詩の日めくり 二〇一五年十一月一日─三十一日 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

大人用おむつの中で

すごい

これ好きです 世界はどう終わっていくのだろうという現代の不安感を感じます。

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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詩の日めくり 二〇一五年十一月一日─三十一日    

二〇一五年十一月一日 「海に戻る。」 ぼくはまだ体験したことがないのだけれど、おそろしい体験だと思うことがある。自分がどの時間にも存在せず、どの場所にも存在せず、どの出来事とも関わりがないと感じることは。どんなにつらい体験でさえ、ぼくはその時間にいて、その場所にいて、そのつらい出来事と遭遇していたのだから。 詩があるからこそ、季節がめぐり春には花が咲くのだ。詩があるからこそ、恋人たちは出合い、愛し合い、憎み合い、別れるのだ。詩があるからこそ、人間は生まれ、人間は死ぬのだ。詩があるからこそ、事物や事象が生成消滅するように。つまり、詩が季節をつくり、人間をつくり、事物や事象をつくるのだ。 奪うことは与えること。奪われることは与えられること。与えることは奪うこと。与えられることは奪われること。若さを失い、齢をとって、健康を損ない、うつくしさを失い、みっともない見かけとなり、若いときには知ることのなかったことを知り、そのことを詩に書くことができた。 ぼくが天才だと思う詩人とは、遭遇の天才であり、目撃の天才であり、記述の天才である。遭遇と目撃は同時時間的に起こることだが、遭遇と目撃から記述に至るまでは、さまざまな段階がある。さまざまな時間がかかる。ときには、いくつものことが合わさって書かれることもある。何年もかかることもある。 純粋な思考というものは存在しない。つまり、あらゆる思考には、きっかけとなるものがあるのだ。たとえば、偶然に目にした辞書の言葉との遭遇であったり、読んでいた本に描かれた事柄とはまったく違ったことを自分の思い出のなかで思い出したものであったりするのだ。きっかけがなく、思考が開始されることはない。なぜなら、人間の脳は、思考対象が存在しなければ、思考できないようにつくられているからである。したがって、遭遇と目撃と記述の3つの要素についてのみ取り上げたが、解析には、その3つの要素で必要十分なのである。 そうだ。詩が書くので、太陽が輝くことができるのだし、詩が書くので、雨が降ることができるのだし、詩が書くので、川は流れることができるのだし、詩が書くので、ぼくが恋人と出合うことができたのだし、詩が書くので、ぼくは恋人と別れることができたのだ。 そうだ。詩が書くので、ぼくたちは生まれることができるのだし、詩が書くので、ぼくたちは死ぬこともできるのだ。もしも、詩が書くことがなければ、ぼくたちは生まれることもできないし、詩が書かなければ、ぼくたちは死ぬこともできないのだ。 こんなに単純なことがわかるのに、ぼくは54歳にならなければならなかった。あるいは、54歳という年齢が、ぼくにこの単純なことをわからせたのだろうか。たぶん、そうだ。単純なことに気がつかなければならなかった。気がつかなければならないのは単純なことだった。 さっき、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、読むのを途中でやめたのだった。自分でもドキドキするようなことを書いていて、自分だからドキドキするのかな。でも、完全に忘れてることいっぱい書いていて、ことしの2月のことなのにね。すごい忘却力。 ディキンスンやペソアのことを、さいきんよく考える。彼女や彼がネット環境にあったら、どうだったかなとも考える。まあ、なんといっても、ぼくの場合は、詩は自分自身のために書いているので、発表できる場所があれば、それでいいかなって感じだけど。詩集も出せてるしね。 目を開かせるものが、目を閉じさせる。こころを開かせるものが、こころを閉じさせる。意味を与えるものが意味を奪う。喜びを与えるものが喜びを奪う。目を閉じさせるものが、目を開かせる。こころを閉じさせるものが、こころを開かせる。意味を奪うものが意味を与える。喜びを奪うものが喜びを与える。 小学校の3年生のときくらいに好きだった友だちのシルエットが、いまだに目に焼き付いて離れない。あしが極端に短くて、胴が長い男の子だった。あのアンバランスさが、ぼくの目には魅力的だったのだ。当時は、うつくしいという言葉を使うことはなかった。逆光で、真っ黒のシルエット。顔は記憶にない。 これからお風呂に入って、レックバリの『人魚姫』を読もう。ペソアの『ポルトガルの海』かなりお気に入りの詩集になりそうだ。いまのところ、はずれの詩がひとつもない。よく考えてつくってある。ペソアは自分自身のことを感じるひとだと思っていたかもしれないが、考えるひとだったと思う。徹底的に。 お風呂から上がった。ペソアの『ポルトガルの海』のつづきを読もう。財布にはもう58円しか残っておらず、ドーナツひとつも買えない。あした銀行に行こう。 詩が、ぼくの目が見るもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの目は、ぼくが見るもののことを見ることができるのだ。詩が、ぼくの耳が聞くもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの耳は、ぼくの耳が聞くもののことを聞くことができるのだ。詩が、ぼくの手が触れるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの手は、ぼくの手が触れるものを触れることができるのだ。詩が、ぼくのこころが感じるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくのこころは、ぼくのこころが感じるものを感じることができるのだ。詩が、ぼくの頭が考えるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの頭は、ぼくの頭が考えるもののことにについて考えることができるのだ。詩が、ぼくに、目を、耳を、手を、こころを、頭を与えてくれたのだ。詩がなければ、ぼくは、目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、こころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、頭を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、見ることができる目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、聞くことができる耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、触れることができる手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、感じることができるこころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、考えることができる頭を持たなかっただろう。 