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劫火
劫火 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1929.8
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2021-08-07
コメント日時 2021-09-03
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
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平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
余裕のない記述は嫌いでは無いんですが 無理に着地点を定めずに わからないものをわからないものとして 描くということもまた真実かもしれません。
0衒いなく言ってしまえば「よくわからない」のですが、しかし「よくわからない」詩を読んだときに、わからないからもういいや…となるものと、わからないけど何かあるぞと感じるものがあって、私にとっては後者に感じられました。 不純な読み方ではありますが、なぜそう思わされるのか、研究するように一つ一つの表現を読みたくなります。
0白川さんの作品は、視点/焦点の分析仕事人という印象があり、それらを細部に分解したごく僅かな運動を火や水といったモチーフにより変換させていると勝手ながら思っています。全く的外れかもしれませんが。 というのは、この行分け詩を敢えて文章化した際に、句点は何個打たれるのだろうと考えながら読んだ時に、一つの運動の僅かな動きを様々な助詞や連体詞や形容動詞で名詞を膨らませていることに気付かされます。その反面、副詞で動詞を膨らませることはあまりしていないような気がしていて、これはきちんと全てを見ているわけではなく、読んだ際の思い付きです。何でこうした考えが生まれたかと言いますと、「みなみに盛る劫火の~~」という行の切れ間を探していた時に、この行の結びは「伝令馬が駆け巡る」までかかっているんどあろうと何となく腑に落ちた時、何て長い文だろうと思ったのです。詩を読む上で、文章化したりするのは、作品を貶めてしまっている気がしていて、よくないことを自覚したうえでの考えです。 作品内で特に気になったのは、「水の色」です。そもそも水に色があるのかと。絵具やクレヨンで水色とありますが、いわゆる蛇口から出る水やコンビニで売られている水には色がありません。いわゆる透明。でも、土が混ざったり、それこそ絵具が混ざったりしたら水はその色を変えます。それは、水の色がなくなったのではなくて、水の色が変わったというだけであって、変化前も変化後もその水の色なのだから、やはり、それは水の色です、トートロジー。つまり、水の色は「何かが混ざっている」ということを教えてくれる指標になっているのです。 「体温の広がりが/それをそれたらしめるところの白」というのも面白い表現で、まるで内部参照/循環していて、プログラム言語だとエラーを起こしそうな感じがして気になりました。 「群の起こした叫ぶ火」≒「劫火」は、ほとんど水分でできている体を温めると同時に、外部から挿入された熱であって、そうした作用が、「体温の広がり」≒「白」としてあるという。それらは、「衝動の比喩」だったり、「感傷の挿入」だったりといった、外部からの干渉を示唆されているのですが、それらが、体の作用として「拡張される涙腺」や「延長される体毛の細線」といった、ごく僅かな運動に焦点をあてるというところ。この辺がやはり分析仕事人という印象を受けさせる表現でありました。
0興味を持っていただいてありがとうございます。 こちらの場でやるべき議論ではないので、もしこれ以上話すなら違う場所を設けましょう、と先に言っておきます。 1.本当にそれでいいのかな? どうなんでしょう、わかりませんが、このスタイルはB-REVIEWに参加以来、一貫して戦略的に書いていることなので、それを続けているというだけです。いいかどうかは、僕のコメントを頂いた方に問うてもよいかもしれませんし、自分でもわかっていません。 2.いかにも現代詩的な作品/読解 とは何でしょうというところは話してみたいところです。 3.乗り越えられない感 何を乗り越えるんでしょうか。わざわざしんどいを見たり、見ていていたたまれないと、見ないことも選択できることだと思います。これはつっかかっているというより、先述したように、煽りでもなく、興味を持っていただきありがとうございますというところです。 どこかでお話しましょうか。
1コメントありがとうございます どこまで研ぎ澄ますか、永遠の課題ですね
0嬉しいコメントです。 「よくわからないものけど読む気になる」ような詩を超えた先に 「よくわからないけどなんか凄いものを見た」がある気がして それが書き手ではない人にも伝わるような詩なのかななんて思いました。 なにか分かったらご教示ください。
0コメントありがとうございます。 確かに私はとても微細な部分に目を凝らして丁寧に記述していく先になにかがあると思って作品を作っている気がします。 また微細な部分を見ているのでどうしても先に名詞が増えているのかも知れません。 名詞と動詞、というより体言と用言のバランスについて実は少し考えたことがありまして、実験的に用言をベースとして作品を作ったこともあります。 ただこの作品は、裸で書いてみようという心持ちで書いてみたので私の手癖的な体言ベースな感じが強く出ているのかも知れません。 また、裸で書いたこの作品に丁寧な詩評を頂けてとても嬉しいです。 ありがとうございます。
0鋭いご指摘だと思います。 ありがとうございます。 確かに「殻をやぶりたいな」と思って書いています。 現代芸術やその訳する前の語である contemporary art という共時性を主軸とした運動の一部として 今の私は現代詩を見ていて その中でしばしば言われる型が決まったらそれはもう現代芸術ではないよねという言葉がいつも頭の上にあります。 私が今あえて現代詩をやる理由が欲しいのかも知れません。 ただどんな批評を頂いても「萎えちゃう」ということはないです。 むしろあらゆる意見が嬉しいです。 現代詩的な読み方がされる作品を描いていく中で作品の書き方はきっと少しずつ変わっていくと思いますし、 ありがちな現代詩からどう離れるかを考えてばかりいると奇をてらった作品を作りはじめてしまうので むしろ引き戻していただくために現代詩の潮流の中での解釈が頂けると嬉しいです。 なかたつ氏の批評がありがちな現代詩に対する読み方であるとは思いませんし、 新鮮なご指摘であったという前提の上で 例えば「現代詩的な解釈による批評」というものがあり得るのならばそれを頂ければ 現代詩を乗り越えるための力になるとすら思います。
0作者の意図は置いておいて、私の作品はプロセスの昇華と受け取っていただくことがしばしばあります。 とするとこちらで coldfish さんがおっしゃっている「乗り越えられない感」というものはプロセスそのものを描いているからであって 作品自体が自己言及で閉じているからなのかも知れません。 プロセスそのものを作品で描いてしまうと作品の中で閉じた世界が広がりません。 プロセスの結果が見えてこない。 結果なんなんだよ、となる。 そういうことかも。 なんてそんなことを思いました。 もう少し深く考えてみたいご指摘でした。 語りたいな、、、 ありがとうございました。
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