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あやめ
あやめ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1084.8
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-05-03
コメント日時 2024-05-09
項目 | 全期間(2024/12/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
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エンタメ | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
とちゅうまで詩になっているのに、とちゅうから理屈がはいっているのが嫌でした。
1闘いはたしかに存在することですね。仕方ないですね。理解し合う人にいつか会えたらそれが幸せなことでしょう、、、。
0わたしには同じ言葉が多くて少し言葉が強いかなと思えました。あくまで一人の感想です。
1おまるたろうさん、ありがとうございます。 一昨年くらいにスプラトゥーンというゲームを始めました。 ネットでの対戦ゲームです。 勝負事なので、勝つ時は勝ちますし、負ける時は負ける。 チーム戦でもあるので、どれだけ自分がいいプレーをしても負ける時は負けますし、自分がほとんど何もしなくても味方が強いと勝ったりもします。 スプラトゥーンのプレイ配信を見たりするのですが、ある配信者はどうにもならないなあという試合で負けた時に、よく「ナイストライ」って言うんですよ。 僕はこの言葉が好きなんですよね。 スプラトゥーンをたくさん遊んでいてわかったのですが、同じようにプレイをしていても結果が伴う時もあれば、結果が伴わない時もある。 初めの方は、自分が何か間違っているから結果が出ないのかと思って、一試合ごとにこうしたらいいやああしたらいいと試行錯誤していました。 でも途中で、あんまり反省しなくなったんですよね。 正確に言うと、結果が出ないことで、自分を罰さないようになってきました。 自分はその時にできる精一杯のプレイをした。 でも結果は思うように出なかった。 結果が出なかったのは、自分が悪かったのではなく、単純にまだ腕前がそれほどではなかった。 それだけのこと。 そしてプレイを続ければ、やっぱり少しずつ上手になっていく。 うまくいく時もあれば、うまくいかない時もある。 それはトライアンドエラーの繰り返しで、思うような結果が出なかったとしても、それはナイストライなんですよ。 前置きが長くなりましが、今回の作品で、おまるたろうさんから、「とちゅうから理屈がはいっているのが嫌だった」という言葉をいただいた。 それはそれでそうだなと思わないでもないです。 以前の自分は、そういう言葉をいただいたし、自分でもそう思うから、失敗したかなと思っていました。 それで改善しなきゃと。 でも、今は、ナイストライって思うんですよ。 もちろん改善するところは常にあるんですけれど。 悪いから変えなきゃいけないという感じではなくて、今よりよくなったら楽しいから変わりたいという感じです。 だから、おまるたろうさんが思ったことは、それはそれでいいと思うんですよ。 おまるたろうさんは詩に理屈を求めていなくて、それは僕もそうですし。 ただその上で、この作品に理屈がまじって、それでおまるたろうさんに嫌だったと言われても、僕はナイストライって思うことにした。 最近はそういう感じです。
0西山智さん、ありがとうございます。 闘いは闘いで楽しいところもあったりします。 ただそれが、殺し合いになると、辛いですね。 理解し合うことは可能だと思います。 お互いの理解度100%を求めると、難しい。 でも、少しずつなら可能だと思うんですよ。 それもトライアンドエラーかなと思います
0佐々木春さん、ありがとうございます。 佐々木春さんの好みではなかったようですね。 ただ、じゃあ佐々木春さんの好みに合わせますというのも違う気もするんですよ。 もちろん、佐々木春さんもそれを望んでコメントをしてくれたわけではないと思います。 だからやっぱり僕としては、肯定的ではないコメントもいただいたけれど、ナイストライだと思うことにします。 コメントをありがとうございます。 作品に対して否定的色合いのコメントを書くのって、けっこう勇気がいりますよね。 でも勇気を出してでも書きたい思いがあるなら、それは大切な気持ちだと思います。
0>本当は >自分のことを >認めたいだけなのに >本当はただ一言 >いいよねって言えれば >それですむことなのに は紛うことなきみずみずしい詩です。 わたしは、これにsyrup16gを連想します。 作者の五十嵐隆は、 最果タヒなんぞよりも才能があると思ってるくらいです。 つまりトビラさんの資質のよさを感じるのです。 ぜんぜんディスってないのです。 わかってもらえたらうれしい。 詩の呼吸がまだ長くない、といえばよかった。 (逆効果じゃ?とつっこまれそうだけど) わたしもはっきりいえば、自慰的にバカ詩ばっかり書いてるし、 まともな詩は数年に1作も出ないくらいなので、 つまり、ちゃんとした詩を書くというのは、なかなかできない。 だから、人のことをつよくいえません。 すみませんでした。 トビラさんの詩には今後も注目していきたいです。
1あやめ=花というイメージが思い浮かんだのですが、蓋を開けてみると道徳チックな考えさせられる内容。 良い意味で騙されました(笑) 人にはそれぞれ好き嫌いがある、どうしても受け入れられないことだってある、それでもお互いに理解し合うことができたらどんなに良いだろう。 そんなことを考えさせてくれる作品だと感じました。
1殺めたいのか、認めたいのか、はっきりしろ!なんて。言葉を使えばわかるんですよね。 要するに、愛するために何でもやってきたわけで。 「知覚の扉 ゆっくり開けて 二人の時間を メーキャップしよう」(Zi:Lie-YA「penetration」より)