ナボコフの『アーダ』の新訳はいつ出るんだろうか。 休みがつづくと、油断してしまうからか、クスリの効きがよくて、お昼も何度か眠ってしまった。つぎの日が仕事だと思うと、あまり眠れないけれど。眠れるクスリがなければ、ぼくなんか、とっくに死んじゃってると思う。まあ、詩がなかったら、精神的に死んじゃってるだろうけれど。詩があってよかった。 ペソアか。はやってるときに、名前は知ってたけど、はやってるって理由で避けてたけど、いいものは避けつづけることはできないみたいね。平凡社から出てる新編『不穏の書、断片』もよかったけど、思潮社の海外詩文庫の『ペソア詩集』も『ポルトガルの海』も、とってもいい。あと1冊、いちばん高かった『不安の書』が本棚にあって、これも楽しみ。『ポルトガルの海』に収録されているもの、いくつも、海外詩文庫の『ペソア詩集』で澤田 直さんの訳で読んでてよかったと思っていたけど、翻訳者が変わって、訳の雰囲気がちょっと違っててもいいものなんだなって思った。『不安の書』の訳者は、高橋都彦さんで、ラテン・アメリカ文学も訳してらっしゃったような気がする。リスペクトールだったかな。透明な訳だった記憶がある。まあ、リスペクトールのモチーフ自体、無機的なものだったけど。言葉が肉化していない、でもいい感じだった。 ぼくの詩が、ぼくに教えてくれるって、変かなぁ。ぼくの詩が、だろうか。ぼくの書いた詩句が、ぼくに、ほらね、その言葉の意味は、この言葉とくっつくと、ぜんぜん違ったものになるんだよとか、こういうふうに響くと、おもしろいだろとか、いろいろ教えてくれるのだ。あ、そうか。いま、わかった。自分の書いたもので学ぶことができるようになったんだ。めっちゃ、簡単なことだったんだ。というか、いままでにも、自分の書いた詩句から学んでいたと思うけれど、いまはっきり、それがわかった。わかって、よかったのかな。いいのかな。いいんだろうね。主に翻訳を通してだけど、世界じゅうのすばらしい詩人や作家たちから学んでいたけど、ぼく自身からも、いや、ぼくじゃないな、ぼくが書いた言葉からも学べるんだから、めっちゃお得なような気がする。これまで、めっちゃお金、本代に費やしたもんね。『ポルトガルの海』に戻ろう。海に戻ろうって、まるでウミガメみたいだな。ウミガメは、しばらくのあいだ、ぼくのこころをそそるモチーフの1つだった。ウミガメ、カエル、コーヒー、ハンカチーフ、バス、花、猿、海。ここに、こんど、思潮社オンデマンドから出る3冊の詩集で、サンドイッチが加わる。 あ、電話を忘れてた。電話を忘れるっていいな。しなきゃいけない電話を忘れるのは、シビアな場面もあるけど、しなきゃいけないような電話じゃない電話を忘れるのは、いいかも。しなくていい電話を忘れる。ここ5、6年。恋人がいなくて、そんな電話のこと、忘れてた。恋人には、電話しなきゃいけないのかな。でも、ぼくは自分から電話をかけたことが一度もなくって。こういうところ、消極的というか、感情がないというか、感情がないんだろうな。相手の気持ちを優先しすぎて、そうしちゃってるんだろうけれど、逆だったかもしれない。 海に戻る。 二〇一五年十一月二日 「あの唇の上で、ほろびたい。」 銀行に行こう。財布に58円しかなくって、朝ご飯も食べていない。きょうも一日、ペソアの詩を読もう。 えっ、えっ、あした休日だったの? 知らなかった。知らなかった。知らなかったー。ペソアの詩集、ゆっくり読めるじゃんかー。カレンダー見ても信じられない。あしたが休日だったなんて。ツイートにあした祝日だと書いてらっしゃる方がいらっしゃったから気づけたけど、もしそのツイート目にしなかったら、明日、学校行ってたわ。もうちょっとで、バカしてた。なんか一日、得したような気分。5連休だったんだ。どこにも出かけず、原稿のゲラチェックと詩集の読みとレックバリ読んだだけ。 言うことなく言う。 伝えることなく伝わる。 することなくする。 見ることなく見る。 合うことなく合う。 聞くことなく聞く。 噛むことなく噛む。 理想が理想にふさわしい理想でないならば、現実が現実にふさわしい現実である必要はない。 きょうは、CDを2枚、amazon で買った。soul II soul の2枚だ。ファーストが42円。5枚目が1円だった。送料が2つとも350円だったけれど。 誰に言うこともなく言う say half to oneself 誰にともなく言う ask nobody in particular say to nobody in particular 誰言うともなく of itself The rumour spread of itself. その風説は誰言うとなく広まった。 ほんのちょこっと違うだけで、ぜんぜん違う意味になってしまうね。日常、自分が使っている言葉も、しゃべっているときに、書いているときに、微細な違いに気がつかないでいることがあるかもしれない。時間はふふたび廻らないのだから、ただ一度きり、注意しなきゃね。 その詩句に、その言葉に意味を与えるのは、辞書に書いてある意味だけではない。また、その言葉がどのような文脈で用いられているのかということだけでもない。読み手がその詩句を目にして、自分の体験と照らし合わせて、その詩句にあると思った意味が、そこにあるのである。 ルーズリーフ作業をしていると、書き写している詩句や文章とは直接的には関係のない事柄について、ふと思うことが出てきたり、考えてしまうようなことになったりして、楽しい。書き写すことは、ときには煩雑な苦しい作業になるけれど、自分の思考力が増したなと思えるときには、やってよかったと思う。 このあいだゲーテのファウストの第一部を読み直したときにメモをしたものをまだルーズリーフに書き写してなくて、そのメモがリュックから出てきたのだけれど、ゲーテすごいなあって思うのは、たいてい、汎神論的なところだったり、理神論的なところだったりしたのだけれど、次の詩句に驚かされた。 あの唇の上で ほろびたい (ゲーテ『ファウスト』第一部・グレートヒェンのちいさな部屋、池内 紀訳) 二〇一五年十一月三日 「いまが壊れる!」 悪徳の定義って、よくわからないけど、いまふと、ドーナツを1個買ってこよう。これはきょうの悪徳のひとつだ。と思った。BGMはずっとギターのインスト。高橋都彦さんの訳された『不安の書』のうしろにある解説や訳者の後書きを読んでいた。この解説によると、ペソアもそう無名ではなかったみたい。新聞にも書いていたっていうから、無名ではないな。無名の定義か。なんだろ。