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『いつかの田舎道で見た憧憬としての女子学生』『人は罪と幸福に塗れ、明日も生きる』
『いつかの田舎道で見た憧憬としての女子学生』 田舎道に佇む制服を着た清楚な女子学生は現代では幻想である。ああいう女子高生、制服が似合う黒髪ロングで、ピュアな感性を持った少女、それはあなたが遠く離れた田舎のバス停留所に辿り着いても存在しない。田舎のバス停留所も現代では幻想によってもたらされた観念なのだから。過去は美しい。過去は永遠の幻想であり、すべての憧憬の源泉であるからだ。そして過去においても、学生服、それを身に纏った少女、田舎道とバス停留所も幻想でしかなかった。古ぼけたカラー写真をネットで閲覧し、美しい過去は、いつの時代も、過去進行形であっても、その時代を生きる人々の甘い感情によってもたらされる、未来への諦観でしかない。私たちが憧憬を手に入れようとするならば、思い出に浸るのではなく、自律的に美しい未来を志向するのだ。その時、未来は過去との約束を果たし、少女の純粋さは、他でもないあなたの中にあるだろう。 『人は罪と幸福に塗れ、明日も生きる』 私は、私を救えたが、まだ日本国民を救えていない。日本国民の抱える罪は、私の罪である。どのような政治指導者も、同胞を、あの恐ろしい罪の苦しみから、救おうとしなかった。世界で最も愚かな人を愛すること。それが神の愛である。私は今でも日本国民を愛しています。愛によって、人は世界の不思議さを確認する。日々、目にするものは、何も古びていない。誰もが、孤独と、それぞれを苦しみを抱え、今日まで生きてきた。いつからか私たちは知る。人生の道筋で罪がぽっかりと黒い穴を開けて待っていると。人は自分の死を見ないように、自分の罪も見ない。眠りにつく前のいくばくかの時間、今日の日を振り返り、幸福への感謝と、微かに感じる罪の予感に震え、私たちは眠りにつく。明日も太陽は巡る。そして同じ日は二度と来ない。さようなら、今日の幸福と悲しみよ。苦しみとともにある、素晴らしき喜びの日々。私は罪と反出生に抗う術を知った時から、日本を愛しています。
『いつかの田舎道で見た憧憬としての女子学生』『人は罪と幸福に塗れ、明日も生きる』 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 874.6
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-01-01
コメント日時 2024-01-24
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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技巧 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
ちょっと傲慢な言い方ですが、確か創作作品だったか、宗教家の言葉に「震えて眠れ」と言うのが有りました。この詩でも、そう言ったフレーズを想起させるフレーズが出て来ます。(「微かに感じる罪の予感に震え、私たちは眠りにつく。」)。象徴的で、美しい過去、過去進行形、それが如何なる意味や働きを現在にもたらすのか、それを考えるとこの詩の意義が分かるのかもしれないと思いました。
0世界で最も愚かな人を愛すること。それが神の愛である。 そうかもしれません。
0ありがとうございます。フレーズでイメージを想起させることは常に心がけています。
0ご理解頂きありがとうございます。
0『いつかの田舎道で見た憧憬としての女子学生』については、坂口安吾の「故郷に寄する賛歌」とほぼ同じことが言われていると思います。 『人は罪と幸福に塗れ、明日も生きる』については、仏教的な向上=向下の理論を強く感じました。日本国を救いたいという思いでは、私もmanacubaさんと同じ気持ちでおります。
0なるほど。今度読んでみますね。私は基本的に日本救済主義です。
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