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縫い針
ツイッターを辿りながらロヒンギャのニュースのタブを開け、ヤン・トーロップの描いた女たちの行列を錯視しながら、心臓の真下に乱暴にざらついた手を差し入れられるような違和感を覚えてタブを閉じ・・・飼い猫の癒され動画の数千回リツイートの軽薄に取り込まれながら、夕ご飯のおかずを求めて今度はクックパッドに食材を打ち込む。 無数のフィルムの断片のようなものが取り巻いている世界に漂っているようでいて、足元は覚束ない・・・そんな頼りなさの中で、「詩」を読んだり書いたリしながら、「詩」ってなんだろう、と考えるのは、果たして逃避なのか、生きている時間を埋めていくための、塗り絵のような行為に過ぎないのか・・・ 「わたし」から逃れたくて、詩を読んだり、書いたリしている。何かに夢中になれる、ということ、今、を忘れる一瞬を持つ、ということ。どこかに、入り込む想像力のみが全開となる瞬間を持つ、ということ。日常からの逸脱。その、一瞬の至福・・・は、同時に切り離し得ない「現世」から落ち込んでいく瞬間でもあるだろう。 観念に逃れるほど、心細くなって結局は「手触りのある言葉」「肌感覚で捉えることのできる事柄」に拘泥する。そのことを通じてしか、今いる場所を確認できない。ならばいっそ、その確認そのものを、言葉にしておく。同じような「うやむや」の「不確かさ」の中にいる「他者」が、その言葉から、あるいは想いやイメージから、何かを拾いあげてくれたら、それはそれで、無駄なことではない・・・そんなかすかな「希望」に照らされながら、言葉を綴る。 それはやはり、誰かの為になるということ、何かの為になるということ、それを理由に自らを許すということ、そんな「おためごかし」から切り離し得ない。その剃刀を口に含んで、無駄と無為と無意味の集積によって成り立つ世界に、縫い針を一本突き通す。針が折れ、熱に溶けても、痕跡としての縫い糸は残る。その跡を辿る人は稀であるとしても。
縫い針 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 833.8
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-10-12
コメント日時 2017-10-20
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
〈筆力が卓抜しておられることはもはや私ごときが〉そのままお返ししましょう。花緒さんの筆力には掛け値なしに感嘆しています。それゆえに、その筆力をもって何を書くのか、ということに、興味があります。それゆえに、疑問を感じたり異論を唱えたりもしたくなるわけですが。 〈無駄と無為と無意味の集積によって成り立つ世界〉補足するなら、「世界」の前に、わたしの、という言葉が入ります。さらに言えば、「わたし」という枠内からしか、外界を知ることはできない、そのような制約を人は負っている、と思っています。〈意味のある逡巡〉〈有意味な逡巡〉とは、一見、「意味」がありそうな・・・しかし、社会的に何らの実行力を持たない、つまり、言葉として、書き物として表明したところで、単なる無駄と無為と無意味にしか成り得ない、そうした逡巡である、と書き直してもよいでしょう。 その、意味がありそうな(意味のあることを、「わたし」は真剣に考えている、「社会」に対して、「世界」に対して、誠実に向き合おうとしている、そんな素振りを見せている、そんな素振りを「生きる」ということに、自らの存在意義を見出そうとしている)自己語りを、「作品」として提出することに、「意味」があるのか。〈日記の一編だったら十分〉であろうけれども・・・という問いでもあろう、と考えます。 おそらく、花緒さんが問い掛けたかったこと、は、上記の如き内容であろう、と勝手に措定した上で・・・ 「おもしろいか」どうか、ということを、聞いてみたかったですね。生真面目に眉間に皺を寄せて、考えたところでどうにかなるものでもない、そんな個人を大きく超えた問題のことで「頭」を悩ましている暇があったら(そんな自分に密かに自己満足している暇があったら)もっとエピキュリアン的に、個人としての生活を楽しむことが先決なのではないか。