生きているあいだにまったく作品が世のなかに出なかったということでいえば、たしか、アメリカの画家がいて、部屋中にファンタジーの物語にでてくる人物たちを描いてた人がいたと思うけど。名前は忘れてしまった。その人が亡くなってはじめて、その絵が発見されたっていう話を、むかし読んだことがある。その人は、描くことだけで、こころが救われていたんだね。なんという充足だろう。きっと無垢な魂をもった人だったんだろね。ぼくはドーナツ買いに行く。 ドーナツを買いに行くまえに、来週、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、驚いた。とても美しい詩句を書いていたのだ。 こんなの。 二〇一五年三月三十一日 「ぼくの道では」 かわいた 泥のついた ひしゃげた紙くずが 一つの太陽を昇らせ 一つの太陽を沈ませる。 「一つの」を「いくつもの」にした方がいいかな。ドーナツ買ってきてから、ドーナツ食べてから考えよう。 冒頭の「かわいた」は、いらないな。取ろうかな。 いつも買ってるドーナツ、チョコオールドファッションなんだけど300カロリー超えてたのね。いま買った塩キャラメル200カロリーちょっとで、カロリー低いの、びっくりした。見かけは、もっとカロリーありそうなのに。ドーナツ食べたら、お風呂に入って、レックバリの『人魚姫』のつづきを読もう。 なるべくカロリーの低そうなおやつを買いに行こう。とうとう、高橋都彦さんの訳された『不安の書』に突入。高橋都彦さんの訳文は、リスペクトールの翻訳以来かな。 やさしいひとは、手の置き方もやさしい。FBフレンドの写真を見ていて、友だち同士で写ってる写真を何枚か見ていて、友だちの肩のうえに置く手の表情をいくつか見ていて、気がついたのだ。やさしいひとは徹頭徹尾やさしくて、手の指先から足の爪先まで、全身にやさしさが行き渡っているのだと思った。 雨の音がする。ピーター・ディキンスンの『緑色遺伝子』の表紙絵を拡大して、プリントアウトして、ルーズリーフのファイルの表紙にしている。透明のファイルで、自分の好きな絵や写真をカヴァーにできるものなのだ。本とか、文房具とか、美しくなければ、こころが萎える。美が生活の多くを律している。 いま、FBフレンドの画像付きコメントを自動翻訳して笑ってしまった。画像は、ヨーグルトを手に、困った顔つきのドアップ。「今日病欠日下痢、リズは密かに私の食べ物に唾を吐き 80% だか分からない! 道に迷いました! 食べることができない! ハンサムなが惨めです」(Bingによる翻訳)もとの文章を推測してみよう。「きょう、下痢で欠勤した。リズが、密かに、ぼくの食べ物のなかに唾を吐いたのだ。これは、80パーセントの確率で言っている。道に迷い子がいた。食べることができなかった。ハンサムな男の子だったけど、見なりがみすぼらしかった。」あ、80パーセントを入れるのを忘れていた。友だちのリズが下痢で欠勤したのだが、ばい菌だらけの唾を吐きながら道を歩いていると、かわいらしい男の子が迷い子になっていたので、80%食べた。でもリズの食べ方は汚らしくて、食べ残しの残骸が道に散らばっていた。まるで詩のような情景だ。友だちだか恋人かわからないけれど、その子に自分の食べ物のうえに、ばい菌だらけの唾を吐かれて、下痢になってしまって、道を見ると、迷い子の男の子がいて、魅力的だったのだが、食べることができないくらいに汚らしかったというのである。いいね!して、get better soon って、コメントしておいた。FBフレンド、はやく下痢が治まって食欲が戻ればいいな~。リズくんの唾のばい菌も、はやくなくなってほしい。80%食べられた迷い子の男の子も、そのうち生き返ってくればいいかもね~。 目が壊れるよりさきに、目が見るものが壊れる。口が壊れるよりさきに、口が食べるものが壊れる。鼻が壊れるよりさきに、鼻が嗅ぐものが壊れる。耳が壊れるよりさきに、耳が聞くものが壊れる。手が触れるよりさきに、手が触れるものが壊れる。頭が壊れるよりさきに、頭のなかに入ってくるものが壊れる。 目に見えるものよりさきに、目が壊れる。口に入ってくるものよりさきに、口が壊れる。鼻に入ってくるものよりさきに、鼻が壊れる。耳に聞こえてくるものよりさきに、耳が壊れる。手が触れるものよりさきに、手が壊れる。頭のなかに入ってくるものよりさきに、頭が壊れる。 壊れるのなら、いま! いまが壊れる。 そろそろクスリのもう。さいきん、クスリの効きがよくない。あと、数十分、起きていよう。5連休、ほとんどペソアの詩集を読んでいた。詩集のゲラチェックをしていた。ギャオで、いくつか映画を見た。これくらいか。きのう、友だちとマンションの玄関で顔を合わせたけど、挨拶しなかった。なぜだろう? ドイルの『シャーロック・ホームズ』もののパスティーシュを書いてみたい。詩人の探偵と、詩人の探偵助手と、詩人の犯人と、詩人の被害者と、関係者がみんな詩人のミステリーだ。ホームズ作品からの引用による詩論の準備はしてあるので、詩論は、そのうちいつか、いっきょに書き上げたいと思っている。 40年以上もむかし、子どものころに好きな遊びに、ダイヤブロックがあった。いろいろな色の透明のものが美しかった。それらを組み合わせて、いろいろなものをつくるのが好きだった。ときどき新しいダイヤブロックを買い足していた。ぼくの詩のつくり方だと思っていた。ぼくの自我の在り方だったのだ。 あくびが出た。寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月四日 「詩人賞殺人事件」 あさ、お風呂に入りながら、シャーロック・ホームズのパスティーシュ『詩人殺人事件』のことを考えていた。引用をむちゃくちゃたくさん織り込んでつくりたい。犯人と動機は考えた。場所も考えた。殺し方も二つ考えた。無名の詩人の殺人をテーマにした詩篇通りに殺されていくことにしたらいいと思った。実名は、「田中宏輔」のみ。その殺人詩篇の作者として登場させればいいかなと思う。ノイローゼで自殺した詩人として登場させようかなと思っている。まず、殺人詩篇を完成させよう。10人くらい死なせようかな。死なせる詩人の名前がむずかしいな。すでに亡くなった詩人の名前を使えばいいかな。いや、遺族から文句がくるから、有名なミステリーの犯人や探偵の名前を使って変形しようかな。悪路井戸さんとか。ひゃはは。おもしろそう。持ってるミステリーで、犯人や被害者の名前を調べよう。あ、時間だ。これから仕事に行く。『詩の日めくり 二〇一四年六月一日─三十一日』に入っている、指をバラバラに切断して、首を切断する「切断喫茶」を真っ先に思い出した。指を切断して違う指につけて回転させて会話させたり、首をつけかえるの。ぜひ、殺人詩篇に入れたい。というか、入れるつもり。通勤時間に、殺される詩人の数を4人に減らして、ひとりひとりのプロフィールを考えてた。