1おまるたろうさん、ありがとうございます。 ディスられてる(けなされてる)とは思ってないですよ。 この作品にもいたらないところはあり、そこに指摘をもらったと思っています。 「詩の呼吸がまだ長くない」というご指摘も思い当たります。 思考で言葉を練ることに慣れているので、そこが顔を出してるんだと思います。 syrup16g聴いてみました。 子どものころに読んだ料理漫画で、主人公のライバルと新たな強敵が対決する話がありました。 卵料理というお題でした。 主人公のライバルは技巧に技巧を重ね作りこんだ卵料理を出したの対して、新たな強敵はシンプルで完璧な目玉焼きを出すという話です。 あれほど作りこんだ卵料理に対して、ただの目玉焼きで勝つというのが、新たな強敵すげーみたいな話で、なにかたまに思い出す回なんですよ。 影響力も種類みたいなものがあって、広く伝播するものもあれば、深く沁みわたるものもあると思います。 広く伝播するものはわかりやすいと思います。 深く沁みわたるものというのは、例えばこの料理漫画の場面と言えるかもしれません。 この漫画が特別大好きで何度も読んだというわけではないんですよね。 もう漫画の名前も思い出せない。 ただこの漫画のこの対決だけよく覚えているんですよ。 それだけ深く自分には影響したんだと思います。 自分の中には、複雑な超絶技巧よりシンプルな質の高さみたいなものの方が上という価値観がどこかありますね。 今思うのは、どっちも大事なのかなということです。 好みはあるので、どっちを好むかみたいなのはありますが。 右腕と左腕の両方で腕みたいなものですね。 自慰は自慰で体にいいらしいので、それはまあ適切にすれば問題ないと思います。 ただ、どうしても読んでほしいという気持ちが強くなると、変わるかもしれませんね。 注目していただいて、ありがとうございます。
1田代ひなのさん、ありがとうございます。 タイトルをどうしようか?と思った時に、「あやめ」と浮かんで、それ以外は考えられなくなりました。 なので、決して騙そうとか思ったわけではないです。 本当なんです、信じてください(迫真)。 好き嫌いはありますよね。 自分の好きな人が自分の嫌いなものを好きだった時の、あのどうしようもない感じ。 ただそうい好き嫌いも、食べ物の好き嫌いみたいなもので、お互いが押しつけ合わなければ、うまくやれるんじゃないかなと思いますね。 それができたら苦労はしないのかもしれませんが。
0黒髪さん、ありがとうございます。 それはまあ、殺め合いたくはないですよね。 思いが正しくても、方法が間違ってると悪に落ちてしまう。 世界を平和にするために「悪人」を皆殺しにするというのは、やっぱり悪役の振る舞いだと思いますね。 個人的には光落ちして正義の味方になる悪役が好きなので、早く改心して楽になれよとか思ったりします。
1トビラさんとの交流の中で感じることは、 実は、トビラさんが決定的に何かを憎んでいるのではないかという感覚です。 それは、現実に何かをしたかということではなくて、 ナイーブな問題を孕んだスピリチュアル(!)な魂の話なのですが、 うまく伝わらないことを前提にコメントしてみたいと思います。 悪を語る時、自分自身が悪であることを、 自分自身の悪意を理解して伝えるというのであれば、許される部分もあるかもしれない。 けれど、その方が享受してきた平和の恩恵によって悪を語ろうというのでしたら、 それは恐らく、偽りにしかならないのです。 トビラさんにはそういうことを感じます。そして時々、トビラさんが暗い闇の中にいるのに、それを朝だと思っていることに、気が付いて欲しいと願ったりもします。 他でもない、トビラさんの為、などと勝手なことは言いません。自分自身に対する、言い聞かせのような気がします。 あくまで主観的な感想です。 それから、以前拝見したトビラさんの素朴な絵が好きでした。
1羊飼いさん、ありがとうございます。 正直に言いますと、羊飼いさんが言ってくれていることは何について言及しているのか、よくわからないところもあります。 ただそれが、懸命な忠告だということも感じます。 例えるなら、分かれ道があって、僕は右に行こうとしている。 そこに必死になって「右じゃないよ。右はダメだよ」と言ってくれる人がいる。 そういう時は、立ち止まることにしています。 自分には右のルートは安全に思えるし、魅力的にも感じる。 でも、懸命に右のルートはダメだと言う人がいる。 自分にはなぜ右のルートがダメなのかわからない。 わからないけれど、ダメだと言っている人の言葉の響きには、真実を感じる。 そういう時は、まず立ち止まって、辺りを見回して、自分を省みています。 なので、今回も羊飼いさんのお言葉に一度立ち止まってみようと思います。 絵も少しずつ描いているのですが、あまりネットにはあげてないです。 絵も見てもらえる場所を探そうかなとも思いました。 ありがとうございます。
0争いの根源に「愛されたい」という本能があるような気がします。 新たな発見でした!
1明智愛煌さん、ありがとうございます。 >争いの根源に「愛されたい」という本能があるような気がします そうですね、そうだと思います。 愛されたいですよね。 ああ、愛されてるなと思うとうれしいです。 だからなんとか愛を引き出そうとして、引っ張って嫌がられて、傷ついて。 ふと思ったのですが、愛は差別しないものというより、差をはっきりさせるものなのかなと思いました。 違いをはっきり認めて、認め合って。 貴方と自分は違う、でもそれでいいし、それで仲良くできる。 それで愛し合える。 愛は同化することではなくて、自立するものなのかもしれませんね。 明智愛煌さんからコメントをいただき、僕にもそういう気づきがありました、ありがとうございます。
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