(と花緒さんが言っている、というわけではなく、これは、私の考えです。) 埒もあかないことを、ゴチャゴチャ繰り返している、その「わたし」という空間の中で散漫に浮遊しているもろもろを突き通し、脈絡あるものに綴り合せていく、そんな力を持ちたい、という、ある種の「決意表明」のようなものに過ぎない。その意味では、ご指摘の通り、〈完成しきったものにはなってない〉わけです。その行為の痕跡が、なんらかの共感につながればいい、という希望、願望を示してもいるけれども。同じような悩みにとらわれて、なかなか抜け出せないような人がいた、として、その悩みを共有することはできないか。同じ問いかけを持つことはできないか。微力が集積することによって、なんらかの波及効果が及ぶのではないか。個人としては無力である「世界」に対して、なんらかの働きかけのようなものが、動き出すのではないか。 個人と「世界」との関わり方、それを、大げさな言い方ですが「実存的な問い」と呼ぶとして・・・そうした問いかけを(意味がなくとも)持ち続けること、そこに、「意味」が生まれるのではないか。一人では完結できない「意味」ですね。 悩んでも仕方ないことがらを悩む、そんな(聞かされるだけ、うんざりしてしまうような)一瞬と、猫ちゃん写真を見て、かわい~とウケている、今日のごはんは、何にしようかな、とワクワクしながらスーパーの売り場を巡っている。今度はあんなことをしよう、こんなことをしよう、と楽しいこと、面白いこと、そんな計画を練っている。それらがすべて同居している状況。 あるいは・・・世界の「悲惨」社会の「無残」を知り、心を痛める、という行為自体が・・・平坦な日常に刺激をもたらそうとする本能的な行為に過ぎないのかもしれない。「おもしろい」こと、新奇な刺激や興奮を与えてくれる何か、を求める行為に過ぎないのかもしれない。そういう問を「問うている」状態に、自分を追い込むことで、意義のある人生を生きているような錯覚を得たいのかもしれない。まあ、そういう自分語り、の一瞬のドキュメント、そんなところでしょうか。
0この作品において優れているところは最終2文 >針が折れ、熱に溶けても、痕跡としての縫い糸は残る。その跡を辿る人は稀であるとしても。 に尽きると思う。 筆力があるない、の議論には触れない。前半部のクリシェの撒かれた日記、中盤部の思索、そこからの自己の再認識(自己への再帰)と散文の構成としてはとてもオーソドックスだと思うが、その中で提起された「手触りのある言葉」「肌感覚で捉えることの出来る事柄」を作者自身が調理した好もしい表現だと思う。 >針が折れ、熱に溶けても、痕跡としての縫い糸は残る。 「熱に溶けても」の主体が「針」なのか「糸」なのか読解を委ねているが、溶ける縫合糸と考えた時に、(作者の他の作品からの印象を引き継いでしまうが)帝王切開のイメージが立ち上がる。 「その跡を辿る人」は「詩」であり「読者」であり「子供」であり、と想像が膨らむ。 個人的な話だが、わたしはこういった表現を好む。身体性の立ち昇る様が好きだ。 まりもさん作品は(わたしにとっては)行替詩よりもこういった散文詩、あるいは随想の方が読みやすい。 学びになりました。
0もなかさんへ ありがとうございます。もともと、ある人への感想文、といった趣の文章の一部を切り出して、手を加えて、最終二文を足して「詩」にしたものです。見抜かれた時点で、ひええ~!!!という反応しか、出来ないのですが(笑) 「行替詩よりもこういった散文詩、あるいは随想の方が読みやすい」考えさせられました。なんだろう、行替詩で、情感や感覚を伝えたい、と思いながら、思想とか世界観といった観念的なものを伝えたい、という意識の方が勝っていて、それで行替詩が、伝わりにくくなっているのかもしれない、そんな印象も持ちました。 行替詩では、多重露光の写真のような、そんなイメージの重層性を持たせたい、という思いもあるのですが(と書いている時点で、コンセプトを文字で添えないと成立しない、コンセプチュアルアートのようになっていますね)可読性について、考えていきたいと思っています。
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