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書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》
【】 私が触れているこの場所、それが東京の住宅街の一角にある草の生えた空き地なのか、絨毛の生えた腸の襞なのか、それともただ単に一枚の毛布なのか、あるいはサウンド・オブ・ミュージックのラストシーンに出てくるような大高原なのかは、読者に委ねることにしよう。自由に想像を広げて欲しい。そのように書くことによって想像力を逆に妨げることは承知の上で言っている。わずか三千字しか書けないこの制約された状況においては、いわゆる「きちんとした文章」を書くことは難しいからだ。例えばジャッキー・チェンがジャケットを脱ぎ着することを少年に教えたようにはいかず、私もいわゆる通常の比喩の着脱がいかにして可能であるかをここに証明することさえできないであろうからだ。それが果たしてこの断章の強みになるのだろうか? 想像力と論理が矛盾を引き起こし、破綻を繰り返すようになるところまで、想像力の翼を広げてみよう。すると論理に生じた亀裂から、鏑矢となって飛んでくるものがある(想像力の中では、こうしたことも自由である)。ここで私が取り上げるのは、次の一節、那須与一が射抜こうとする場所を指し示す箇所である。 「過たず扇の要際一寸ばかりにおいて、」 過たず扇の要際一寸ばかりにおいて、那須与一がひいふつと射抜こうとするのは、果たして何であろうか。そして、何よりこの世界を、あるいはこの世界と名のつくものを、私(彼は一夫多妻制だ)が見ているのか、あるいは一匹の狼が(彼は一夫一妻制だ)、この光景として見ているのか、それともアミメハギ(乱婚型)の視界の中なのか、それは未だ判然としないが、次第にわかっていくことだろう。 さて、私が壁掛け時計を見たとき、カタツムリの角のように動く短針と長針とが、12時5分を指しているせいで、父が時間を間違えてランチを運んできた。チョコスプレーを吹きかけたようなテーブルの上のランチョンマットの上で、山脈のようにぱっくりと割れた肉饅が湯気を吹いている。それが死火山になるまでじっと待ち続けたが、それでもなお12時5分を指しているので、時計を外し、叩き割ると、殻が割れ、黄色い血がだらりと垂れ、胃下垂のように宙ぶらりんになった後、落下して花を生けたままのピンクの花瓶のように炸裂した。途端、死火山になったはずの肉饅から真っ赤な肉がこぼれた。 それが、五年前のカナダの中華料理店での出来事だったとは、とても信じられない。父はそのことを書き記していて、それが上の文章なのだ。父はかつて、私にこう言った。「完璧な文章といったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」父がその文章から始まる小説を書いていたことを知ったのは随分後になってからだった。父は小説家ではなかったが、死後発見されたカクヨムに投稿されていた父の小説には沢山の感想と批評が寄せられていた。父はいわゆる「売らない物書き」だったのだ。確かに完璧な絶望は存在しない。ある程度の承認欲求なら、コンピューターを使えば満たせるようになった。 私が触れていたのは、スマートフォンの画面だったのだが、そんなことは今更どうでもいいことだろう。だから、私は小説を書かない。詩も書かない。日記のような堆積にはなっていくだろう。ただそれだけだ。 【年末の魔物】 年末には魔物がやってくる。「あながち間違いじゃない、とあなたは思うだろう。しかし、違うのだ。間違いなのだ。あなたが聞いているのは、目の錯覚だ。あなたが見ているのは、耳の錯覚だ。死の奔流、というタイトルの詩が書かれ始める。ウィルキンソンのジンジャエールを飲みながら、僕は仕事を始める。パタパタとタイプし続ける。仕事の中身が、これであると気づく前に、旅立たなくてはならない。死の苦しみ、およそあらゆる死の苦しみこそが、作品になり得るもののすべてであって、……違うんだ。これはソレイユによって理論化されているんだ。いや、違うんだ。