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たけだたもつ『明滅』半反解釈
考えたら不平不満の訴えをなぜ「文句」と言い習わすのだろう。文句はたしかにお言葉だ、たしかに言葉に違いないじゃないか。 「お言葉ですが、と言った男 確かに言葉に違いない」 (作品冒頭) 不平不満の訴えを「文句」と呼び、相手に不平不満を訴えさせる訴えを「お言葉」と呼ぶ。そのような象徴的な実態には、不平不満くらいしか訴えるべきことがないという内情を詮索したくなるが、本稿の趣旨は解釈ではない。 「うまく喋る 来年の言葉も昨年のように喋る 言葉は耳で聞くものではなく目で見るもの 肉体だからね、目で見る」 (3-6行) 「喋」ると言「葉」に共通する旁「枼」は、「うすいきふだ」の訓の通り、薄いもの(葉、蝶、鰈など)や字をしるす札、それによる通信(喋、通牒、間諜など)を表す。すなわち「喋」の字においては、エクリチュールがパロールに先だっている、耳で聞くまえに目で見ているのだ。さすが漢語は、フランス語とは語れる世界が違う。 「 山下君、山下君だったね はい、山下です、お言葉ですが 細い首にネクタイが結ばれて歪んでいる 肉でも体でもないのに 自分自身であるかのように直す 山下君は街を歩く肉体のひとつ」 (7-12行) 漢語圏ずまいの山下君はきっと、文字(エクリチュール)通りの実存でありたい。たとえばホワイトカラーという概念はネクタイなしに表現しえない、ホワイトカラーと名のりながら襟だけでは成立できない、実存は本質に先だつ(サルトル)のだ。その肉体を山下君と定義するそのネクタイ、いかにも魂の名にふさわしい実存であるようにも思われ、やはり単なる構造にすぎないようにも思われるが、本稿の趣旨はどうとでも言えすぎてなんの説明にもならない解釈ではない。表題の通り『反解釈』だ。 「たしかに実際には、あらゆる様式の譬喩は、題材を内部に、様式(スタイル)を外部におくことに帰着するようだ。だが、それならこの譬喩をひっくりかえして、題材や主題が外部に、様式が内部にあるという方がもっと的を射ているだろう。コクトーは書いている。「装飾的様式などというものは存在したことがない。様式は魂である。そしてあいにくわれわれの場合、魂は肉体の形を取っているのだ」たとえ様式をわれわれが外に表われる表われ方だと定義したとしても、必ずしもわれわれがとる様式とわれわれの<真の>存在との間に対立が起こるとは限らない。事実そんな問題はきわめて稀だ。ほとんどどんな場合でもわれわれの外観はわれわれの存在のしかたであるといっていい。つまり仮面は顔なのだ。」 (スーザン・ソンタグ著/高橋康也ほか訳『反解釈』竹内書店 pp28-29) * さてこの詩『明滅』は、上記のお言葉ですが男「山下君」(7行)を凝視している。詩によれば山下君は「街を歩く肉体のひとつ」(11行)、いっぽう言葉も肉体(5-6行)であってネクタイでない。 では山下君の「肉でも体でもないのに/自分自身であるかのよう」(9-10行)なネクタイは、肉体でないがゆえに「明滅する魂たち」(24行)のひとつであるといえるのか。仮にそうなのだとしたら、山下君と同じ肉体である言葉は、その魂をどこにどう結び歪ませているのだ? 言葉を目で見る肉体とみなす定義は、ヨハネ福音書冒頭のようでもあり、エクリチュールやディスクールやディセミナシオンのようでもあるが、本稿はそうした構造主義的な読解を自粛する。構造すなわち本質への拘泥は、それに先だつ実存を見失わせ、「明滅する魂たちの遊び」(24行)をすべて夜にする(26行)に違いないからだ。 「明滅する魂たちの遊び おそらく魂は肉体に甘え過ぎでしまった すべては夜になる 親戚のように世界は寡黙になり 山下君の夜のお言葉だけが続く」 (作品末尾) はてこの場面で「明滅する魂たち」は、具体的にどうなっているのだろう。魂が消灯したので夜になったのか、逆に夜になったから魂が点灯しているのか。そもそもこの文脈で、魂と夜に因果関係を見いだすことは妥当なのか? 詩句が多義的にすぎ、解釈がまさに明滅する。どれか点けばほかのは消える、そのうえどの解釈にも、採るに足るほどの根拠がない。あらゆる解釈が最終的に無意味だ(その無意味にこそ意義を見いだすのがディセミナシオンだが、本稿では自粛する)、わたしはこの詩の実存がわたしの構造に先だつことを認める。たとえば。 「街には縦に川が流れ 丹念に探せば階段もある 生きているものしか上り下りできないから 山下君、今日は どれだけ上り下りしてきたのだろう 階段ですね、お言葉ですが」 (作品13-18行) ここで「街に川が縦に流れる」という客観性のない物言いや、「丹念に探さなければ階段の見つからない街」という立体感の希薄な設定に引っかかり、「この詩は二次元の創作なのに違いない」といった安易な解釈に流されると痛い目をみる。よくよく考えねば。 詩はここで、量(どれだけ)を質問されているのに手段(階段)を回答してしまう山下君の、話の通じなさを説いているのだ。