ひとりは東京人で、詩の雑誌の会社の近くに住んで編集者と密に連絡を取り合い、お酒などもいっしょに飲むフランス文学者で、代表作品が、村野四郎の『体操詩集』ならぬ、『ダイソー詩集』で、100円ショップで買った品物についての感慨に、フランス思想家の名前とジャーゴンをちりばめたもので、その東京の詩人の詩集はたいてい、そういうもので、あと、代表的な詩集に、『東京駅』とか、『三越デパート』とかがある。あとの3人のうちの一人は三河出身の詩人で、語尾に、かならず、「だら~」という言葉をつける。あ、さきの東京人の詩人は、しゃべるときに、かならず、「おフランスでは~」をつけてしゃべる。あと2人の詩人だが、あとの2人は女性詩人で、ひとりは広島出身の詩人で、語尾にかならず「~け」をつける。残ったひとりの詩人は、京都の詩人で、語尾に、かならず「~どすえ」をつける。じっさいの詩の雑誌の編集者には、3人ほどの方と会っているが、その3人の方は、詩に対して真摯な方たちだったと思うが、ぼくが書く予定のものに出てくる編集者は、まったく詩に関心のない編集者たちにしようと思う。あと、殺人現場は、詩の賞が授与される詩の賞の授賞式会場のあるホテルの部屋で、連続殺人が起こることにする。殺され方は、2つまで考えた。ひとつは、けさ書いたように指を関節ごとに切断して首を切断するもの。あとひとつは毒殺なのだけれど、毒が簡単に手に入らないので、食塩を食べさせて殺そうとするのだけれど、まあ、コップに半分くらいの量で致死量になったかなと思うのだけれど、じっさい、むかし、京都の進学高校で、体育競技のさいに、コップに入った食塩を飲ませるものがあって、病院送りになったという記録を、ぼくは毒について書かれた本で読んだことがあって、そこには、ほとんどあらゆるものに致死量があると書かれてあったのだけれど、食塩を毒にしようとして飲ませようとするのだが、詩人が抵抗するので、指を鉛筆削りのようにカッターで肉をそぎ落としていって、食塩を飲み込ませるというもの。これで、2つの殺し方は考えた。あと、2人の殺し方を、きょう、塾から帰ったら考えよう。殺人者は、編集者のひとりである。自殺した無名の詩人「田中宏輔」の弟である。4人の詩人のプロフィールや、各詩人の作品も考えようと思う。連続殺人ができるのは、殺人者が編集者だったからである。殺された詩人たちは、まさか編集者が殺人者だとは思わずに部屋に入れてしまって、殺されてしまったというわけである。殺人を犯す編集者の名字も田中であるが、ありふれた名前だし、母親が違っていて、顔がまったく似ていなかったので、『殺人詩篇』の作者と編集者とを結びつけることができなかったのだということにしておく。一日で考えたにしては、かなり映像が見えてきている。もっとはっきり見えるように、より詳細に詰めていきたい。探偵と探偵助手のことも考えよう。 地下鉄烏丸線:京都駅で乗客がごそっと減るのだが、まんなかあたりに座っていた女性の両隣とその隣があいたのに驚いたような表情を見せた彼女の顔が幽霊の役をする女優のような化粧をしていた。表情も生気のない無表情というものだったが、電車が動き出すと、まるで首が折れかねないくらいの勢いで首を垂れて居眠りしだした。あさに遭遇する光景としたら、平凡なものなのだろうが、ぼくの目にはマンガのようにおもしろかった。地下鉄の最終駅までいたら、まだ観察できるかもしれないと思ったのだが、最終の竹田ではなく、そのまえのくいな橋で降りた。降り方は、べつにふつうだった。駅名がアナウンスされると、目覚めたかのように顔を上げ、目を見開いて窓のそとに目をやり、電車がとまるまで目を見開いたまま、電車がとまるとゾンビが動き出すような感じで腰を上げてドアに向かって歩き出したのである。竹田駅で降りてほしかったな。 『詩人連続殺人』にするか、『詩人賞殺人事件』にするか迷ってるんだけど、まあ、あと、ふたつの詩人の殺し方は、塾への行きしなと、塾からの帰りしなに考えてた。撲殺と溺死がいいと思う。ひとを殴ったこともないので、どう表現すればいいのかわからないけれど、とりあえず殴り殺させる。詩の賞のトロフィーを見たいと言った詩人に、トロフィーを持って行った編集者の犯人が殴りつけるということにしたい。トロフィーに詩人が愛着を持つ理由も考えた。自分自身がその賞を以前に受賞したのだが、以前に家が火事になり焼失したことにする。手で直接殴ると、たぶん、手の骨というか、関節が傷むので、手にタオルを巻いた犯人がトロフィーを、詩人の頭にガツンガツンとあてて殴り殺させようと思う。溺死は、ヴァリエーションがあればいいかなと思って考えたのだけれど、溺死はかなり苦しいらしいので、ひとの死に方を描く練習にもなると思う。どれもみな、経験はないけれど、がんばって書きたい。そだ。指の切断はかなりむずかしそうなので、祖母の見た経験を使おう。祖母から直接に聞いた話ではないけれど、生前に、父親が語ってくれた話で、戦前の話だ。祖母の、といっても、父親がもらい子だったので、ぼくとは血のつながりがないのだけれど、祖母の兄がやくざのようなひとで、じつの妹を(祖母ではない妹ね)中国に売り飛ばしたりしたらしいのだけれど、妹のひとりが間男したらしくって、その間男を風呂場に連れていって、指をアルミ製の石鹸箱にはさませて、踵で、ぎゅっと踏みつけて、指を飛ばした(こう父親が口にしてた)のだという。指がきれいに切断されていたらしい。たしかに、ペンチかなにかで切断しようと思うと、手の指の力でやるしかないけれど、足の踵で踏みつけるんだったら、手の指の力の何倍もありそうだものね。指の切断もむずかしくはなさそうである。きょうは、殴り殺す場面をより詳細に頭に思い描きながら寝るとしよう。被害者の詩人は、女性詩人よりも男性詩人のほうがいいかな。溺死は女性詩人が似合うような気がする。髪の毛が濡れるというのは、なんとも言えない感じがする。そいえば、お岩さんとか、髪の毛、濡れてそうな感じだものね。濡れてないかもしれないけど。撲殺は男性詩人、溺死は女性詩人がいいかな。男女平等に、4人の詩人たちのうち、男女2人ずつである。指と首の切断を、どちらにするか。あと毒殺をどちらにするか。とりあえず、きょうは撲殺のシーンを思い浮かべながら寝よう。ぼくが唯一、知ってるのは、知ってると言っても、文献上だけれど、『ユダヤの黄色い星』というアウシュビッツなどで行われた拷問や虐殺の記録写真集だけれど、死刑囚にユダヤ人たちを殴り殺させたものだ。あ、人身売買だけれど、戦前はふつうにあったことなのかな。父親からの伝聞で確証はないんだけれど、あったのかもしれないね。しかし、貴重な伝聞事項であった。犯人にアルミの石鹸箱を用意させよう。祖母の遺品とすればいいかな。むかし付き合ってたヒロくんといっしょに見た『ヘル・レイザー』がなつかしい。血みどろゲロゲロの映画だった。きょうの朝、きょうの昼、きょうの夜と、頭のなかは、『詩人連続殺人』または『詩人賞殺人事件』のことで、いっぱいだった。あとは、探偵役の詩人と、探偵助手役の詩人の人物造形だな。作品の語りは編集長にさせる予定だ。犯人はその編集長にいちばん近い編集者である。