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煩悩
眼科に来ている。そしてあなたは気球のようなものを見ている。おそらくアメリカの広大な土地に気球が浮いている絵がそこにあるのだけれど、周囲が暗くてよくわからない。それでもあなたは目を開けて、気球を見ようとする。あんなふうに色彩豊かで、地上から浮いたまま静止しているものは気球以外に無いだろう。けれど、見ようとすればするほど視界は霞んで見えなくなっていく。動揺しているあなたは、まばたきもせずそれが何なのかじっと見ようとする。すると、焼けた夕暮れのようなオレンジ色があちこちで浮かび上がり、次の瞬間には深海に住むサメの瞳のような淡いブルーの光が上から下へまっすぐに流れていった。もうひとつ先の未来、それがどれくらい先なのかは分からないけれど、その一瞬の断片された映像が水面に写るのをあなたは目撃する。それは食卓に並べられた最後の晩餐となる皿に描かれた花柄模様かもしれないし、東京オリンピックでチャンピオンとなる選手がプールに飛び込む瞬間かもしれない。仮にあなたが、あなたの未来の何らかの一部を知ってしまったとしたら、あなたはもう今まで見ていた気球は見えなくなる。今までのレンズではピントが合わないのだ。視界というものはおおむねそういう性質であった。せっかく何か分かった気でいたのに、あなたはまたそれが本当のことなのか疑い出す。そういうとき、今度はあなたが気球に乗っている。あなたは自分が気球に乗っていることを知らず、必死で眼科へ行こうとする。けれど、あなたはアメリカの広大な土地にいるので、どうすれば近所の眼科へ行けるのかが分からない。そうして、あなたは今まで来た道を振り返る。また、あなたは今まで見てきた景色をどのくらい覚えているのか数えだす。けれど結局、今は何もかもぼやけていて、あなたの眼球は見るという機能を失い、誰かに見られるだけのものに変わっていた。そして、わたしたちの記憶を束ねていた百八個の輪ゴムは外され、わたしたちの記憶はそれぞれの個人のもとへ帰っていく。 ※ もしかして、嫌なことを思い出してしまいましたか? 大丈夫ですよ、誰しもそういうことはありますし、そういうときは近所の眼科に戻ってくればいいのです。あなたが今見ている気球は、もしかしたら最初見えていた気球とはすこし違って見えるかもしれません。けれど、本質的には同じ絵なので気にすることはありません。おそらく、あなたは過去の恋人のことを思い出していたか、あるいはあなたを傷つけた人のことを考えていたのでしょう。あなたは今でもその情景を鮮明に思い出せます。その人の顔、その人のセリフ、その場所、そこが蒸し暑かったのか肌寒かったのかまでかなり鮮明に。鏡を見ると、あなたはパッションピンクの口紅をつけています。そんな色の口紅なんて今までつけたことがないかもしれません。それもそのはずで、その口紅は今日のあなたのために特別に用意した物なのです。百八番という品番のパッションピンクは、本日だけの限定色なのです。あなたは、あなた以外のことばかりを凝視してきました。ここに、景色をていねいに写す鏡があります。さあ、あなた自身をじっくり見てください。その口紅はいかがでしょうか。そして、いまどんな気持ちですか? 今なら、記憶のなかにいる人物にもそのパッションピンクの口紅をつけることができます。あなたはどんな気持ちで、どんな強さで、どんな太さでその人物に口紅を塗るのでしょうか。想像してみてください。あなたがその人物に口紅を塗るということを。そして口紅を塗り終えたあと、あなたの唇はどんな色に変化しているのでしょうか。その頃にはきっと、もうあなたはあなたの唇のことは忘れています。そして、あなたの口からは意外な言葉が飛び出すのです。 ※ あなたは気球に乗っている。さっきまでは太平洋の海はゆるやかに水面が揺れていたはずなのだけれど、今はひとつの波も見当たらない。あなたはいつも状況が良い方向へ変化することを期待していた。もっと健康になりますように。もっとお金持ちになりますように。もっと人と仲良くなれますように。あなたは、あなたを取り巻く環境がより快適になることを望み続けた。そうしているうちに、海はいつの間にかまるい海に変化している。それは、さっきまで晴れていた空が急に曇り始めるような自然な変化だった。ついに、あなたはひとつの不安を覚える。それは、あなたが職場や友人、ついに家族からも仲間外れにされ一人ぼっちになる不安かもしれないし、それとも突然、心臓が今まで経験したことのないような痛みを覚え、そのまま孤独死することへの恐怖かもしれない。それを振り払うために、あなたはそのまるい海が一体何なのか考え始めた。それでもあなたは目を閉じている。ひどく黒くなったかと思えば淡く白く光るときもあって、それは信号、あるいは鼓動、それともユーチューブ上で強制的に流れるコマーシャルにひどく似ていた。結局、その海とわたしたちが共有できるのは、時間が流れているということだけだった。そうしているうちに、まるい海の外側にあたらしい輪ができていく。それを見て、あなたはようやく気球に乗っていることに気が付き始める。けれど次に瞬きをした瞬間には中央に真っ黒な穴が開き始め、そのまるい海はついに海でいることをやめようとしていた。それを見て、あなたはまたわからなくなってしまう。困り果てたあなたはやっぱり眼科に戻ろうとする。けれどもそもそも自分が今どこにいるのかさえわからない。それでもあなたは目を閉じている。眼科医のペンライトに照らされて黒い瞳孔が一ミリ右にチラと動き、それを合図に、またわたしたちの百八個の記憶はひとつに束ねられはじめた。
煩悩 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1111.9
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ポイント数 : 0
作成日時 2021-09-18
コメント日時 2021-09-20
項目 | 全期間(2024/11/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
これ好きです。 なんというか読むときの感覚や勘がはまります。 海は雲と同様に輪郭を持たないのでとらえどころがないものでなければならない アメリカの広大な土地やパッションピンクの口紅はそのために必要でした
0いすきさん、こんにちは。 作品を読んでいただき、ありがとうございました。 >海は雲と同様に輪郭を持たないのでとらえどころがないものでなければならない >アメリカの広大な土地やパッションピンクの口紅はそのために必要でした 作品に意味はまったくなく、また駄作を書いてしまったなと思っていたのですが そういったくだらない文章に対して上記のような感想をいただけて嬉しく思っています。 なんというか、作品よりいすきさんのコメントの方がよっぽど詩的ですね。 とらえどころのないものに対して、地名や色をつけるという行為は 興味深い話かもしれませんね。
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