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142857B 2007
冬休みの大学キャンパスで友人が紙を受け取り、事務所から出てくるのを待っているあいだ、もうここに何日いることになるのか、計算していた。日々はポリバケツにすりきりのタールのように僕の喉を締めつけ、煙草はいまだ、やめることはできず、パッケージは後ろポケットのポケットでつぶれ続け、さらに次の日は、夜が明けきらないうちに起きて、大学キャンパス前からバスに乗り隣町の診療所にいく予定だったのだが、その循環系統の、始発の市内バスは、僕が血液検査の結果が書かれた紙片をとりにいくことにたいして、なにか干渉するだろうか、とずっと怖れていたけれど、バスは始発なのでまだ誰も乗っておらず、床下ではエンジンだけが静かに旋回していて、僕は胸をなでおろした。診療所では赤い石油ストーブが燃えており、子供むけに書かれたボール紙の表紙の絵本を、一瞬手にとり、診察の受付から、医師の顔がのぞいていないことを確かめ、すぐにそれを戻した。診療所を出ると、みぞれが降っており、それは吹雪だったかもしれないが、そのなか襟をたて、僕はバス停にむかって歩き、街の南の埠頭にはカリマンタン島からのタンカーが順を追って入港し続け、それらは一様に丸みを帯びている。僕は、パッケージから、イギリス煙草を一本抜きとると、火をつけ、いつ煙草がやめられるのか、そればかり考えていて、バスに乗るのか、電車にのるのか。 その日は、カリマンタンについて調査・筆記する用事があり、それ以前にも、いくつかの断面図を買い、それを下や横から眺めていたのだが、それは、小さな木箱なかに保管されているボールのような、別個の存在をいくつもふくんでおり、分析はいつも失敗した。夕暮れの州都には、ジープを改造した乗合いタクシーが島のあちこちの町や村からあつまり、このぶんでは、これらの街や村には交通手段がないことが危惧されたが、今日を食いつなぐために、濡れた草木の道を歩いてきた人々は、炎天下であれ、雨の日であれ、高級乗用車のブラインドガラスに映る自分の、ぼろきれが風になびかれて目をしかめている自分を、それまでのどんな化粧鏡よりもクリアに映し出すのを記憶しつづけ、違いといえば、そのつややかに光るガラスを、車が停止している瞬間のうちに叩き、何度も叩き、可愛いお嬢さんのお気に入りの人形はどれですか、それは米国産の加工食品のように、表面がつやびかりしてはいますが、それでも、おそらくは被植民地相応の紐帯意識を理由に、買ってはもらえないかと。旅すること。旅。旅は、ほんとうは決して交わることのないいくつもの土地の風景を、互い違いにブラウズする。たとえば、内戦が終わって間もない首都の市場で、片足を失った男が、屋台でトランプに興じる僕や、ほかの旅行者たちの肩のすき間から帽子をさしいれ、小銭を欲しいと願うととき、たいての場合、僕らは、はっとして、男のほうではなく、生あたたかい空気のせいで歪んで見える、電信柱の列を眺め、そこではオレンジ色の街灯が地面を照らしており、旅について語ることは、それとは関係ないフランス人や、電線に停止する鳥たちに関する記述によって、上塗りされる。 農村と大都市がモザイクのように引用しあい、街外れの曇った路地で少女が手にしたスコップは、すでに繰り返しオンラインで書きこまれており、それでも僕らは、焼けたハイウエイの路肩に座りこみ、作業をいつも一時的に保存するが、手はいつも、ペンキのはげたバスの手すりを握っている。メガネをかけた老婦人はきっと、そのときも、アジアの女性たちを支援するべく、ビラを刷って、人気のない住宅地で配布してまわっているのだろう、と僕は思っている。僕は寒いので、手をこすりあわせ、坂道を歩いている。たとえば、ひとつのコンセプトとして「アジア」というのは、迂回路としては、もし、あなたが行く道が工事中で、字義通り穴が開いていて通れないとか、そんな事情のもとでは、有効だろうけれど、僕は、とにかく寒かった。それでも、一時期、僕は、旅することは、もうやめようと、思った。それはなにも禁欲からではなく、ただ単に飽きてしまったからだ。列車に乗り、市場で果物を値切って買い、安宿の扇風機の下で缶ビールを開ける。語られることはいつも同じであり、それらはいつも金網を通って入ってくるネオンサインやホンダの騒音や、粘り気のある空気に関する記述によって、すぐに上塗りされてしまう。 