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あなたのかたまり
丸の内駅のホームで、あなたを見かけたとき、BOSEのヘッドホンから聞こえていた音楽より、脈がバクバク鳴る音のほうがはるかに大きくて、動けなくなった。まるで、両方の靴が触れている地面から、たった今足が二本生えたかのように震えて、動くことができなくなった。生まれた場所を好む両足は、(気温の低く、暗い湿気た場所を好む植物が、沖縄の暖かく乾いた気候では上手く育てないのと同じことだと言い張るように、)頑として動かない。ヘッドホンはエンドレスでフジコ・ヘミングが演奏する『革命』を流し続けていて、その重苦しさに気が狂いそうになって、右手でヘッドホンを耳からずらした。丸の内駅にいる人々は皆、足早にオフィスや行くべき場所へ向かうのだから、ぐすぐず立ち尽くしているわたしを迷惑そうに見て、でも首や目線を進行方向へ向け直したときには、行く先で待っている仕事等のことを考えるのに忙しくて、ホームで立ち尽くすわたしを忘れてしまえる。でもわたしにはできない。一日を100のかたまりに分けたなら、(まずあなたはこのたとえを笑うだろうが、)わたしはそのうち15個のかたまりに該当するじかん、ぼうっとあなたのことを思い出している。思い出してはうち消して、15個のかたまりが18になる日も、9の日もたしかにあるけれど、でもわたしはあなたを記憶している。忘れることなく、日々記憶し続けている。生きていると、忘れることができることの例とその数にびっくりすることはあっても、本当に忘れられないことなんて一つもない。二十一のときには、忘れられない女のひとがいた、わたしはそのひとのことをたくさん書いた。詩にした、散文にした、たくさんの、わたしの(書いた)彼女がまだインターネット上にはいる。わたしにとって、忘れるとは、書いて、書いて、全部を物語にして泣くことだった。セラピーなんかにもならないくらい落ち込んでぐるぐると、虎がバターになるくらいぐるぐるぐるぐるおなじところを回って、つかれ果てて倒れて、でもわたしはやめなかった。ずいぶんとすり減らし、たくさんの傷をつくって、手脚は何かをつくったり歩くためではなく、転げおちるためにだけ大きく広がって、わたしのからだを傷だらけにした。 あなたのかたまりも、15から、9になり、9から20になり、20から、5に、3にと減っていくことはわかっている。だって昨日の晩は思い出さなかった。 耳から外れたヘッドホンから、遠く、革命が聞こえる気がして、耳を澄ます。足を引きずり、息も絶え絶えに為される革命が、わたしを忘却へ駆り立てるために、丸の内駅のホームにうっすらとながれている。あなたはとっくにどこかへいってしまった。わたしはバクバクする心臓がやっと落ち着いたことに気づいて、ヘッドホンを首から外してユニクロのバッグにしまう。巾着型のバッグの口を縛っている紐をのろのろとほどいて、やっとのことでヘッドホンをしまった。忘れるためには、生きるしかないと、あたりまえのことが、丸の内駅のホーム、放送で流れる。(忘れるためには、生きるしかないので、)
あなたのかたまり ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1158.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2024-02-08
コメント日時 2024-02-11
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
いいね、とても情景として感情として美しく浮かぶと思います。ただひとつラスト手前 [・丸の内駅のホーム、放送で流れる。]←なぜ放送〝で〟なのだろうと考える。その前文の [・生きるしかないと、あたりまえのことが、] ここはすごく大事なところなのだけど。繋げるには〝放送で〟だけでは伝わりきらず足りない気がします。放送とは?どんな意味をもたらすのか、たとえば周囲のひとびとの動きだったり時間、空気感。そういったものでもっと強めることが出来たのではないかなと思います。
1A・O・Iさん、コメントありがとうございます。 >丸の内駅のホーム、放送で流れる。 ここを切らずに一文にしたかったので、「あたりまえのことが、丸の内駅のホーム、放送で流れる」にしたのですが、ご指摘いただいて読み返すと、必然性はなく、テキトーにおいたようにしか見えませんね。ホームの放送で、だろうが特に変わりがないですもんね。 >放送とは?どんな意味をもたらすのか、たとえば周囲のひとびとの動きだったり時間、空気感。そういったものでもっと強めることが出来たのではないかなと思います。 こちらのご指摘がとてもありがたかったです。この箇所、わたしの書きではまだまだ解像度が低いので。 >いいね、とても情景として感情として美しく浮かぶと思います。 もちろんコメントのこちらの部分も嬉しかったです。ありがとうございます。