あ、東京人の詩人に知り合いがおらず、東京人の喋り方がわからないので、語尾に、「~ですますます」をつけることにした。頭に思い描く撲殺シーンに飽きたので、ペソアの『不安の書』のつづきを読んで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月五日 「濡れた黒い花びら」 2015年10月22日メモから 詩には形式などない。あるいは、こう言った方がよいだろう。詩は形式そのものなのだ。 仕事帰りに、四条のジュンク堂に寄って、チャールズ・シェフィールドの『マッカンドルー航宙記』を買った。店員が本を閉じたまま栞をはさんだので、本のページが傷んでしまった。激怒して注意した。もちろん、本の本体は交換してもらった。本を閉じたまま栞をはさむなんて正気の沙汰ではない。 エズラ・パウンドの『地下鉄の駅で』という詩は、もう何度も読んだことのあるものだった。つぎのような詩だ。 人混みのなかのさまざまな顔のまぼろし 濡れた黒い枝の花びら (新倉俊一訳) トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を授業の空き時間に読んでいると、その141ページに、〝黒く濡れた枝についた花びら〟(エズラ・パウンドの短詩)と割注が付いた詩句が引用されていて、パウンドの詩集を調べて確認した。(自分の詩集ではなく、仕事場で確認するために勤め先の図書館で借りた詩集で)すっかり忘れていた。何度も読んでいた詩なのに。 こんど11月10日に思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかに、ジャック・ウォマックの『ヒーザーン』から「濡れた黒い枝の先の花びらなどなし」(黒丸 尚訳)という言葉を引用しているのだが、この言葉のもとには見た記憶があったのだが、禅の公案か、なにかそういったものだと思っていたのだったが、公案で検索したが探し出せなかったのであるが、そうか、パウンドだったのだと、自分の記憶力のなさに驚かされた次第である。めちゃくちゃ有名な詩なのにね。 ところで、帰りの電車のなかで、「濡れた黒い」と「黒く濡れた」では意味が違うのではないかと思った。木の枝が雨に濡れたかなんかして、水をかぶると、灰色だった枝まで黒く見えることがあるけれど、さいしょから黒い枝もある。濡れて黒いのか、黒くて濡れたのか、どっちなんだろうと思って、帰って部屋で原作の英詩を調べた。 IN A STATION OF THE METRO The apparition of these faces in the crowd; Petals on a wet, black bough. さて、どっちかな? さて、これから塾。 いま塾から帰った。パウンドのものだ。もとから黒い枝のような気がするけど、濡れるともっと黒くなるよね。どだろ。 ニコニコキングオブコメディを見てる。塾の帰りに今野浩喜くんに似ている青年がバス停にいるのを目にする。しじゅういるけれど、ぼくの塾の行帰りの時間に。かわいい。西大路五条の王将で皿とか洗ってる男の子だ。まえに王将で食べてたら、奥で皿を洗ってた。 二〇一五年十一月六日 「soul II soul」 apprition には、出現のほかに、幽霊、おばけという意味があるので、新倉さんは後者に訳されたんでしょうね。どちらの訳も可能ですから、どちらもありうる訳なんでしょうね。きのう地下鉄で見た女性の表情は幽霊に近かったです。パウンドの目にもそう映ったのでしょうか。言葉が豊富な語彙を持っているので、多様な訳というのがあるのでしょうね。このことは翻訳のさいには逃れられないことであると同時に、文化を豊かにするものでもあると思っています。たくさんのひとの同じ原作の英詩の訳が読んでて楽しい(ときには腹立たしい)理由でもあります。イメージがはっきりしてそうで、じつはそうでないかもという気もしてきました。というのも、パウンドが見た顔が、どんな顔たちだったかはっきりしないからです。こうして、顔のところはわかりませんが、花のところは、原文より日本語訳の方が、ハッとする感じのような気がしますね。 きょうは塾がないので、数日ぶりに、ペソア詩集(高橋都彦訳)を読もう。そのまえに、ニコニコキングオブコメディをもう一回、見よう。 圧力をかけて、人間を重ねて置いておくと、そのうち混じり合う。吉田洋一と高山修治と原西友紀子と川口篤史をぎゅっと重ねて置いておくと、二日ほどすると、吉山口修と山子原史と篤田友紀治と洋西史高になる。四日ほどすると、‥‥‥ 16世紀に現われた絶対王政の国王で、最盛期の大英帝国の基礎を築いたのはだれか、つぎの①から④のなかから選びなさい。 ①吉田洋一 ②高山修治 ③原西友紀子 ④川口篤史 吉田洋一と高山修治は同じ日に死んだ。飛び降り自殺である。二人は恋人同士だった。心中である。 原西友紀子は吉田洋一の3週間前に死んだ。吉田洋一は川口篤史ともいっしょに死んだ。交通事故である。二人の運転していた車が正面衝突したのだった。なぜ、原西友紀子が一人で死んだのか答えなさい。 食べるママ。お金を入れると食べるママ。しゃべるママ。お金を入れるとしゃべるママ。比べるママ。お金を入れると比べるママ。食べないママ。お金を入れないと食べないママ。しゃべらないママ。お金を入れないとしゃべらないママ。比べないママ。お金を入れないと比べないママ。 ママを食べる。お金を出してママを食べる。ママにしゃべる。お金を出してママにしゃべる。ママを比べる。お金を出してママを比べる。ママを食べれない。お金を出さないとママを食べれない。ママにしゃべれない。お金を出さないとママにしゃべれない。お金を出さないとママを比べられない。 来週、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』を読み直してたのだけれど、ほんとうにくだらないことをいっぱい書いていた。詩はくだらないものでいいと思っているので、これでいいのだけれど、ほんとうにくだらないことばっかり書いてた、笑。生きていることも、ほんとうにくだらないことばっかだ。 soul II soul のアルバムが届いて、そればっか聴いてる。soul II soul も、くだらない音だ。だらしない、しまりのない、くだらない音だ。でも、なんだか、耳にここちよいのだ。瞬間瞬間、いっしょうけんめいに生きてるつもりだけど、くだらないことなんだな、生きてるって。 soul II soul のアルバムを Amazon で、もってないもの、ぜんぶ買った。といっても、もってるものと合わせても、ぜんぶで5枚だけど。いまのぼくの身体の状態と精神状態に合うのだろう。身体の節々が痛いし、身体じゅうがだるい。ずっと頭がしびれている。死んだほうがましだわ。 トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)がとてもおもしろいのだけれど、主人公が探している女性の姿がなぜ現われたのか、読んでる途中でわからなくなって、数十ページ戻って読み直すことにした。