旅にでるとき、エアコンのガラス窓の向こうに飛行機が飛んでいる風景が、いつも煙草のパッケージのようについてまわり、そうして灰色の上空から埋立地をながめ、僕らは日向の駅のターミナルで小銭を両替し、砂埃を立てる客車列車に乗り込むと、それは3車線の高架と平行して走り、カーゴターミナルが視界の隅に消えると、いくつもの黒く濁った運河をペンキで塗った橋でわたり、首都のドーム屋根の下に滑り込んでいくのだが、その記憶はいつも、売店で買ったチョコレートの味のように舌先に一瞬だけとどまって、均一化した輪郭だけを残して、フェードアウトする。旅は、個人的なものであって、たとえば、その土地で加工食品を作り続けている、一介の労働者の集団とは、笑顔で、まるでスイッチのようにピンと跳ね上がる手の平をお互い提示しあうことによって、それは、おそらく鞄のなかの汚い手帳に一行だけ、「ここはこんな場所だ」という気分に添えられる、詳細なのであり、それはきっと誰の目に触れられることはなく、家族が丸テーブルを囲む居間で、両親や、兄弟や、親戚が目を丸くして、彼を見ている、そんな場面でさえ、むろん、かれらは手帳に隙間なくメモし続ける刑事ではないのだから、話題にのぼることは、まず、ないだろう。彼らは、おそらくは分相応な女性や男性を助手席に乗せ、そして休日にはユニクロの左折レーンに列をなして並び、そこでならぶ車はつねに丸みを帯びており、カリマンタン島からタンカーが入港し続けているのも知らず、いつか記憶はアジアになり、そして、同調しながら、そう言いはじめる。 Last Updated: 2007
142857B 2007 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1010.0
お気に入り数: 4
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2023-12-17
コメント日時 2024-01-13
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
マキマみたいなものか マキマは支配の悪魔なんだけど マキマの野望と言うか願いはこの世界をよくする事なんだよね 支配が回転しやすい世界はもちろん回転力というかその遠心力での被害があるんだけど 今の世界では支配そのものの回転と言うか 言えば国家転覆、革命だよね そのリスクはまあ、言ってみれば馬鹿でもわかるし、教育というものはそれだけを叩き込んでいる感もあるよね 国家は安定しているから国家なんですよという洗脳教育 安定した国家とは何かと言えば極論としては 税金が100%と言うか 其れをユートピアとして見るかディストピアとして見るか 人間の価値という問題もあるよね 尊厳と言うか SFなんかでは人間の寿命を伸ばす事を良い事と考えている国家は少なくて (どうかなぁコレは色々あるかなぁ) 人間の寿命を定めていてまぁ50歳ぐらいか その辺で処分されてしまうと言うか 生命の実を与えるよりも 新たな生命を繋いでいくという選択の極まりと言うか人間の価値観の揺らぎというか セカンドインパクトバッチこーいみたいな状況になったり君の命は宇宙でなにより重い 君だけは僕が守る ユニコーンあゝあああああああー みたいになったり ピアノみたいに域があるというか 精神の幅よね ある世界の安定の担保としてのある世界の不安定さというか 筆者は何が言いたいのかと考えると ボクラノ察しの悪さみたいなものに対する苛立ちみたいなものもあるのかなとは考える 世界規模での搾取 洗練された商品を生み出す為のサイクルの中に人権を蔑ろにするステップが含まれている事。 通貨という契約を外れた世界観というか 物々交換みたいな制度みたいなものを思考実験として考えるといくつかの段階で躓いてしまう スタートに戻るというかやはり国家という仕組みが如何によくできたシステムであるかというのを再認識するんだけど コレこそ気概の問題だとは思ったりするんだよね、文学というか この作品の焦点を探ると、どうかな?もしかすればそれは枠外にあるのかも知れないとか考えたりしますね 文学は凡ゆる学問に対して問題意識を切り売りしてきたんだけど社会構造の複雑化というか、それをもう一度文学が示さなければならないのではとは考えたりはしますね まぁどうかな ちゅ多様性って事なのかな? あのちゃんは多分この作品の感想を歌ってるんだろうなって思うんですよ 多分大体あってると思ってるし まぁ単純に共感を拒むような描写のような作品は如何かな?ビーレビでは如何かな? コメントつくかな? それとちょっとコーリャさん可哀想 天才詩人2はこうなると完全に道化になっちゃう 五老星
