スプーン一杯分の孤独を 掬って
闇に溶かす
朝の光と一緒に 香りが
身体に浸透する
私はムルソーに倣ってミルクも入れる
死んだ人間は、
ゆっくりと《モノ》になっていく
《いる》から《ある》への移行
その過程は、
コーヒーが冷めるのに似ている
――それにしてもおかしな行事である
主役が不在だなんて
担任と親と校長だけの三者面談みたいだ
「お子さんのことですが、
あ、どうか 楽
に、なさってください」
と、まで考えて私は思い出し笑いを溢す
もちろん、アルカイック・スマイルで
生は死に内包されていて
死は生に内包されている
感覚は思考そのものだ
丹念に紡がれた糸の上で
有機的に作用する時間
その中で 嗅覚だけが正確らしい
みんなが闇を着込んで
葬式をあげた日
私は知った
タバコとは違う 煙の香り
湯気のように 柔らかな
人間の香り
作品データ
コメント数 : 9
P V 数 : 1546.6
お気に入り数: 0
投票数 : 3
ポイント数 : 8
作成日時 2022-01-14
コメント日時 2022-01-25
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 3 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 4 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 0 |
総合ポイント | 8 | 4 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 1.5 | 1.5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0.5 | 0.5 |
総合 | 4 | 4 |
閲覧指数:1546.6
2024/11/21 19時33分43秒現在
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私の詩をお読みいただき、ありがとうございます。
0大変うれしいお言葉をありがとうございます。中高生の時代の三者面談の違和感と葬式の時に感じた違和感の奇妙な結びつきがこの詩のそもそもの発生源でした。
1死への移行をコーヒーが冷める過程が似ているなんて考えたことなかったです。素晴らしいです
1拝読しました。分かりやすい表現を使っていて、「読まれる」ことを非常に意識されているのだと思います。それがすごくムカつきました。例えば、 >その過程は、 >コーヒーが冷めるのに似ている この直喩そのものは嫌いです。嫌い以前に全然納得できませんでした。まあ、ここで強調されているのは改行なのでしょう。人の死体を前にして、その感じの受け止め切れなさのようなものは、あえて安易な予定調和をすること、その前にためらいを入れることで一応は表現されているのだと思いました。それでも結局は直喩をして突き放した態度を取っています。こうした冷笑的な態度は、 >と、まで考えて私は思い出し笑いを溢す という場所にも一貫して表れていて、それが、作りものじみていて違和感がありました。 ムルソーって分からなくて調べたんですが、『異邦人』の主人公のようですね。読んだことがなくて分からなかったです。 一貫して嗅覚に訴える表現が使われているのは、逆に視覚が軽視されているというか、もやもやした感じがして、そこは効果が出ていると思いました。
1いる、いてくれてるというのが、現実でない時でも、現実が終わらないのは、 人間には肉体の厚みと間合いが有って、 判断を超えるからです。 「対話」によって、その客観性を確認するときに生まれたての幼い主観、主体を育てるしかなく、 その間、 考えもしない驚きの思考や、主体とはなにか?等の問いかけを思い、上記の行為から「大切にする」何かだと分かるのです。たとえモノになる主体とは、一段死を抱えることとして、男に立ち向かう裸の女、の客観性。さらに、その道程に襲い掛かるゴーストや、その他険しさと、未知。辿り着いたナイトクラブ。 学びは、 魂が一つのことと、魂が同じだ、ということは、言葉が違い、言葉が違う、差異があることから父母から離れ、且つ自立している心の存在を見るが、それが完成だと云い難い、魂は皆一緒だったら、その何かは理解をしないけど向かう為に、全体的な歯車の「一個」になる私、主体、は、モノになった意味として理想として働いている。全く諦めていない。知識貯蔵庫に収められる私、としても、「一つ」の愛が叶わぬわけというよりは、もっと悲しみの中に「いて」、物語が実はもっと長いのだと「知った」。冒頭からここまでのこんなことから(私も)煙草を吸う。
2追記、几帳面なもので、、すいません。 主体が、「大切にする」何かだと分かる、このとき「ある」こと、一定の相手が「ある」こと。 父母から離れる、自分と一体であるはずの父母と、自分の心。
1ありがとうございます。
0丁寧に読んでいただいてありがとうございます。 >分かりやすい表現を使っていて、「読まれる」ことを非常に意識されているのだと思います。 これは或いは私が芝居を書く人間であることに関係しているかもしません。私は詩の用意するモラトリアムというのをある程度信頼していながらも、耳で聞いた言葉の忘却故に失われてゆく意味に過敏になってしまう部分があります。なので私は原則として、一読である程度理解できるような詩を書いています。それは私の詩が科白のように次の瞬間には失われている空気中の見えない振動であるところに、紙とインクという動かない実体であるという以上のウェイトを置いているということです。 >この直喩そのものは嫌いです。嫌い以前に全然納得できませんでした。 嫌いということに関しては返す言葉を持ちませんが、参考までに少し語らせてください。この場面はある現在の形として人間存在というより、実存としての人間の死について表現しています。それは、もう少し積極的に言えば存在+可能性というところの人間です。そのような実存的な対象として、もう助からないことが明らかな人間が白い病院のベットで音もなく死んでゆく、そのグラデュアルな変遷が珈琲が冷めるようだと思ったのです。生と死という二つの国を実存の次元で既に凋落した境界を軽々と跨いでゆくことの湯気のような軽さについて、私は考えていました。 また、珈琲とミルクが合わさってミルク珈琲になるということには不可逆性が象徴されています。 カミュの小説を引いたのは、それが優れて実存主義的な小説だからです。小説の中で《ムルソー》は母の死に際してミルク珈琲を飲んだことを理由に不利な裁判で死刑を求刑されるという不条理な状況の中で、実存を見つめ続ける人間として描かれています。 >一貫して嗅覚に訴える表現が使われているのは、逆に視覚が軽視されているというか、もやもやした感じがして、そこは効果が出ていると思いました。 ありがとうございます。意図を汲んでいただいて嬉しく思います。
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