山下君の回答の脈絡はこう、 「(川ではなくて)階段ですね、お言葉ですが(川ではありません)」 そうだ階段だけでなく、川も上り下りするものだ、これを強調するために詩は川を「縦」と呼んでいる。しからばこの「縦」は、南北を指すとは限らない。階段のそれと同じように天地を指すと捉えるほうが、話の流れとしてはむしろ自然で、二次元どころの話ではない。 天地を昇降する川といえば、思いつくのはまず水の循環。この解釈は「生きているものしか上り下りできない」(15行)と矛盾するから、三途の川のような死生の輪廻を示唆するかもしれない。もっともこの解釈も、生者限定の設定に矛盾するのかもしれない。わたしは死ぬことも生まれることも、生きているものにしかできない特権だと、いまのところ考えているが、この解釈に根拠はないのでいつかは覆すかもしれない。これが「明滅する魂たちの遊び」(24行)いまのこの断言とてもそのひとつ。あえて遊びを続けてみる。 「言葉は耳で聞くものではなく目で見るもの 肉体だからね、目で見る 山下君、山下君だったね はい、山下です、お言葉ですが 細い首にネクタイが結ばれて歪んでいる 肉でも体でもないのに 自分自身であるかのように直す 山下君は街を歩く肉体のひとつ」 (作品5-12行) 「明滅する魂たちの遊び おそらく魂は肉体に甘え過ぎでしまった すべては夜になる 親戚のように世界は寡黙になり 山下君の夜のお言葉だけが続く」 (作品末尾) 「肉でも体でもないのに/自分自身であるかのよう」なネクタイを「明滅する魂たち」のひとつと仮定すると、題名『明滅』の実態を「着脱」と解釈しうる。しからば「すべては夜になる」を、「夜になったので山下君が帰宅しネクタイを外した」と解釈しうる。この解釈のうえでは、詩の世界と山下君の主客が顛倒する。 すると「親戚のように世界は寡黙になり/山下君の夜のお言葉だけが続く」この世界も山下君との主客顚倒であって、単に帰宅した山下君の自宅での様子が描かれていると解釈しうる。その情景は、けっこうな地獄絵図だ。なにせ山下君はお言葉ですが男、おそらく万事に否定からしか入らないのだから、そりゃ家人も話され疲れて「親戚のように寡黙に」なりもするだろう。 山下君が一人暮らしであり、お言葉が一人芝居である場合、「親戚のような寡黙」はなお地獄絵図だ。この修辞はすばらしい、親戚のように寡黙な世界を世間と家人のどちらと取るかで、示唆がみごと相反する両義性。当然、そのみごとな両義は、両立せず明滅する。長い前置きがようやくすんだ、満を持して反解釈する。 「愛は一人で支えるもの 誰もが一度はそう思う 明滅する魂たちの遊び」 (22-24行) 同じ「愛」でもキリスト教のと仏教のとでは両立できず、「自愛」にある幾多の趣旨も統合しかねる。「明らめる」と「諦める」はまったく同じ原理であり、「滅」の字には「火を消す」の意しか書かれていない。どうか世界が明滅し続け、決定不可能であり続けますように。
たけだたもつ『明滅』半反解釈 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 853.2
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投票数 : 1
作成日時 2023-07-03
コメント日時 2023-07-06
循環しているのに何処にも行けない それは構造というより規制によってと言うか。 この推薦文を読んだ時に頭をよぎったのは一条さんのスロープタウンだったな、文章は確かに、たけだたもつさんの明滅について書かれているのに 頭に浮かんだのは一条さんの詩だったので脳が混乱したな 明滅とスロープタウンに似た構造が存在するのかもしれない ちょっと自分で書いていて理解が及ばないが書く事で何か他の方のアクションがある可能性があるかもしれないので記しておきます 四皇 上位
1清き一票ありがとうございます。文極推し活大歓迎です。 >この推薦文を読んだ時に頭をよぎったのは一条さんのスロープタウンだったな そのご感想は想定外でしたが、すこぶる的確ですね。そうつまりこのヒヒョーは、どこからどう見たって与太話です。与太話がさまになったら詩評は一人前とつねづね考えているものの、一条さんの水準には、四皇上位では足元にも及びません。 ●趣味の文極推し活 2011年のミラクルな年間最優秀作品賞受賞作3作 ・一条さん「スロープタウン」 http://bungoku.jp/monthly/?name=%88%ea%8f%f0#a55 ・田中宏輔さん「The Wasteless Land.」 http://bungoku.jp/monthly/?name=%93c%92%86%8dG%95%e3#a20 ・泉ムジさん「青空のある朝に」 http://bungoku.jp/monthly/?name=%90%f2%83%80%83W#a18 ●拙文「文学極道年間各賞全15回 受賞者・選評等一覧」読んでね。 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-61.html
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