記憶障害かしら。一文字も抜かさずに読んでいるのに、重要なことが思い出せないなんて。 トマス・スウェターリッチの『明日と明日』150ページまで読み直して、ようやく思い出せた。おもしろい。ペソアは、あと回しにしよう。 月曜日は、えいちゃんと焼肉。あとは、ずっと本が読める。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。エリオット、パウンドの詩句とか、話とか、英語圏の現代詩人の詩句が続出(でもないかな、でも、すごいSF)。ぼくもこんなの書きたいな。 数の連続性の話は微分と絡んでいるのだけど、微分では納得できないことがいくつもあって、もう一度、数の連続性について勉強し直そうと思う。ごまかされている感じが強いのだ。 大谷良太くんちに行ってた。学校の帰りに、大谷くんとミスドでコーヒーとドーナッツ食べて、くっちゃべって、そのまま大谷くんちで、お茶のみながら、くっちゃべって、晩ご飯にカレーうどんをいただいて、くっちゃべってた。 帰りにセブイレでサラダを買ってきたので、食べて寝よう。あしたは、『明日と明日』のつづきを読もう。 二〇一五年十一月七日 「20円割引券」 雨がすごい。むかし雨が降ったら、ああ、恋人が通勤でたいへんだなと思ったものだが、別れたいまでも、たいへんだなと思ってしまう。別れたら、そんな感情はなくなるのがふつうのことみたいに聞くけれど、どうなんだろうか。ぼくのような気持ちの在り方のほうが、ぼくにはふつうのような気がするけど。 ようやく起きた。これからフランスパンを買いに行く。帰ったら、スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。一文字も見逃せない作品だ。すごい。 コーヒーとドーナッツを買ってこよう。20円引きのレシート兼割引券を持っていこう。貧乏人には、こういうのが、うれしい。 トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)における誤植:280ページ1行目「両目も切り開かれていて、網膜レンズがとたれていた。」 これは、「網膜レンズもとられていた。」の間違いだろう。ハヤカワ文庫の仕事は、岩波文庫と同様に一流の校正係の人間に見せなきゃいけないと思う。 これからスーパーに晩ご飯を買いに行く。終日、soul II soul 聴いてる。 そいえば、きょうの夜中に、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する予定の新しい『詩の日めくり』も、soul II soul みたいな感じかもしれない。 二〇一五年十一月八日 「明日と明日」 トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読み終わった。すばらしい小説だった。スウェターリッチが参考にしたという、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』を、これから読む。買い置きしてる小説がいっぱいあるので、当分、なにも買わないでおきたい。買うだろうけれど、笑。 きょうは、これから、えいちゃんと焼肉屋さんに行く。雨、やんでほしい。 えいちゃんとの焼肉から帰ってきたら、電話があって、M編集長かしらと思ったら、先週、道で声をかけてくれた前に付き合ってた子からだった。で、いっしょに部屋で映画見て、お互い、体重が重いから減らそうねって話をして、いまお帰り召された。きょうの残りの時間は読書しよう。 あしたは夕方から塾だけど、それまでは時間があるから、たっぷり読書できる。しかし、きょう読み終わったトマス・スウェターリッチの『明日と明日』はよかった。帯に書いてあった、ディックっぽいというのは、『暗闇のスキャナー』の雰囲気のことかな。たしかに、読後感は近い感じがする。 スウェターリッチの『明日と明日』が、あまりによかったので、いま、amazon レビューを書いた。あしたくらいには反映されるだろう。 もう反映されてた。 http://www.amazon.co.jp/%E6%98%8E%E6%9%A5%E3%81%A8%E6%98%8E%E6%97%A5-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%ABSF-%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81/dp/4150120242/ref=cm_cr-mr-img… 二〇一五年十一月九日 「hyukoh」 疲れがたまっているのかもしれない。さっきまで起きれなかった。塾に行くまで、ペソアの『不安の書』を読もう。 hyukoh って、アーティストのアルバムを買おうと思って、Amazon ぐぐったら、再入荷の見込みが立たないために、現在扱っていないとのこと。ありゃ、ひさびさに本物のアーティストを見つけたと思ったのだけれど、まあ、こんなものか。欲しいものが手に入らないというのも、どこかすてき。 よい音楽を聴くと、思い出がつぎつぎと思い出されて、詩句になっていく。ぼくの初期の作品も、中期の先駆形も、さいきんの作品もみな、音楽がつくったようなものだ。きょう、チューブを聴きながら、20代のころの記憶がつぎつぎと甦ってきた。ただ、ぼくの記憶を甦らせた音楽は売ってなかったけれど。 詩はとても個人的なものが多いからかもしれないけれど、自分がよいなと思うものが、ほかのひとのよいと思うものと重なることがほとんどない。このあいだ大谷良太くんちで晩ご飯を食べたとき、半日いっしょにいて詩の話をいっぱいしたけれど、二人が同時に好きな詩はひとつもなかった。それでよいのだ。 hyukoh のアルバムは韓国でも生産中止らしい。よい曲がいっぱい入ってるのに、残念だ。憶えておこう。いつかアルバムが再発売されるかもしれないから。欲しい本はすべて手に入れたのだけれど、CDは、hyukoh のように、Amazon で探しても見つからないものがある。よいけれど。 これから塾に。そのまえにブックオフに寄ろうかな。 寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月十日 「BEENZINO」 カヴァーをはずして、ペソアの『不安の書』を、床に就きながら読んでいるのだが、メモをとるのに、表紙のうえでメモを寝ながらとっていたために、ペンをすべらせてしまい、表紙のうえに、インクのあとを5,6センチ走らせてしまった。さいわい、表紙が黒だったので、それほど目立たないが。死にたい。ヴォネガットの本に次いで、二度目だ。ぼくくらい本の状態に神経質なひとは、めったにいないだろうに。うかつだった。死にたい。ひたすら、死んでしまいたい。5000円以上した本なのに。まあ、値段の安いものなら、だいじょうぶってわけじゃないのだけれど。 