彼が喫茶店で炭酸の抜けたジンジャーエールを飲んでいるとき、わたしは自分の恋心を知る。五年前、従兄と来た喫茶店で彼に出会う。そのときわたしは十九歳。夏歩、というのがわたしの名。名前というのは不思議だ。なぜかっていうと、わたしは冬に生まれた。冬。あなたの長い睫毛に雪が降り積もる…。
起床してからすぐ、サプリメントを一気に飲み込む。人の喉は小さくない。窓の外は、一面真っ白になっていた。
「雪だ」
マフラーをつけて歩く。
どうして寒さというのはこんなにも身にしみる。かじかんだ手がすこし赤い。赤く震えているこの手を、わたしだけは抱きしめてやろう、と思う。心さえしんしんとして、わたしは歩いている。ビルで敷き詰められたこの街でわたしだけが不自然に見えた。ビルの上の巨大広告が街に彩りを与え、歩みをすすめるたび踏んだ雪の感触がブーツの底にかすかに残った。その感触は、幼いころの自分を思い出させる。そのころのわたしは派手な桃色のニット帽をかぶって、長靴で走り回っていた。手袋には、いつも毛糸のポンポンがついていた。そのポンポンがわたしは気に入っていて、それを揺らせばすべてうまくいったような気になった。藤原道長みたいに、わたしの月は欠けていなかったと言えるくらいに。
ビルの二階にある職場に着くと、いつもと同じ顔ぶれがそろっている。五人きりの仕事場。マフラーをハンガーにかけていると、牧野さんが、それ、すてきね、と言った。
「大学生のとき、人がくれたんです」
物持ちがいいと牧野さんは笑った。
「物持ちがいいっていうのはあんまり言われないけど」
「そうなの?」
「はい」
「じゃ、どうして持ってるの?」
わたしはにっこりして言った。
「とにかく気に入ってるんです」
マフラーをくれた彼に他意はなかった。わたしに気がなかった。だからわたしは彼のことがすきだった。つまり、ヒトの感情は複雑だということ。
◎羊を放牧したい
そういえば、人間の感情は複雑であるからこそ美しいのだと、大学生のとき、同じ学科の男の子が言っていた。わたしは、彼のことが心底嫌いだった。いま思えば、ひどいことを言った。彼に悪いことをしたなあと今になって思うけど、彼に謝ろうと思うほどひどくもない気がする。本当のところでは、彼もわたしも同じだったから。
「これ、くれるんですか」
「うん」
「どうして?」
「彼女と別れちゃったから」
「そうですか」
「うん」
「でも意外にきみにも合うと思う」
「どういうところが?」
「色が淡いところが」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
そんなやりとりだったはずだ。そのマフラー。会社のハンガーにかかっている。
最近は淡色系という分野があるらしく、自分のデスクや部屋を淡い色のもので埋め尽くす人もいるらしい。そういうのに憧れる人の気持ちも分かるけれど、それを気にしていたら、ずいぶんと大変そうだと思った。だけどわたしのペンケースはうすい桃色。その桃色がわたしをどこかへ連れて行ってくれる気がするから。
あ
桃園のなかを軽トラで走りたいな。でも教習所で補習を何個もやったわたしが走るのだから、桃の木が押し倒されてしまうかもしれない。
「彼女とどうして別れちゃったんですか」
「彼女のことは好きだったけど」
「けど?」
「なぜかいっしょに墓には入れないと思った」
「冗談ですか」
「本気」
「それはつまり結婚できないってこと?」
「いや、そうでもない」
「それなら、もうわたしは分かりません。墓に入ることがそんなに重要なんですか」
「そうでもないな」
「そうでもないんですか」
わたしはあきれたふりをした。彼の言いたいことがさっぱり分からなかった。
「きみは、どんな墓に入りたいの」
「唐突ですね」
「そうでもない」
「わたし、墓には入りたくないです。息苦しそう。」
「じゃあどうするの?」
「散骨がいい」
「散骨?」
「海に」
「ふーん」
「最期は海で」
「ロマンチストだねえ」
「そうかもしれないですね」
先輩のくちびるがふるえていたから、わたしはそれを見ていた。寒いのかもしれない、と思った。あれたくちびるは、色っぽい気がした。なつかしい。あのとき、大学図書館の前のベンチに座っていた。
最期は海だなんて、なにも知らないくせに、
あれほどあいまいだったものが、言葉を持って途端にチープになる。
「栗山さん、昨日言ったレイアウト変更してくれたんだっけ?」
「はい」
「部長の机にあるんだよね?」
「はい」
「あと、コーヒー淹れてくれない?濃いめで」
「分かりました」
なつかしさは、いちばんの感情だと思う。なにをするにしても、なつかしいという感情は大切のような気がする。気がする、だけ。コーヒーがぽとぽとと間抜けな音をたてて注がれる。カップにきれいな泥のようなものがある。なんだこれは、とふと思う。
