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物語をノンフィクションと断言できる人
あなたの好きな詩人は誰かと訊ねられればネット詩で好きになった幾人かの人たちの名前をこたえる。わたしが好きな詩人は宮沢賢治です、そう答えると私にとっては嘘になる。古典の詩集本を読み返す気にならない古典作品に魅力を覚えることのないおぢさんは、ぼんやりとした白痴なんだろう。誰かが言っていた。そもそも、あなた、文学とか藝術に興味ないでしょう?と。 ないよ。ばかやろう。 ノンフィクションだから。私も。 「わたしの風の又三郎」 久しぶりに読んだ。 初読の時から不思議に思っていた。 なぜにこのタイトルなのか。 初読の時から解っていた。 なぜに「わたしの」風の又三郎なのか。 覚醒された達観のようなもの。 わたしはいたのかいなかったのか。 わたしは居た。あなたの友人として、 確かに居たではないかと。 物語(風の又三郎)はノンフィクションであり、『わたしはそれを拾おうと、よるの海へ飛びこんだ。』のだ。作中話者、とは言わない。作者という。作者は幻想を綴る。その幻想は、あなたのお家であればいい、空であればいいと。でもそれは幻想じゃないんだ。公園のベンチで夜空を見上げて泣いてしまうのだから。 「わたしの風の又三郎」は、最後まで読ませてしまう魅力が好評で、当時、丁寧な読み手のコメントが多く寄せられている。なかなか出来る(書けるではない)ものではないよね。言葉のリアリティ。事実を書くことではなくてね、感情の事実。
物語をノンフィクションと断言できる人 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1983.6
お気に入り数: 0
投票数 : 2
作成日時 2022-01-10
コメント日時 2022-01-15
鋭く突かれてる観点で好感をもつコメントです。夜の海を用いることによる、ありがちなポエムの印象に堕すことを、この作者は知悉した上で用いているように私には思えるのです。なぜならば「よる」とされているから。これを洗練さというのでしょう。更に言うなれば、自分語り、モノローグ的なる作品はその我の主張とメンヘラ的な主題だけが印象に残り読み手からすれば食傷気味になりがちです。ところがこの作品はそうではない。作品のコメント欄にあるようテクニカルな洗練さがあります。この作者を個人的には「芸達者」とみていて、仮にドブ板を用いらせればそれなりに読ませる作品が書けてしまうのではなかろうかと、そのような筆力を感じます。 コメントありがとうございます。
0これを読んでいて谷川俊太郎の詩集のあとがきを思い出し、本棚を探した。普通の人々、てタイトルだった。 引用開始 「店の外にテーブルを出しているカフェなどがあると、坐っていわゆるピープル・ウオッチングをしたくなる。どちらかというと私は、友達と喋るより一人でぼんやりしているほうが好きなのだ。通り過ぎていくのは私の知らない人たちだが、その一人一人に同じ人間、もしくは生きものとして親近感を感じて、私は勝手に名前をつけ、その人たちの生活の断片を想像してみたりする。 詩も小説と同じく基本的には虚構だと私は考えているが、小説が物語を語るのに対して、詩は(私の場合)場面しか描かない。場面の前後に存在するであろう物語は、読者の想像力に任せたいと思っている」 引用終了 と書いてある。僕は「詩も小説と同じく基本的には虚構だと私は考えている」という彼の考え潔さが好きだ。僕も詩は「創る」ものだと思っている。しかし、人によっては、詩は自分のことを書くことだと思っている人もいる。人それぞれだが、単純に詩は自分の事を書くことだけだと思っている人と僕は詩について語りあいたいとは思わない。しかし、三浦さんのまた、わたしの風の又三郎、で言われる、ノンフィクション、は例え創られた作品であっても確かに作品のなかに存在している。それが僕たちに触れてきて時にはぶん殴ってくる、睨みつけてくる、そっ、と控えめに足を濡らす。虚構だけどそこには真実が在る。 そこに現れてくるものとこそ、僕は対峙して対話したい。そういう意味で批評対象作品を僕はまた読むだろう。
0優れた批評は無学であれ博識さが滲み出すものであれ、有意義な時間を与えるものか否かだと思うのです。不特定多数の他人と関わりを持つことがSNSなどにより軽薄で無難なルール通りの自動機化された空間にあっては有意義よりも快適さが優先されみんな白痴化する。批評はその真逆に位置していて、イージーには解せない、イージーには共有化されない。けれども係る時間は無駄ではなくて、他人同士が互いに思考し合うとは、或いは文学とはそういうことなのでしょうね。 谷川俊太郎さん、、、、 話は逸れますが、過去作品を批評作品として掘り出すことによって、当事者(作者)が不在の空間で作品についてディスカッションされることは、なかなか面白いかもしれませんね。
0お久しぶりです。コメント書かせて頂きます。 夢や想像の、想像を描き切る、この姿勢が良いと常思います。思い込みであるだけども理性がある。 自分はそんな詩を、骨の殻ほどしか書いていないのですが、 あらゆる事をロマンチックだと感じて読んだら宙に浮きっぱなし。 批評にしても音楽的センスを感じられ、以前読んだものよりかなり上達されたのだと、良いと思います。
