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黒髪さん?エミリー・ディキンソンかよ
あれれ、そう云えば最近、黒髪さんみないじゃんかってGWに入る直前に気が付いた。 で、過去作を確認したら、昨年の4月で止まっていて、 昨年の5月2日にツイキャスで暴力について語り合ってから会ってねえなあって、なった。 文学極道への投稿者同士で、なんか妙に気になる人であった私からすれば、寂しいので、 悪戯な気持ちもあって、この批評文(これは批評です)だけは、今年のGW、残そうかと。 今年のGWは12日間休みだったのに私は何もやれていない。残すところ明日の1日。 ネット詩しか知らない私からすると黒髪作品とは元祖『自分語り』であり、 ネット詩しか知らない私からすれば黒髪作品を読むことは、 エミリー・ディキンソンを読んでいるのと同じ気持ちなんですよね。 というかエミリー・ディキンソン、10編も読んでないな。 私は黒髪さんにエミリー・ディキンソンを教えてもらったんです。 数学者の岡潔と一緒に。 黒髪作品の紹介、survofさんのコメントを紹介しよう。 (以下、『不毛なもの』へのsurvofさんのコメント) 読んでいて鳥肌がたったのはクーラーの効きすぎが原因ではないはず。特に好きなのは後半から最後にかけて。読むたびに身体中に鳥肌が広がる。肌の緊張が嗚咽に変わる前に私は読むのをやめなければならない。 一言だけ付け加えるとするならば、この作品はまったく技巧的には見えないとはいえ、言葉一つ一つの扱いが丁寧であり、音韻にも注意深い配慮が施されている。つまりとても技巧的であるのだ。同時にそれは技術のための技術ではなく、手段としての技術として非常に巧みに、かつ自然に、目的の要請に応じて適切に用いられている。 技術というのは高ければ高いほど、その存在を忘れさせるのだ。 (以上、引用コメント終わり) ほら、説得力あるよね。 もう一つコメント紹介しよう。 (以下、『花の夢』https://www.breview.org/keijiban/?id=5361 への藤一紀さんのコメント) これまたすごいことやりましたね、って気持ちです。もしかしたら現在詩を書くひとの半分くらいは、書く時に避けようとする語、詩のなかでは手垢のつきすぎた語が散りばめられているのに、それから同じく詩を書く多くの人が使わないだろう言葉遣いなどもあるのに、その両方がバランスを取り合って妙な甘ったるさを壊してる。私なんかにゃ発想すら及ばなかったけど、口語でこれをやって味をしっかり感じさせるのって難しいと思う。 (以上、引用コメント終わり) 更に説得力が増して、作品を読んでみたくなるね。 以上批評文終わり。 こないだ、詩を愛好する方々を前にして詩に愛着なき私がまた、 云ってしまった。 詩作品のあるべき本来の姿って、 書いた後に焼いてしまうか、 海に捨ててしまうみたいな、 そんな感じで消えて失われたらいいと思うんですよって。 だからネット詩って最適じゃないですかって。 サーバー飛んじゃえばいいぐらいに思うんですよねって。 はい、すみません、 また、人の作品を借りて、自分語りしてすみません。 誰かの情念みたいなやつ、 言い換えると普遍性ある情緒。 そういうのって技巧から発せられるアレなのか、 人間性(キャラともいうのかな)から出るアレなのか、 どっちなんでしょうね。 そんなこと考えてる私はけっきょく邪なやつしか書けない。 バイブル書けないから。無作になれんよ。 このまま10年後とかにネット詩に再び現れましたとかって、 やられたら、、、黒髪さんにはやられたってなる。
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作品データ
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作成日時 2021-05-09
コメント日時 2021-05-09
雑誌は気軽に捨てられるものだと確か仲俣さんがラジオか本で云って居ましたが、それが雑誌の魅力なんだと知った時に熱くなりました。ネット詩が痛いとか最近聞く中でネット詩の魅力について、ここで書かれていたことを読んで熱くなりました。ネット上に「流す」という見方があることを発見し、 痛いからとかじゃなくて、単純にうたうのが好きで、ネット詩人っていーんじゃない?って思うから、何か理屈もなく心細かったです。 武士(「学道」と云って例える)が上がってくのは一つの事を、しつこく練習するからで、色々道が有るけれど、空気が読めて素直な文章に落ち着きと安心を覚えるのですが、無作って自分の知らない所で出来て居ると思います。
0sns っていう空間とは距離を置いて他人に迷惑かけないようにしとかないといけない僕の曲者気質から来る詩との距離感というのがあるんですよね。詩を出すところなんて、Twitterでいいじゃん、詩誌でいいじゃん、同人誌でいいじゃんっていう、その空間と対峙(笑)してると思うううですよ、ビーレビっとか現フォって。で、一方で、現フォは作品保管場所的に使われてる人が多いと耳にします。 詩っぽい空間てなんでしょうね。 その、よく知らないんですけども、詩人が新しいカルチャーを先導してたって時代があって、そういうポテンシャルが詩表現にあるとすれば、作品の保管場所が消えても、ネット詩文化は失われてはいけないんでしょうね(笑)
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