ここに書かれていることのすべてが、みな無謀な試みでしかないと、僕は物言うビスケットに倣っていうだろう。」……それは、皿に置かれていて、死体のように安置されている。物語は、ようやく佳境を迎え、すべての人に感謝の気持ちを持って、示すために、あらゆる言葉が震え始め、篩にかけられたように、落ち始める、零落する、あるいは、もしくは、マウロンのように死ぬ、そんなことがここには書かれているのか、それとも、書かれていないのか、あるいは、書かれていたとしても日本語なのか、英語なのか、フランス語なのかロシア語なのか中国語なのか判別がつかず、多分あらゆるC言語によって書かれているということが言えるようになるまで、もう数百年の時がかかるだろう。あるいは、ひょっとして最初から死ぬ予定だったのかもしれない。「僕は、零落した、零落する、零落しよう、零落すべき、零落すべし。この一連の文章で始まる文学は、奇妙な怪異を催す、催涙剤のように、多分機会があれば、奇怪ですよと言ってみる、果たしてこれは小説なのか、それとも語り物でさえないのか、ベキッと折れた織物のように、いや織物がそんな風に折れるわけがないと突っ込まれるだろうか、あるいはまた、怪異として片付けられるだろうか、もしくは、この雑文のようなものを、必死で芸術に仕立て上げようとする奇怪な勢力と戦うことになるのか、あるいはまた、僕は国にいるのか、それともその外側にいるのか、教えてくれ、そよ風」「そよ風として答えます。あなたは、今間違いなくドストエフスキアンです。ゲーテが書いたのはファンタスチカです。何故ならゲーテは科学者だったからです。あるいはまた、朗読すべきはそういった物語なのかもしれません。私は読み終わる前に死にます。私は読み始める前に気絶します。私はこの文章を死ぬまでに読むべき物語としては提示しません。」ということを言われたんだが君はどう思うか、と聞かれたので何も答えなかった、答える余裕がなかった。読み始めたら嘘八百を書き並べていることがわかるので、読まれない本があるかと思えば、逆に嘘だとわかっているからこそのものもある。 【僕は生まれてもいない子どもの名前を考える】 抱擁が、 ぱっくり破れる、 溢れ出す緑茶、 のイメジとともに、 噴霧されるリモネン、 ああ ああ ああ 美しいタイポグラフィーを見て! 発狂した烏の群れたちに 映るのは鏡、 そして時希(ときまれ)、 時という字を、 名前に入れようか、 希という字を、 名前に入れようか、 あるいは、オトカ、 という名前にしようか、 ないしはキタキ、 僕は名前を考えることをする、 そして、マイまで来たところで、 考えることをやめる、 森にも、海にも、 音はなく、 静めるのは、和歌山、 岡の上から、大の字になり、 ふふ、っと笑う、 自爆せよ、時の鼓動、 洞房結節の疼痛で。
書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1037.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-12-16
コメント日時 2017-12-26
項目 | 全期間(2024/12/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
面白くもなく、つまらなくもない文章だ。これは別にけなしている訳ではなく、僕は面白すぎる文章や考えなくてはいけない文章が多すぎると、疲れて読めなくなってしまう感じなのですが(例えば石牟礼道子の文章は重すぎて、今いやいや読んでいるドフトエフスキーの罪と罰は軽すぎる)そういう感じがありませんでした。ちゃんとした文章というよりは読み進めるのにほどよい速度の文章だと思いました。普段飛躍している所の隙間もだからジャンプしやすいしカーブしやすい感じです。 中身については、「日記のような堆積にはなっていくだろう。ただそれだけだ。」という感じで、内容よりはスタイルの方に目が向いてしまいました。もう一回読む機会があれば踏み込んだ読解をしたいと思います。
