりだというのに埼玉の夏は地獄のように燃え盛っている。お盆休みに格好つけて湘南にサーフボードを担いで出かけようとしたらその前に線香を焚けとメリー叔母さんがいう。今日はうるち米だろうか。自己憐憫に囚われながら遠い原爆の犠牲者を祈る。あの街はいまでも亡霊が紆余曲折と動き廻ってるよ。風の便りに抗う男がいつもくり返していた言葉にはもう思いを馳せることもなくなった。薔薇のハナツボが性器ならばあなたの針が刺さるのよ。しっー、静かにしなさい。金髪の熊蜂がそろそろ出てる頃だわ。わたしと同じ年齢くらいのウグイスが殺されてるのよ。あと三カ月もすれば妊娠してあげるから。わたし、中絶手術なんかしたくないんだから。
2狂気の世界にいるのだと実感します。障害者の事業所にいますが、普段からお笑いのようなものを演じるという意識さえなく、やっている人がいます。普段の自然体がお笑いなのです。たけしタモリの時代はまだ、台本があってその上で演じているという意識があった。自閉症的な人の描く絵画もそうですが、内容が凝りすぎている。絵は下手なら下手なほど言った方がいいと言った画家がいますが、たった一人で、凝りすぎなくらい完成度の高い絵を描いてしまうというのはなにか人間的に問題があるのではないかと思う。 文字間違いはOKです。SNS上で編集者もいない中で、誤字脱字のないものを書こうとするのは、凄く神経質で疲れる作業です。間違いは味があっていいと。 変に上手くて凝り固まりすぎると批評が難しくなってしまう。インチキ臭いものがウケる。 全体に流れる重いムードが共感出来ました。...私も今日、朝から重いです。その重さが健全なコミュニティの崩壊だと気づくと、それが得られる場所は、数年単位で見つける必要がある。自由が好きな羊は、永遠にそれに気づかないかも知れませんが。
1お読み下さりありがとうございます。 場違いな場所に場違いなものを投稿しているという 気持ちがあるのですが......それが昔から詩人の宿命の ようなものですからやっぱりたまに気がつけば投稿して いこうかと思っています。
1異端はあった方がいいです。その場の正統がものを考えるきっかけになる。 リベラルだと異端は、排除というところでしょうか。場違いな文章ではないと思います。では。
1ナンダカンダと他所であなたに責められてつい閃いたわけだけど、いい? 何かあなたに足りないものがあると感じてたのよ。で、何かな~と考えてみれば音ね。和声よ。リズム感はある。あなた現代音楽とか聴かないでしょう? 西洋音楽とかポップスとか。たぶん。あなたの詩にはハーモニーが足りない。そう閃いたわけだけど、武満徹の小品(ギター曲)なんか聴いてひなさいよ。それに南米の音楽ね。特に短詩を書く人にはギター曲なんかうってつけ。想像の幅が拡がるのよ。
0色彩感覚とハーモニー。いまからでも遅くない。画面ばかり見てないで美術館に足を運びなさい。そしして武満徹のギター曲。南米の音楽を聴きなさい。言葉に憑くから。
0日常に覆い被された矛盾だらけの俗世で私たちは何を考え何を掴むだろうか。 毎日を直向きに生きる、それすらも蔑ろにされる世の中で何を思えば良いのか。 かつて第二次世界大戦中の上海租界で日本の将校が中国人男性を虐待していて、当時まだ少女だった体験者の母親がそのあまりの悲惨さに思わず少女の目を手で塞いだものの、それが日常茶飯事の出来事として誰も何も思わずにまた何事もなかったかのように日々の生活へ戻ってゆく様を詩に書いた。 きっとそれと同じようなものなのだろう。 誰かの痛みを痛みとも感じずに私たちはまた日々の生活を送ってゆく。
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