そうか、睡眠薬の効きが関係しているのだろう。電気けして横になる。二度目のおやすみ、グッジョブ! 父の霊が出てきて、目がさめた。最悪。 大声で叫びながら目が覚めた。最悪。隣の住人がどう思っているか。最悪。 人間は事物と同様に外部に自己を所有する。内部と似ても似つかぬ外部を所有することもある。無関係ではないのだ。ただ似たものではない、似ても似つかぬということ。外部から見れば、内部が外部になる。外部とは似ても似つかぬ内部を外部が所有しているのだ。内部は外部を所有し、外部は内部を所有する。しかし、現実にはしばしば、内部は内部と無関係な外部を所有することがある。外部は外部と無関係な内部を所有することがある。所有された無関係な外部や内部が、その内部や外部に甚大な被害をもたらすことがある。ときとして、運命論者は、それを恩寵として捉える。人間も事物も、偶然の関数である。いや偶然が人間や事物の関数であるのか。人間と事物の定義域とはなんだろう。偶然の値域とはなんだろう。あるいは、偶然の定義域とはなんだろう。人間や事物の値域とはなんだろう。そこに時間と場所と出来事がどう関わっているのか。 それはそこに存在するものなのだが、見える者には見え、見えない者には見えないのだ。それはそこに存在するものではないのだが、見えない者には見えず、見える者には見えるのだ。 人間だからといって、魂があるものとは限らない。人間ではないからといって、魂がないものとは限らない。 ぼくというのは、ぼくではないものからできているぼくであって、ぼくであることによって、ぼくではないものであるぼくである。ぼくはつねにぼくであるぼくであると同時に、つねにぼくではないぼくだ。 現実に非現実を混ぜ込む。これは無意識のうちにしょっちゅうしていることだ。ましてや、しじゅう、詩や小説を読んだり、書いたりしているのだ。意識的に現実に非現実を混ぜ込んでいるのだ。日常的に、現実が非現実に侵食されているのだ。あるいは、逆か。日常的に、非現実が現実に侵食されているのか。 きのう、BEENZINO という韓国アーティストのアルバムが2500円ちょっとだったので、11月23日くらいに入荷すると Amazon に出てたので、買ったのだが、即効なくなってた。前日までなかったので、一日だけの発売だったのか。いま10000円を超えてて、まあ、なんちゅうごとざましょ。 hyukoh これから毎日、Amazon で検索すると思うけど、はやくアルバム出してほしいわ。 二〇一五年十一月十一日 「ぼくを踏む道。ぼくを読む本。」 ぼくを踏む道。ぼくを読む本。 ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていたのか。ぼくがいったい何を考えていたのか。ぼくがいったい何について学んだのか。 人間というものは、それぞれ違ったものに惑い、異なったものに確信をもつ。逆に考えてもよい。違うものがそれぞれ人間を惑わせ、異なるものがそれぞれ人間に確信をもたせる。人間というものが、それぞれ違った詩論を展開するのは、異なる詩論がそれぞれ人間というものを展開していくものだからである。 ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていなかったのか。ぼくがいったい何を考えていなかったのか。ぼくがいったい何について学ばなかったのか。 きょうは塾がないので、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。だいぶ退屈な感じになってきたが、まあ、さいごまで読もうか。600ページを超えるなか、今、160ページくらい。 二〇一五年十一月十二日 「言葉の生理学」 言葉の生理学というものを考えた。人間の感情に合わせて、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりするのではなく、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりすることによって、人間の感情が生成消滅したり、存続堆積するというもの。組み合わせも、並び替えも、新しく言葉を造り出すのも無数に際限なく行うことができるので、それに合わせて、人間の感情表現も情感描写も無数につくりだすことができるというわけである。年間、100万以上の物質が新たに合成されている。おそらく、人間の感情も、年間、100万以上、つくりだされているのだろう。携帯電話を持つことで、ひとを待つイライラの感情が、以前とはまったく違うものになった。すぐに電話やメールを返されない、返信がすぐに来ないというイライラは、携帯電話を持つ以前にはなかったイライラであろう。 ぼくを消化する、ぼくが食べたもの。ぼくを聞く音楽。 よくひとに見つめられるのだが、ぼくが見つめていると見つめられるので、こう言わなければならない。よくひとに見つめさせると。 毒だと知っているのだけど、きょう口に入れてしまった。興戸駅の自販機でチョコレートを買って食べてしまった。また、帰りにセブイレでタバコを買ってしまい、すぐに禁煙していたことを思い出して、タバコを返してお金にして返してもらった。ものすごい意志薄弱さ。強靭な意志薄弱と言ってよいだろう。 強靭な意志薄弱さか。これはキー・ワードかもしれない。ぼくの詩や詩論の。 soul II soul の5枚を繰り返しかけている。こんな曲展開しているのかとか、こんなメロディーだったのかとか、知らずに聴いていた自分がいたことに気がついた。じっくり聴くと、わからなかったことがわかることがあるのだ、ということである。詩や小説や映画なんかも、そうなんだろうな。 きのう、塾で椅子に腰かけたら、お尻が痛かったので、骨盤が直接あたるくらいに肉が落ちて、ダイエットが成功したのかと思っていたのだが、塾から帰って、ズボンとパンツを下してお尻を見たら、おできができてたのだった。おできの痛みであったのだ。痛いわ~。きょうも痛い。寝ても痛い。痛った~い。 ダイエット中だが、ドーナツが食べたいので、セブイレに買いに行く。でも、睡眠薬のんでからにしよう。ああ、歯磨きしちゃったけど。まあ、いいか。も1回、磨けば。クスリがきいて、ちょっとフラフラして、ドーナツ食べるの、おいしい。それで、頭とお尻の痛いのが忘れられるような気がする。 高橋都彦さんが訳されたペソアの『不安の書』を読んでいると、記述の矛盾が気になって、だんだん読むのが苦痛になってきた。全訳だからかもしれない。澤田直さんが訳された、平凡社から出てる『新編 不穏の書、断章』は、よいものだけピックアップしてあったので、たいへんおもしろかったのだが。でも、高い本だったので、もったいないので、さいごまで読むつもりだけど。貧乏なので、つい、そういう気持ちになってしまう。まあ、高い本なのに、買ってからまったく読んでないものもあれば、ナボコフの全短篇集のように、読むのを中断しているものもあるけれど。とりあえず、歯を磨いて、ペソアの『不安の書』



