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或る人
Nは一本目の指を折った 数えたのである 生まれて間もなく疾病におそわれ 黄土色の光の中で咳をしていた母を 若い下女のみずみずしい顔がしおれた日を 静かな乾いた部屋を思い出したのである Nは二本目の指を折った 知り合いの家族に引き取られた その理由の根底にある消えた一人の赤子を数えた Nは空いた穴の補修布に丁度よかったのである 一緒に遊んだ追憶が詰まったおもちゃ箱を渡されると 消えた赤子が抱いていた人形が顔を出していた Nは自分も代替であると知らずに その人形に日々哺乳瓶を当てていた Nは三本目の指を折った 食卓を囲んでいたときに通知が届いた 飲み歩いていた叔父がついに枯れ 裏通りで見つかった体をどうするかというのである 継父は顔をしかめ隣室へ出ていった 彼がとっさに置いたフォークが黄身に刺さり どんよりと皿に広がる橙色の液をNは見た 怒声が壁を介して伝わってきた Nは四本目と五本目の指を同時に折った 母には兄のほかに二人の姉がいたと知った 知ったときには既にいなかったが 記憶にとどめてしまうといつかは存在していたのである Nは昨日の雪がすっかり消えたことに気づいた がらんとした子供部屋の窓から 降雪でかすんで明滅する電灯を見張るのが好きであった 冬の名残さえなくなってしまうと幼少期から吐息をつくのである Nはもう片方の手に移り六本目の指を折った 青年期の春に恋人が溶けたのである 砲煙を見ないで世界は語れない という走り書きの紙片が唯一つテーブルに残されていた ペンダントがある日帰ってき 服も見つかりしだい送られた 付着している黒を嗅ぐと気だるい土壌の匂いがした 地の奥底に彼女の液化した体がしみわたっていく情景が まざまざと浮かんだのである Nは残った四本の指を口に咥えた 皮膚が張られた指骨も 舌に刺さった爪も固体であった たちまちもう四人が思い出された Nは彼らの葬儀に立ち合って棺の中を覗いたのである 母を熱心に介抱していたあの下女は 妊娠して数か月もせず食中毒を起こした 仕えていたあるじとの関係のせいである いつも寡黙な継父は 存分に暮らしているようであったが 部屋に籠もったきり出てこなかった 後に手記を見ると 彼が立ち上げた事業の不義と 惨憺たる苦心がぎっしりつづられていた 青春をともにした学校の親友は 飢えた番犬から逃げ回っている途中つまずいたのである 罪をかぶせられた同僚は あらゆる事情を謎に葬るための箱として使われたのである みな固く瞼を閉じていた 荒廃した肌から生えているまつ毛は高山植物のようで まだ成長していく気がし 揺れると山が息をしていると一瞬思わせるのである Nはむせんで四本の指を取り出した 唾液が指の間から幾筋の糸のように垂れ下がり 先端の雫が重力に負けると切り落とされ ソファーの皮革が汚れる 外の空は白みはじめている 暖炉の炎は弱まっている コップが床に置いてある 飲みかけのお茶が底できらめいている Nは父について考えた 父を見たことないが彼も消えたにちがいない しかしもう折る指がないのである 犬の遠吠えが普段よりも激しい 今晩は屈伏した人が多いのである 明かりが灯った部屋は見当たらない 誰も数えている暇などないのである 夜はひそかに減摩している 従順にしたがう者だけが生還するのである Nは自覚している 常に遁走の道を選んでいたことを その末行き着いたのである 誰の記憶にも存在しない幻影と成ったのである
或る人 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 761.0
お気に入り数: 0
投票数 : 3
ポイント数 : 0
作成日時 2023-12-02
コメント日時 2024-01-31
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
もしかしたらこれは自伝的な作品なのでしょうか。 全体的に重苦しい雰囲気ですが、身に降りかかった出来事を指折り数えてゆく構成に、不思議な迫力を感じました。特に、 「夜はひそかに減摩している 従順にしたがう者だけが生還するのである」 という表現が秀逸だと思います。 何故かフランクルの『夜と霧』を思い出しました。
1コメントありがとうございます。 自伝的ではないですが、戦争による不安定な情勢を想像して書いたのは確かです。 日本ではあまり知られていませんが、ソ連のロックシンガー、ヴィクトル・ツォイから影響を受けています。 「運命に好かれているのは他人の法律のもとで暮らす人だ」 という歌詞から着想を得て作りました。 あと意識したわけではないですが、結果としては映画ピンク・フロイド ザ・ウォール(やはり第二次世界大戦で父を失った少年が主人公である)に似た仕上がりになった気がします。
0星新一を思い出した。
1まずひとこと。すごい! 私には難しいことはわからない、詩から紐づくどんな史実も影響も垣間見ることができない、私は、知らないからな嘘もつけない。けれどこの詩からNというものが感じられる、生きていたのだと身につまされる。それほどの筆力を感じました。素晴らしく、巧い!
1「街とその不確かな壁」という小説のラストにもやもやとしたものを感じていたのですが、そこに結び付けて読むのは全くの個人的な読みではありますが、影の捉え方が素晴らしいなと思いました。 読む人によって見える景色が違うと思います。 筆致がとても鮮やかだと思いました。
1お読みいただきありがとうございます。 その長編は未読で詳しいことは分かりませんが、村上春樹さんの自己喪失の描き方は巧みで、見習いたい点はたくさんあります。
1エヌ氏の遊園地ですね。(星新一に関しては全くの素人なので題を聞いたことがあるぐらいです)
0ありがとうございます。 特定の史実が背景にあるということはないです。ムードは忠実に再現しようと努めました。(このムードと呼んでるものも特定の地域のものではないですが)
0指を折るたびに現れる、親族の情景、自分史。叔父や継父。棺を覗く行為。指を咥える行為。父には折る指がない。常に選んでいた遁走の道。「幻影」への道程がこの詩のプロセスで有り、結論であろうかと思いました。
1一行目から雄弁に、救おう、救おうという意志がビシバシ伝わってきます。 世界には、子供の頃から人を救おうとする人もいるんですが、 この詩は、自分と他をともに救おうという意識の下に書かれていると思います。 Nとか、かなり書き慣れていないとできないような表現もあり、円熟を極め、さらに上へと 向かおうとされているように感じます。
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