0てんまさん、久しぶりですね。 純粋さ、ピュアさってなんでしょうね。自分に正直にとか、自分のありのままを出せばそれが純粋なのでしょうかね。知能が低い人、白痴な人はそれだけで純粋なのでしょうかね。てんまさんならば、分かり切ったそんなことを最近考えました。私たちはひとりっきりでもいい。劣悪なバカに付き合って時間を無駄にするぐらいならば、むしろひとりっきりがいい。そうでなければ高度なロマンチックを語れないですよね。この作品の作者にそんなことをみる。退屈しのぎをこの作者から感じたこと、一度もなかったですね。 すみません、ついでに。てんまさんの新作読みました。でもなんとなく、コメントをすること、ためらいました。ひとりっきりの人に相応しく。
1近年、「事実が基になっている」と前提的に示す映画が増えていますが、映画になっている時点でフィクション。ドキュメンタリー映画がかなりな演出と編集にまみれてることも周知されてますが、そうですね。でも、文学は全部ノンフィクションなんだと、そういう妄想を抱く拗れたおぢさんでありたいな、なんて思ってしまうんですよね。
1フィクション•ノンフィクションのテーマが幼稚だというような指摘が個人的にありまして、改めて言及したい機会があればと思うところもあり再コメント感謝いたします。 非「ノンフィクション」という呼称、言い当てているように感じます。けっして二項対立ではない、グラデーションのようなもの。 話が逸れてしまうかもしれませんが、テキスト論(その作品にあるテキストに限定して批評するの意)を三浦は嫌う節があります。それの理由として「作品に必ず宿るであろう作者が持つ固有のグラデーション」を評すことに相応しくないと考えるからです。いや、もしかしたらテキスト論とはそもそも、グラデーションという類いの「客観視に耐えれぬこと」を排除する手法で用いられているのかもしれません。 批評対象作品である「わたしの風の又三郎」は作者固有のグラデーションにこそ魅力の源があるように思うのです。もちろんそれは読み手の私の想像の域を出るものではありませんが、作品と読者である私の間にある空間は「行間(を読む)」でもあるのかと考えます。
0よくぞこの批評(三浦は批評文のつもり)にコメントを寄せられたと感謝します。 また、多々発しておきたいことも湧いてきたので、cold fishさんへのレスを書く前に少し別の話をしたい。 ビーレビはTwitterでも現代詩フォーラムでもあるいはyou tubeでも、カクヨムでも小説家になろうでもない、固有なものとして何があるかといえば、リアル世界に同一化しない最後の砦だと、少し大袈裟だけれども三浦は思っていて。更にもっと大層な話をすれば、リアル世界では成立しない完全なる自治が成立可能な実験する類の裏テーマが潜む空間ではいかと考えるのです。ルールによる参加者縛りではなくルールはあくまでもツールであって裁定は時の運営者に委ねられるという手法は、学級会での「先生、誰々さんが規則に従っていません」的なレベルから「まあまあ、運営に迷惑なんだからちゃんとやろうよ」的な本来求めるべき楽しい空間形成がされてきたのが、現運営の現時点での最大の成果だと思う。 (この話題、まったく関係なくない?って方がもしいらっしゃるのであれば申し上げておきます。これは元の風の又三郎に係っている話) けっこう自由度のあったTwitterでさえ、近年は摘発化という類のリアル世界への同一が侵食していて、ビーレビは、そうであって欲しくないと願う。 もう一つ。 よくビーレビは内輪話ばかりだという批判がある。でも、ガキの使いも8時だよ全員集合も、それ以外にも素敵な内輪ノリのコンテンツは沢山あって、内輪ノリ自体は良い。問題は大いなる内輪ノリかどうかということ。「私もこの輪のなかに加わりたい!」という訴求力があるのかどうか、それが大事だと思っていてcold fishさんが時にみせるプレイはその類の魅力ある「大いなる内輪ノリ」ではなかろうかと。 そもそも、当批評文作品投稿のシステムは内輪ノリをどう魅力的にするかというものが本質的にある。そういう観点からすれば、cold fishさんからの「批評文に対する更に批評」のコメントは最高にビーレビに適した良いコメントだと私は思います。 cold fishさんのコメントへのレスとしては、なるほどと、頷けるものだと思うcold fishさんのこの醒めた視線に各々がどう対峙するかで、ネット詩が文化として定着するのか、低脳な人たちの繋がりツールに堕すのかの分水嶺だと思う。 もう一つ最後に言いたい。以前から文極やビーレビのやり取りを指して「若いころはそういう議論みたいなことやってましたよ、なんか大人になってもそういうのやってるのみれと恥ずかしくなっちゃうんですよね」という人がいて。そういう人らをエセインテリと私は呼ぶし、あなたには文学ではなくて知識に被れていた方がいいと、言いたくなる。 ビーレビは拗れた人たちによる拗れた場所でずっとあってほしいし、そうでなければ死滅して欲しい。 長々と失礼しました。退屈な出張中なもので。
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