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夏の標本づくりの失敗について
人は簡単に、あの夏の香りを忘れる。 フレーバーつきの透き通った水みたいな、淡く痛々しく香るあの日々を、瓶に詰めて蓋をして、永遠の標本にしようとして、毎年失敗するのだ。 夾竹桃のドロップは真夏の毒味。 青空に映えるピンク色は遅効性の毒。 腐敗していく夏をただ遠くから眺めるだけの冬は、白く鋭い。 去年の夏がまた、瓶の中で腐っている。
夏の標本づくりの失敗について ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1073.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 4
作成日時 2018-01-21
コメント日時 2018-02-02
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 1 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 1 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 2 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 4 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 2 | 2 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 4 | 4 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
分かるんですよね。書きたいこととか見えているものとか。けれど私は、本作品は作品ですらないと思います。失礼な物言いかもしれませんが、要するに本作品は、心象風景の言語化に失敗している。いちいち指摘するのもどうかと思いますが、例えば「あの夏」。勿論、何の情報もなく唐突に「あの夏」という言葉が出てきて、しかも成功している作品もあるのでしょうが、少なくとも私がこの作品を読んだ際の感想は、「どの夏だよ」でした。「フレーバーつきの透き通った水みたいな」という比喩も成功しているとは思えないし、とにかく作品としては全く無に近いですが、それでも「きもちはわかるんだよなあ」と思ってしまったのでコメントしました。
0完備さん 色々とご指摘いただき、ありがとうございます。作品ですらない、というのはその通りかもしれません。私の作品(作品ではない、と言ったんですが便宜上ここではそう呼ばせてください)は、伝えたいことだとか深い意味のような要素は全く含んでいなくて、ただふと思い浮かんだ言葉を書きとめているノートの端っこみたいなものです。 「あの夏」については、「あの夏」が「どの夏」か分からないから「あの夏」としたんだと思います、書いたのは自分なんですがその時の言葉はその時だけのものなので、今となっては推測することしかできませんが(ひどく分かりにくい説明ですみません)。 コメント機能を使ったことがなかったのでどう返信するのが正解なのかよく分からないのですが、なにか失礼がありましたらすみません。読んで下さってありがとうございました。
0「夏の標本作り」とは果たしてなんであろうか?例えばそれが一種感傷的な夏の心象風景を読者に伝わる形で表現することであるとするならば、確かに完備さんのご指摘のとおり、この作品は「心象風景の言語化に失敗している」のかもしれない。が、しかし「夏の標本作り」が「心象風景の言語化」そのものであると仮定するならば、この作品はまさしくその失敗について言及しているのであって、作品として成立していないどころか、感覚や心象をうまく言語化できないことのもどかしさについて、自己言及的に論理を循環させるような奇妙な魅力を持って非常に巧みに描いていると読むこともできるのかもしれない。確かにねらった比喩であるならもっと洗練された比喩が欲しいと感じる点では確かにそうなのかもしれないのだが、いや、果たしてどうだろう。比喩の失敗をあえてそのままに放置することによって、この作品そのものを「瓶の中で腐った」夏にすることに成功しているとも取れるのではないか。と、読んでみると、なかなか感覚が言葉にならないときに自分が感じる激しいもどかしさや、自分が書きかけたの詩の断片のあまりの陳腐さを思い出して、なかなかに共感できる作品なのかもしれないと感じたりもしました。深読みだったらすみません。
0投稿ありがとうございます。安坂さんの過去作も振り返りましたが、タイトルがセンスいいですね。私、タイトルが光ってる作品が好きなもので。 で、コメント欄の完備さんの指摘はめっちゃ私的には勉強になりました。私も以前、自作品に対して「あの」「その」が多いし安易に置き過ぎると指摘されたことがあって。そのことを思い出した次第です。 「人間は簡単に、夏の香りを忘れる」 としたら、まったく違う響きとして私に迫って来ました。 また、survofさんの比喩の失敗をあえてそのままに、というコメント。これは、かなり高度なレトリックだなあって、思った次第です。 有意義なコメント展開ありがとうございます。
0survofさん コメントありがとうございます。 survofさんの分析、とても興味深く読ませていただきました。完備さんへのコメントにも書きました通り、私は特に何かテーマを持ってそれについて考えて書いたりしたことがなく、逆にコメントを通してそういう見方もあるんだなあ、と驚いています。特に比喩表現については、私自身全く「比喩表現をしている」という感覚は無く、なんとなく浮かんできた「フレーバーつきの透き通った水」になんとなく「みたいな」を付けた感じだったので、こうしてコメントをいただいて初めてこれが比喩だったと気付きました。 その瞬間にしか自分の中に存在しない言葉の組み合わせをそのまま文字にすることで、後で読んでも何だか意味がよく分からない、陳腐な言葉の羅列になってしまうという寂しいものが私の中での詩なのですが、survofさんのコメントを読んで、それこそが私の「夏の標本の作りの失敗」なのかもしれないと、何となく感じました。
0あの夏とは、腐ったような毒味に満ちた夏のことでしょうが、これが毎年のように繰り返されていく。表現の不足は限定されることを望まない。自由な読みを託す、という意味に取れば、また深みのある詩情性を感じたりもします。 書かれてあるように夾竹桃には毒性があります。 原爆がおちた跡には何年か草木も生えないと言われていたヒロシマ。そんななかでいち早く花芽を付けたのは夾竹桃だと言われています。市花にもなっていますね。 冬は人々の気持ちを対照的に表した喩と受けとめてみます。そう考えれば、語り手が詠んだ季節は間に挟まれた秋でしょう。句読点の位置づけには私なりの詠みを挟みたい気もしますが、夏の標本づくりの失敗とは。その嗅いでは忘れ去られる香り痕跡。人々の気持ちが込められているのでしょう。
0腐敗していく夏をただ遠くから眺めるだけの冬は、白く鋭い。 この一行がとてもいいなと思いました。 毎年失敗する、という部分に、まだまだ夏が続く、という感覚があり、そこに若さを感じますね。 キョウチクトウの、毒から連想したのかもしれないけれど・・・ひとなつの思い出を透明なままに閉じこめておきたいのに、いつも腐っていくのを観ている、それも冬に・・・という読み方をするなら・・・ 夏の高温と気持ちの沸き立ち、湿度のある空気を、ほのかな恋心を抱いた時、として・・・やがて、想い人の裏面のようなものが見えてしまって心が冷える、凍てついてしまう、そんな冬の季節を迎える。そんな繰り返しを描いているようにも見えます。 キョウチクトウのイメージが、現実の毒気のイメージに引きずられて、うまく機能していない、そこに課題が残るような気がしました。
0一読していいなぁと思いました あんまり他の言葉にしたくないですね。表現したくても出来ない、ただ自分が覚えている香りがどんどん腐っていくという事すら多分、夏が来る度に忘れてしまう。去年の夏とか僕覚えてないんですよね。もう。暑かったような気もするのですが、今は冬なので寒いし。年を取る度にどんどん忘れていきますね。 標本というのもいいなぁと思いました。標本は腐らないというよりは腐らない要素を全て引っこ抜いた生き物の形を保存するという時に夏には明確な形を持っていない訳で、だから匂いの話になるのかなぁと思います。元々この詩は失敗しているし、無理な事なんですね。でも、この詩を通じて僕ら夏の匂いを忘れているという事を通じて夏の匂いについて考えたとおもうんですよね。そういえば半年前夏だったよなぁっていう簡単な事を思い出した筈だ。そういう意味でこの詩は失敗しているけれども、成功している。
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