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【あまりにも立体的な】手相アート【感動的な傑作】
私は、この作品が好きだ。お気に入りにも登録している。 暗誦もできるくらいに何度も読み返した。 この作品の深みは、届きそうで届かない程に深い。月を欲しがる子どものように手を伸ばしても、主観的な眼の中では、月よりも自身の掌のほうが大きいけれど、言うまでもなく、それは大きな誤算である。この大きな差が、私と作品との間に絶対的な断絶を生むが、この大きな空白を、私個人の妄想的な解釈でもって埋めようと思う。当然ながら、私個人の妄想の中にこの作品を閉じ込めるつもりはない。あくまでも、私の妄想的な解釈として笑ってください。 >気づけば >弦で線を増やそうとしていた 弦とは、ギター弦のことであろう。 ギター弦を引っ掻くと、その残像が見える。 しかし、弦で線を増やそうとしている。 線=弦であるとすれば、弦でその弦を増やそうとしているのである。 弦を増やすとは? 前述の通り、弦を引っ掻くと、残像によって弦が増えて見えることから、弦で弦を増やそうとしていた、と表現しているのではないか。 実際に、弦が増えるわけではないのだから、増やそうとしていたなら、何も矛盾はしていないと思えるのだ。 >手のひらを水族館にしてみたかった >プラネタリウムにしてみたかった この二行は、重大な伏線である。後に回収される。それも驚きの立体的な回収の仕方によって。 >真っ直ぐに伸びる線は幹にして >魚の葉っぱに星の花 >満開だったけど >描いていて怖くなった ここで使われている“線”は、手相の運命線を指しているのではないか。それを、木の幹にする! なんという発想。掌に刻まれた二次元的な運命線が、三次元的に、即ち立体的に、木の幹が仰向けの状態から、分度器で言う0度もしくは180度の状態から90度へ緩やかに起き上がってくるのである。 そして、魚の葉っぱに星の花。 魚とは、水族館に関連するものだし、星はプラネタリウムに関連するものだ。しかも、形状も類似している。葉っぱの形と魚の形、星の形と花の形。星が煌めく様は、なるほど花のようである。だから、 >手のひらを水族館にしてみたかった >プラネタリウムにしてみたかった この二行が説得力を伴って響いてくる。しかしながら、作者はその木の姿を恐ろしいものとする。確かにそんな木が実際にあったのなら、とんでもなく怖い存在だ。悪夢的、とすら言える。 >のどかな町に描き上げたかった >でもクレヨンは骨折してしまったし >筆は喉を痛めてしまった 冒頭でのギター弦からなる音楽のイメージとは打って変わって、クレヨンという図工のイメージ、そして筆という習字や文芸のイメージ。題名の「手相アート」の“アート”を総括的に語っているのではないか。骨折したりと、喉を痛めたりと、挫折感が伝わる言葉。ギターも、クレヨンも、筆も一般的には手で使うものであり、自分の手を眺めていると何か感慨深いものがあったりするだろう。 そのクレヨンが骨折し、筆が喉を痛めてしまうことから、関係性がひっくり返っており、読む者に驚きを与えている。しかも、クレヨンが折れてしまったことは、少なからず経験した者もいるだろうし、使い古した筆の毛が根元(“喉”に該当する部分)から傷んで広がってしまった者もいるだろう。身に覚えのある経験が、説得力を齎しているようだ。 >私の指先はまだ赤を奏でないし >弦は退屈そう ここで急に“赤”が登場する。赤色と言えば、血の色である。私はとあるギタリストと握手をしたことがあるのだが、そのギタリストの指先は絆創膏に巻かれていた。指先から血が流れるほど練習しているのである。ギターピックを使っていても指先を痛めてしまうらしい。赤を奏でるとは、どういうことか? 血を奏でるとすれば、血でもって書け、というニーチェの言葉が思い出される。血を吐くように書け、と。 >私の指先はまだ赤を奏でないし この“まだ”と言うのがポイントで、向上心が窺える。まだまだ、まだまだだと。それも、“弦は退屈そう”と言ってしまう。即ち、弦を退屈させたくないからこそ、生まれる言葉である。ストイックな一面が見えてくるようだ。ストイックな人にしか書けないフレーズであることに間違いはない。 >鉄腕アトムは悪い心を持たないらしい >だから欠陥品だと作者は言う ネット検索して判明したことだが、漫画の神様である手塚治虫の残した言葉に、“鉄腕アトムは完全ではない。何故なら悪い心を持たないからだ”というのがある。漫画もまたアートである。悪い心を持たないことから純朴さが伝わり、ストイックな人の純朴さに関連していると思った。アート活動に没頭する人の純朴さ。そして、自分の中に“欠陥”を抱えているからこそ、まるでその“欠陥”を埋めるように私たちは、詩を書き、絵を画き、楽譜を書いているのではないか。皮肉と言うよりも、何か悲しげな達観を感じる。それは、やはり作中主体自身へと向けた言葉でもあるからだろう。 >私の指先はまだ赤を奏でないし >弦は退屈そう と前もって書かれてあるから、“欠陥品”という言葉が嫌味に聞こえなかった。当事者感覚が込められているからだと思う。しかしながら、、、、、最後、、、、、、、 >私は理想を変えた >目の前の景色と >吐く息を感じるために 辛い。寂しいよ! 何でそんなこと言うんだい……。目の前の景色、そして、吐く息、即ち、現実のことである。現実を、きちんと、感じるために。これからは、現実を見ようという、決意表明。清々しい。本当にそうなんだろうな、と感じさせる。切り替えていく強さ。でもそれが、責任の取り方なんだろう。別れた後に「じゃあね」とスッと去っていく女性陣の強さに、私、いや、俺は何度落ち込んできたことか!(実話)そりゃ、時間がもったいないよな。とにかく現実的だし、自分で自分のことを分かってしまうのは、目を逸らさずに自分自身と向き合っているからだろう。応援していたインディーズレーベルのバンドマンが自身の活動に見切りをつけ、しかもこれまでの活動を黒歴史とし、完全なる一般人へと溶け込んでいった、あの時の寂しさを思い出す(実話パート2)。 この作品、この詩を読み終えると、自分はどうなんだろうなって反省してしまう。俺なんかもう何年も書いてきてしまったし、もう本当に何やってんだろうなと思う。そう思いながら書き続けてしまうことは、やはり無責任なんだろうか……。書き続けてしまうのは、満足していないからだ。飽きたとは、言い換えれば、満足したということ。なぜ飽きないか、満足したことがないからだ。しかしながら、実際に、満足することがあるだろうか? もしかすると、満足することは、不可能な白昼夢かもしれないのだ。恐らく、作中主体だって満足はしていないだろう。満足していないのに、アート活動に見切りをつけ、生き方を変えることができる。潔い。そもそもが、満足するなんて、不可能なんだ。際限がないんだよ。 全て私の妄想的な解釈であるのを最後に断って、筆を置く。〈了〉
【あまりにも立体的な】手相アート【感動的な傑作】 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1010.9
お気に入り数: 1
投票数 : 0
作成日時 2021-05-07
コメント日時 2021-05-07