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誰もが幸福してる
幸福幸福幸福 世は幸福 貴様も幸福 あ、お前も幸福 あなた様はもちろん幸福 不和も幸福 味噌も珈琲も加害者も幸福 幸福幸福幸福幸福幸福幸福幸福幸福こうふく、こう、服、と一言に言っても色々あるけどアクリルセーター、の袖に腕を通すときに先がくしゅくしゅとしてしまっていて、んだよこれやだなぁ、と思いながらすごく力を入れて腕を伸ばしながらそのくしゅくしゅを解こうとする。 と、繊維のどっかがぶちんっ、と、加わるパワーや圧力、などへの抵抗という力、よりもその加わるパワーや圧力がそれを圧倒し、抵抗が、その加わるパワーや圧力に耐えられなくなった音がし、嘘っ、と思っても遅き。 視認はできないけれどもどこかが崩壊したのだな、とゆーことを音で判断し、どうするかと考える必要もなく一度抜けばいい。だけれども抜いた所で、崩壊、抵抗が加わるパワーに圧倒された事実に変化はなく、それならばわざわざ一度抜くなんて手間なこと面倒なことチョベリバなことをせずもう既に敗北しているのだから敗北のままぶち抜いてやれば良いのではないか? ならばと全力で腕を伸ばし、くしゅくしゅに当ったところで更に力を入れるとブチンチンチンッ!と怒り狂うような音がしてくしゅくしゅが解かれ、しまってしまった、と気がついた。 なぜでしょう? うんなぜならさぁ起こった抵抗の敗北が結果だと思っていたのだけどそれは全然余裕で間違いであり、敗北は瞬間の事象でそれをくよくよするのは勝手だけどそれ自体はやっぱり一瞬。負けました、で終わり。なのに、だ。敗北したからいいじゃん、と敗北に永続性があるものだと思ったものだから、全力で手を伸ばしたのだけど、これは終わった敗北に手を突っ込んだ形になり、どこか、まーいいやと吹っ切れたと思っていたけどそうではなく要するにくよくよしていたのだ、から、くしゅくしゅはなぜか解かれてはいたが、手は本来出てくるであろう場所、袖の終わりというか切れ目、でなく、袖の筒の中途から突然に飛び出ている状態になっている。強引な事だ罪悪だと非難されそうだがこういう強引な力で出た世界には打ち捨てられた子供、油が溜まった出前皿の山積み、使い済みの歯ブラシをリボンで連ねた意味不明な物などが散乱する幹線道路の上に虹色のアーチな歩道橋があり僕はそのままの姿でアーチの上を歩き足を止めなんとなく天を仰ぎ広大と言っても僕でしかない範囲の青へ吸収されながらととにかく仕方ないものなぁになって幸福が幸福しつつ幸福を幸福しながら幸福し
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作品データ
P V 数 : 955.8
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-12-22
コメント日時 2017-12-27
項目 | 全期間(2024/12/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
投稿ありがとうございます。これは、幸福感を持っている方だから書ける作品なように思いました。そもそもの幸福感とは何か?まあいいやと、諦めることなんだと。これは私、けっこう共感する思想です。なんといいますか、バブル世代はこの思想がけっこうあるんですよね。
0幸福幸福幸福・・・こうふくこうふくこうふく・・・繰り返すうちに現れるのは、降伏、降服、なのか・・・ 最近では、口福、なんて造語もありますね。 書き続ける「こうふく」は、果たして幸福、なのか、降服、なのか・・・ 〈油が溜まった出前皿の山積み、使い済みの歯ブラシをリボンで連ねた意味不明な物などが散乱する幹線道路の上に虹色のアーチな歩道橋があり〉 私たちが歩く世界。夢の懸け橋が、都市の上にかかり・・・ 打ち捨てられた子供、それは私たちであるのかもしれない。神々に打ち捨てられた子供、として。 〈僕でしかない範囲の青〉その青に吸い込まれていく「幸福/降服」。
0「こちら、幸福安心委員会です」という曲が五年くらい前にネットに上がって、「幸福なのは義務なんです」みたいなフレーズがサビに来るんですが、なんであんなにはやったのかよく分からんのですけど、僕も何回か下らんと思いながら聞いていました。 結局の所「幸福」とは何か、どうやったら幸せになれるのか、というのは中々難しい話だとは思います。つまり、絶対的な幸福と、相対的な幸福が存在すると仮定したとき(それは内的、外的としてもいいと思いますが)絶対的な物は内側にあるわけですから、それを追求していけばいい。例えばこの人と一緒にいれるだけで幸せだ。自分の好きな事を死ぬまでやり続ける事が出来るとか。問題なのはそういう物のない相対的な幸福であって、誰かと自分を比べた時に、自分が幸せであるという事に対して申し訳なくなってくるみたいな感じかなぁと思いました。でも。最終的には幸せの重さを比べる事も出来ないし、自分が今生きている境遇の中で、今の自分に押しつけられた幸福/降「服」を享受してやっていくしかない。でもモヤモヤは残るみたいな感じかなぁと思いました。
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