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サリンジャーに捧ぐ
晶子は布団に潜りぶつぶつと声には出さず頭の中で呟いていた。「主よ。お恵み申し上げます。私に恩恵を授けてください。」晶子はそれを何度も何度も両手できつく手を握りながら呟いていた。晶子は別に誰かに助けを求めていたわけではない。深い穴倉の洞窟で祈りをただ呟きたかっただけである。すると、ドアをノックする音が聞こえた。規則正しく、トン、トン、トン、と。きっと母である。晶子は布団から出て起き上がり、ドアを開けた。「晶子、これご飯よ。あなた、顔色悪いわよ。大丈夫なの?」晶子は肩をすくめた。「大丈夫よ、ママ。今、大事なことをしてるの、邪魔しないで。」母は少し悲しげな心配そうな顔をして、踵を返した。晶子は料理の盛られてるテーブルを掴み、ドアを閉めた。すると、またすぐにドアを叩く音がした、今度はきつい激しい音である。晶子は溜息を吐きドアを開けた。晋平、晶子の兄だった。兄は晶子をちらりと見、ふてぶてしく晶子の部屋へ問答無用に押し入り、ベットに座り込んだ。「タバコを吸っていいか?」兄は言った。晶子が頷く前に晋平はもうタバコに火を付けていた。「晶子、君、最近随分やさぐれてるね。一体何をしてるんだい?」「いえ、なにもしてないわよ」「本当かい?じゃあこれは一体なんだい?」晋平は枕元にあった本を手に取った。それは新約聖書だった。ページを捲ると文章にアンダーラインやページの右上端や左上端が折り曲げてあった。「それは…」晶子は口を噤んだ。「君がこれからどんな人間になりたいのか、それはいい、君の勝手さ、ただね、僕が案じているのは、君がいずれ火の中に身を投じるような哀れな殉教者になるんじゃないかってことさ。僕はね思うんだ。昔、おじいさんが耳にタコが出来るくらい言ってただろ?お前たちは特別な人間だ。しかし驕れるな、お前たちは多分一生この家系の呪縛からは逃れられない。いいか、耳をかっぽじって聞けよ、不幸は美の種だ。しかしそれに溺れて心酔してはならん。幸福を求め、輝きを身に纏いなさい。おじいさんはよく僕達にそう言ってたね。あの頃、子供の頃はまだ僕もよくわからなかった。まだ君も小さかったしね。でも最近になってな、なんとなく、はっきりと意識するようになったんだよ。不幸は美の種。確かにおっしゃる通りだ。僕はひりひりとした崖の上に立って汗だくの男をよく思い浮かべるよ。僕は彼に手を指し伸ばそうとする。けれど、彼はそれを拒絶する。彼は言うんだ。俺は世界の部外者なんだ。俺はこれまで何千と罪を犯してきた。これは罰なんだ。近づかないでくれってね」晶子はそっと深呼吸をし、兄の声に耳を澄ませた。「僕が心配してるのはこれなんだ、晶子、君はこのままだといずれ自分の愛する信教者を探しに世界を旅することになるね。そして君の瞳は、心はまだ成熟してない。まだそんなお人を見分けることはできない。そして君はきっと絶望するだろう、自分の置かれてる環境に、心境に。僕は君にはもっと輝いていて欲しいんだ。おじいさんの言ってた通りね。」晶子は瞬きをし、そっと目を潜めた。兄はタバコを吸い終わると携帯灰皿に吸い殻を入れた。晶子は兄さん、と小さく言った。兄は首を少し傾げた。「最近、私頭がおかしくなりそうなの、どいつもこいつも、勿論私自身も、無能で汚らしい、俗物のように思えてくるの。だから外の世界が怖いの、私、いずれ誰かを包丁で刺してしまいそうなの」晶子は言い終えると目をさすった。「僕も、そんな時期があったな。懐かしいな。そんな感情は今でもあるけど、もう薄れてきたよ。でも君の気持ちはわかるよ。勿論全てではないよ。半分くらいね。兄弟だから。でも僕はそんな時期、こう思ってたね、それこそ聖書に書かれてるように、イエスが言ってるように、隣人を愛せよ、ってね。何度も頭の中で繰り返したさ。すると世界が少しクリアになって生きやすくなったね。晶子、君はこれからどうなりたい?」晶子は考えた。兄はじっと黙り晶子の言葉を待った。1分くらいだろうか、晶子は口を開いた。「私はね、どうなりたいってより、もっと綺麗な世界に行きたいの。綺麗に自分を演じたいの。それは誰も関係ない。私自身の問題。私はね、本当はもっと人を好きになりたいの。沢山の抱えきれないくらい。でも、わかってるのよ、兄さん、今のままだと私どんどんダメになっていくんだろうなって。でも止められないの。濁流に飲み込まれてしまって、木の棒にしがみつくことしかできないの。兄さん。私はどうすればいい?」晶子は懇願するような表情で兄を見据えた。「それは僕もわからないな。ただね、君はもっと自分自身を知るべきだと思うよ。根底の自分は自分にしかわからないからね。僕はね、さっきも言ったけど君のことが心配なんだよ。でも、いずれこれは誰もが通る道なんだよ。そしてある人は忘れ、ある人はそれに囚われ続け、自決するんだ。君には後者になって欲しくないんだ。晶子、恐れるな、立ち向かえ。僕に言えることはそれだけさ。灯火を背に突き進むんだ。正しくあろうと突き進めば、君の背中には行列が出来てるだろうよ。光の指す方へ歩くんだ。そうすれば君を理解しようとしてくれる人に出逢えるし、君もその人を理解しようと努力すると思うよ。」晋平は窓枠に立ち、子供達が遊んでる姿をじっと凝視した。「見ろよ、晶子、子供はいいよな。純粋無垢で。僕たちにもあんな頃があったんだよ」晶子は兄の側に近寄り外を眺めた。晶子は泣きそうになりながらそっと目を塞ぎ、ベットの上に座った。兄は晶子を心配そうに見つめて、ドアに歩いて行った。「兄さん!」晶子は叫んだ。「なんだい?」「兄さん、私、なれるかしら?こんな日々を懐かしく回想出来るような日々がやってくるのかしら?」兄は頷いた。「きっと、くるよ。お邪魔したね。またね」晋平は晶子に背を向け、ドアを閉めた。外は小雨が降り出した。晶子はまた布団の中に潜り込んだ。今度は祈ることも頭の中で呪詛を呟くわけでもなく、ただじっと天井を眺めた。部屋の中は静寂で包まれていた。私の清き魂よ、ここにあれ。晶子ははっきりとした声で呟いた。そして瞼を閉じた。がやがやとした喧騒のある街を思い浮かべながら。
サリンジャーに捧ぐ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 910.8
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ポイント数 : 0
作成日時 2017-09-27
コメント日時 2017-09-30
項目 | 全期間(2024/12/04現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
サリンジャーですか。随分懐かしいなあと。お好きなんですかね。昔に私もよく読んでいましたが。そう言えばホールデンと坊っちゃんを比較し論じた評論などに入れ込んでいたのを思い出したり。東洋と西洋との笑いについてなど興味深かった印象があります。一作家として『則天去私』を残した漱石と隠遁した戦争体験者であるジェームズ・デイヴィッド・サリンジャーと。30数年ぶりになりますか、また読みたくなりました。
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