いつからか、わたしは断定の言葉を避けている。責任逃れか、自己否定か、なにかのせいで。それはおそらく十代後半くらいからで、父と母はわたしをトーダイに行かせたかったらしい。それは結果的には不可能だった。なにかを続けることもなかったし、いろいろなことをするには、わたしには時間がなさすぎた。例えばだれかに優しくするとか、そういう小さなことでさえ余裕がなかった。結局は私立大学へ入学した。両親はそんなわたしに声をかけたが、わたしは答えなかった。
“これくらいのことで、僕はしあわせな人間として死ぬんだ”
なにかの舞台の台詞を思い出した。これくらいのことで。わたしにぴったりな言葉だ。これくらいのことで、わたしはしあわせな人間として死ぬんだ。そうならいい。ドラマチックで、すごくいい。
意味のないことを考えるのをやめると、いろいろなことが見えてくる。誰かが電話をとっていることとか、その電話の内容がどうやらよくないようだとか、社長が仕事中に転寝をしているとか、わたしのデスクはすっきりしているようで物が多いとか、そういうこと。
あっ、社長が起きた。おはよう。
作品データ
コメント数 : 8
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お気に入り数: 1
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作成日時 2023-11-10
コメント日時 2023-12-01
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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2024/11/23 19時04分42秒現在
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とても好きな作品でした。「歌(国と波と虫 MIX)」 、「明日、君がいない」、のように文章がとても滑らかに進んで行きながら、-あなたの長い睫毛に雪が降り積もる…。-、-人の喉は小さくない。窓の外は、一面真っ白になっていた。-、-手袋には、いつも毛糸のポンポンがついていた。そのポンポンがわたしは気に入っていて、それを揺らせばすべてうまくいったような気になった。-、-つまり、ヒトの感情は複雑だということ。-、-その桃色がわたしをどこかへ連れて行ってくれる気がするから。-など段落を締める言葉の選択が作為的ないやらしさを感じさせないように配慮されていて、非常に巧みだと思いました。夢から覚めるような終わらせ方もすごく良かったです。おはようございます、じゃないところとか。内容はもちろんのこと、言葉の組み立て方、表現の方法、書くべきこと省くこと、そのバランスの取り方など、参考になる要素がたくさん詰まった作品でした。何より、面白かったです。
0「桃園のなかを軽トラで走りたいな。」が特に良かったです。イタリアでもフィレンツェかどこかの街で軽トラ(たぶんハイゼット)見ましたよ。
0かなり時間をかけて書かれたものなのではないかなあと感じました。 最後に一気にまとめにかかったような印象です。 何か伝えたい大きな心象風景があればこれは小説になるなあと思いました。 何より使われる言葉が好ましく、ほとんど最後まで邪魔されず読み切れました。
0好きな作品だと言ってもらえるのがいちばんうれしいです。ありがとうございます。自分なりに雰囲気のある作品を作りたい!と思って書いたものだったので、それが伝わったのだと前向きな解釈をしておきます。参考になるというのはもったいないお言葉ですが、ありがたく受け取ります。コメントありがとうございました。
1桃園のなかを軽トラで走りたいというのは、個人的なわたし自身の願望です。なんか、いいなあと思います。でも、実際にしたらなんか思ってたほどじゃなかった…、ってなる気がするのでイタリアに行くのは遠慮しておきます。ご丁寧に情報をくださったのに、すみません。コメントありがとうございました。
0仕事の合間に書いたので、どれくらいかかったのかは分からないのですが、結構な時間寝かせていたのは確かです。実はもともと小説を書くつもりで書いていました。その片鱗がまだすこしあります(特に最初のほう)。最後、強引でしたね。自分でも見返して思います笑。でも、とりあえず最善をつくしました。使われる言葉が好ましいと言ってもらえてうれしいです。自分が嫌な表現はしたくないと思って一応は書いています。不十分なところはまだありますが、そう言っていただけただけで、救いになります。コメントありがとうございました。
1私も青春時代を思い出しました。スマホのない時代。冬の夜は時間が穏やかに流れていた。
0スマホって便利だけど、なんかいやらしいですよね。わたしの青春時代にはもうスマホが普及していたので、あれですけど、昔を思い返すといい時代だったなあと思います。
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