0「天才詩人」などというハンドルがすでにし て批評になっているから、憶測するに本人は 詩から見放されていることを自覚しているのか もしれない。 ところどころに気の利いた表現がある。 また日本語の起承転結にそぐわない意図的に 脱線した文体がある。 作者はそれがサリンジャーのような あるいはその亜流の村上春樹のような あるいはカミュのような気の利いた散文が つくりだす言葉の風景と思想を じぶんもまたつくりだしているだろうと 感じているように見える。 それは悪いわけではない。 ただ、 自分探しというのは意識の虚構なのだが その虚構に幻惑されて旅などまでやらかすと 実際の現実の人や街との意識の上のずれが 起きる。 それは当然であって流れ着いた先が戦場で あろうと天国であろうと大都市であろうが 最果ての凍土の村であろうが人というのは 流れ者とは違ってそこで生活しているのだ。 単純な生という営みを黙々と続けている。 たとえば90歳の老父を70歳の息子が 看護しているかもしれない。二人共黙って 自分たちの生を引き受けている。そういう なまの生の存在に何処へ行っても遭遇するとき、 自分探しなどというふざけた旅人がいる 場所などないから つまり、結局は交わり得ないものが交差する ときのなんともいえない空漠感に出会しかない。 だから片足の男が帽子を差し入れてもその 肩越しに印象的な風景をみるしかないのだ。 人間はウソを拒絶するが風景なら流れ者のウソを 許容する。 なまの人間など、どこへ行ったところでみな “親が死んでも米を研ぐ”人たちばかりなのだ。 書き手というか作者は自分がやってきたこと の愚かさにもう気づいているのかあるいは 気づくことは"自分"の破滅になるから気づけない のかは知らない。 迂遠になにか社会政治意識の断片が配置されて いるがそれは正直ぶんがくとしてどうでもいいことで それはちゃんと別枠で書けばいいことだとおもう。 いずれにせよ最後は142857B 2007 という出発点── 間違いの出発点に戻っていつまでもあがいている。 いや、ぎりぎり、それもまた文学なのかもしれない。 同じことを何十年も繰り返し書いて だれかがいつか解読して「おまえは間違っている」 とはっきりいってもらいたいのかもしれない。 でもわたしにそんなことをいう義理はない。 当人も意識の上ではそんなことはないと思っている だろう。 だから黙っているべきなのだが、そういう”行為 としての詩”というものもあるのだなと思い感想 さなどせてもらった。
1まあ私とはいきてるみている世界が違うっていうか、んだからものがたりに見えちゃうんだよね、この詩の中の登場人物、ひとりのオトコの映画にも満たない少しのストーリーだね。一息で読ませる文才、上手いよね、すなおにさ。
0なんというか、現在の僕の文学観は、一言で言うと心の中で人を殺すことなんだけど、 そういう目で見ると、この紀行文は、「アジア」に命を与えている。つまり、心の中で、 救っている。そして、僕は救われたものを殺す気にはなれない。神になるっていうことは、 自分の生が神様から与えられ、それを返上するまでの間に何をしているか見ているらしい、 神様にケンカを売るっていうことであって、神様、あなた、未来のことを全く知って、 いないじゃないっていう喧嘩の売り方が、僕の神様観。だから、救うということは、 文学であり、神様にケンカを売ること。人間が他者を救い始める?サイコーじゃん。 救うのを始めたのはあなた自身に他ならないよ、天才詩人さん。
0現実に人間として酷い人生だみたいなことをそれぞれ置かれている立場で言い合うとマイノリティの人生って、酷いみたいに思う人もいるけど、みんなが送ってきた人生だって、フィクションの中でしか美しく語れないじゃんって思いました。 小沢健二さんの感じがして良かったです。
0読んだ印象ですが、詳細な描写と言うか、丁寧な描写から、大胆な断定になるのかもしれませんが、不安の兆候が内面に逍遥して居て、それがこの詩のようなスタイルいなっているのではないかと思いました。それと、内面自体はそんなに出てこないか、殆ど外面描写だったと思うのですが、外面描写が、最初に指摘した不安の兆候とはちょっと違うニュアンスで、矢張り内面の不安と言うのか、内面の動揺が、この詩のような描写に成って居るのかもしれないと思いました。
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