1固有名詞が多く使われているという印象を持ちました。というのも僕が今書いているものにも音楽の名前やユニクロという社名を使っていて、その偶然が生み出すものがあると思ってコメントを書かせて頂きました。先程の固有名詞が、皆が聞きなじみのある地名、物、社名、音楽など、虎がバターみたいな言葉もそうかも、ほどよく散りばめられていて、そういった言葉が書き手と読み手の距離を縮めるために作用していると思います。でもその割合が多くなり過ぎると、それありきといいますか、狙っている感じも出てきてしまって、塩梅が難しいかと思いますが、途中、数字から発想されていくイメージ、哲学的?な、がその狙っている感じを上手く打ち消しているように思いました。主人公が男性、と明確には断言できませんが、女性だと思って読んでいたので、中盤に小さな驚きがありました。ただ、僕だったらヘッドホンは最後に外すかなと(耳が作中のひとつのポイントになっている気がしますので)。駅だから、外したことで生まれる雑踏、それは自分が普段から知っている音であったり、はたまた見知らぬ世界へと踏み込んでしまった警告のアラームであったり、動くことすらままならず、立っていることしかできなかった世界が、また動き出す合図として、「外す」という行為を、しかしわたしが立っているここは一体どこなんだろうみたいな、少し不思議な世界が見える終わり方へ、繋げていくこともできるのではないかと思いました。でも、作者の方が提示される終わり方もすごくいいなと思いました。
1序文にいきなり心を掴まれて、「わたし」の心情への共感など様々な気持ちが浮かんできました。そして一日をかたまりに分ける、という表現がその後の気持ちの変化を描くことへの大きな意味を成していること、そしてそれが作品への没入感を増していき、とても身近なもののように感じられて読んでいてとても素直に心に届く作品だと感じました。
1>ただ、僕だったらヘッドホンは最後に外すかなと(耳が作中のひとつのポイントになっている気がしますので)。駅だから、外したことで生まれる雑踏、それは自分が普段から知っている音であったり、はたまた見知らぬ世界へと踏み込んでしまった警告のアラームであったり、動くことすらままならず、立っていることしかできなかった世界が、また動き出す合図として、「外す」という行為を、しかしわたしが立っているここは一体どこなんだろうみたいな、少し不思議な世界が見える終わり方へ、繋げていく コメントありがとうございます。引用部分、参考になるコメントで、ありがたく読みました。リライトするときに、別のパターンとしてぜひ参考にしたいです。固有名詞の話もすごくわかりやすく書いてくださって、次回以降書くときに、バランスは意識するようになると思います。数年前、ゼンメツさんが『傘泥棒』という作品のコメント欄で固有名詞の働きについて書いておられて、すごく参考になったことを思い出しました。(下のコメントにリンク貼りますね。)コメントありがとうございました。
1記憶違いでした。なかたつさんの選評のコメント欄にて、1.5Aさんが書いてくださったことと近いことをゼンメツさんとなかたつさんが話しておられる。私用のメモを兼ねて貼っておきます。ただ、誰にとっても参考になると思います。 https://www.breview.org/keijiban/?id=2604
11.5Aさんの作品だと、こちらが固有名詞の働きを逆手にとっている優れた例に思われます。とても良い作品! https://www.breview.org/keijiban/?id=11584
1貴重なひとページをお教え頂きありがとうございます。作品本文、それからコメント欄全てに目を通しました。そこからまた頭に浮かんできたのは、固有名詞って記憶の一部なんだろうなということでした。 文章、そこに息づく呼吸みたいなものは、ある程度(読み手として)反復して読み込めば、噛み砕くことができ(あくまでも模倣にすぎませんが)、それによって、文体、そこから派生するリズムなどを真似することもできます。このあたりは広くセンスが問われそうな部分ではありますが、だから実はそうではないと思っていて、固有名詞を作品にいくつか織り混ぜていく方が、それが持つ記憶が錯綜してしまい、これはセンスが必要なんだと反対に思わされてしまいます。つまり、読み手の記憶にない固有名詞は読み手には刺さらず、逆にそれがあることで作品全体にノイズがかかってしまったり、書き手は読み手を選ぶことはできないということが固有名詞を使用する難しさの前提にあると思います。また固有名詞という限定された名詞を入れずとも作品は成り立ちます。匿名さんの作品から拝借いたしますが、BOSEのヘッドホン、ではなくてヘッドホンないしはイヤホン。フジコ・ヘミングが演奏する『革命』、ではなくてピアノで演奏された曲というように(ユニクロのバッグもそうですね)。でも『革命』はこの作品の中で意味を持っているため置き換えられないところではありますが。 僕は自分の世界しか分からないので、意識して固有名詞を遠ざけてきたのですが、と同時にそれは美しい比喩にも匹敵するような輝きや効果があると心のどこかでは感じています。使われている固有名詞と作品の方向性が調和している場合、それは読み手の記憶を推し量るだけではなく、書き手の意思が読み手の心の中に遊びに来てくれたような、そんな体験がもたらされるのだと思います。 (普通名詞、固有名詞の選択は、僕も基本は読み手との距離感を操作するために選んでいる。)もちろん意図的に遠ざけることもよくする。 遠ざけるためにそれを用いるというのは面白い発想だと思いました。 良い文章体験をさせて頂くことができました。僕の書いたものにも言及して下さりありがとうございました。
1コメントありがとうございます。いただいたコメント、こちらのこころにもまっすぐ届きました。とてもうれしかったです。ありがとうございました。
0大したコメントは書けませんが、このようにイメージを喚起する具体的な経験があって、それが試作のモチベーションになっているのは素敵だなと思いました。
2佐々木春さん、コメントありがとうございます。素敵と言ってもらえて嬉しいです。
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