詩の日めくり 二〇一五年十一月一日─三十一日 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 7
P V 数 : 1436.7
お気に入り数: 0
投票数   : 1
ポイント数 : 5

作成日時 2021-05-02
コメント日時 2021-05-05
#現代詩 #縦書き
項目全期間(2024/11/21現在)投稿後10日間
叙情性22
前衛性00
可読性00
エンタメ00
技巧22
音韻00
構成11
総合ポイント55
 平均値  中央値 
叙情性22
前衛性00
可読性00
 エンタメ00
技巧22
音韻00
構成11
総合55
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2024/11/21 21時02分01秒現在
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詩の日めくり 二〇一五年十一月一日─三十一日 コメントセクション

コメント数(7)
エイクピア
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(2021-05-02)

11月12日で終わっていたので、とりあえずコメントします。最初の一日目で詩に対する矜持が感じられました。詩の擁護ともちょっと違う、汎詩論とも違うかもしれない。その後の詩の殺人事件も興味深かったです。アクロイド殺しに因んだネーミングとか。ペソアと言う名前の詩人が度々出て来て読んでみたくなるのです。あと、パウンドの詩も有名なのでアンソロジーに入って居る詩だと思いました。

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田中宏輔
田中宏輔
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(2021-05-02)

お読みくださり、ありがとうございます。コピペしたのは31日まででしたので、容量が超えていたのでしょう。6月に持ち込みたいと思います。

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湯煙
田中宏輔さんへ
(2021-05-03)

詩は形式であるといったことは他の誰かも言っていた記憶があります。形式そのものといったことかとおもうのですが。なにげないようですごい指摘のように思いました。その前に置かれた、詩には形式などない、もですが。禅の公案は臨済宗の庭前の拍樹子を思いましたが、おそらく違うでしょうね。 作品の最後の箇所が落丁かなにかのように切れているのがまた気になりました。

0
田中宏輔
田中宏輔
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(2021-05-04)

作品が長すぎて入りきらなかったのです。お読みくださり、ありがとうございました。

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くにと
くにと
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(2021-05-04)

良いです。

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くにと
くにと
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(2021-05-05)

現代詩フォーラムで拝読していますが、やはり、爆発ですね。ご馳走さまです。ゝ

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田中宏輔
田中宏輔
作品へ
(2021-05-05)

くにとさんへ お読みくださり、ありがとうございました。

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投稿作品数: 2