0私にはこの文章を読んでそこから何かを読み取るって深く考えるほどの教養もなければ読解力もないしそれをしたいとも思わない。そういう意味で私にとってはただの駄文だ。とても心地のよい読む歓びに満ちた最高の駄文だ。しかもどこか既視感があるゆえに生じる匿名性のようなもの。つまりこれは落書きである。めちゃくちゃ文章力のある最高の落書きである。ときにはこんな文章ばかりをひたすら読んで一日を過ごしてみたいものだ。
0皆さん、お読みくださりありがとう。 百均さんへ 文章の軽さについては、カルヴィーノが文章の軽さについてのエッセイを残していますね。たしか、『カルヴィーノの文学講義』の中にあった気がします。ほんとはこの作品、小説に仕立ててしまおうかと思ったのですが、ただ無性に詩にしたくなったのでこんな感じになりました。わたしにはドストエフスキーが(とりわけカラマーゾフの兄弟が)重く感じ、カルヴィーノが軽く感じるので、人によって軽さ重さは違うかもしれません。 花緒さんへ 恥ずかしながらヌヴォー・ロマンには詳しくないのでどの系統かはわかりかねますが(ロブ・グリエやビョートルあたりは読んだことがあった気が)、ヌヴォー・ロマンでいうなら、多分あまりヌヴォー・ロマンとしては評されないル・クレジオあたりは、間違いなく影響下にあると思います。『愛する大地』がすんごい。というか、ル・クレジオみたいな大作家になると、これはwikiの引用ですがたしか辞書を暗記しようとして挫折して英語で書くのを諦めたとか言ってたので、そういう意味ではお気付きの通り『風の歌を聴け』の作者を父親化するということにあった最初の主眼は、だんだん虚構の淡いへと消え失せて最後に名前を考えるところで語り手が父親になることで復活している、と見るのがいいのかもしれません。あ、自分で批評しちまった。笑 survofさんへ めちゃくちゃ文章力のある最高の駄文、これほどの褒め言葉は無いと思います。こんなものを読んで1日を過ごすよりかは、もっと面白い小説や映画を楽しんでいる方がいいと思いますが。
0この雑文のようなものを、必死で芸術に仕立て上げようとする奇怪な勢力と戦うことになるのか という問いかけに、果たして、この・・・書くために無理やり書いている、というような質感を持った文章が、闘い得ているのか、どうか・・・私は、この「作品」を「芸術」とは呼ばない、ですね。だから、「仕立て上げようとする奇怪な」批評めいたものも、書きたい、書かねばならない、とは思わない。思わないけれども・・・〈チョコスプレーを吹きかけたようなテーブルの~〉あたりには、比喩を用いれば即ち駄文が詩作品となるのか?という問いかけがあって、面白い。 書を棄てよ、を、書が好きよ、に書き換えた意味は、どこにあるのか、など含めて、批評性がある、とは思うのですが、さて・・・。
0ツイッター投稿有効、というのをポチってみたら、なるほど、Twitter名で表示されるのですね。というか・・・まりもアカの方と、連携出来ないのかな・・・いったん、まりも、の方に戻します(これでいいのか?テスト。)
0ログアウトしなおしてみても、まりも、に戻らないですね・・・
0作りが作りだけに驚きはしない。しかしエッセイとして読めば上記の散文詩はよく書かれていますね。思考的な変化があり内容にも濃度を感じる。立派なものです。さすがだ。流動体について。小沢健二が曲に難しい歌詞を付けて歌ってましたが、可笑しいですね。詩書きなんかにはおもしろいとは思うんだけど、あれじゃ普通に歌われないよね。でね、このエッセイ文を読みながら音がながれてきたらどうだろうかとも思ったのね。リズミカルな音がいろいろと変化を繰り返しながら。耳のアレンジに読み取る感覚の刺激がまた変わるかも知れない。それよりも下記に書かれている詩が秀逸だね。いまにもバラバラに動き出しそうな言葉たち。壊れた時限爆弾になぜか刹那が被さってくるよ。
0お読みくださり、ありがとうございます。 まりも様 投稿するからにはもちろん、モチベーションは高く持っているわけですが、満場一致で認められるというのは、なかなかないようで。これからも精進します。 アラメルモ様 音楽と文学は別物なんですが、別物だからこそ融合がありうる、フュージョンするんだと思います。
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