作品を読む
思い出すことと思い出さないこと。あるいは、語ることと語らないこと。
afterglow「クロソイド曲線」は、小林素顔の推薦文「人にやさしい曲線」(https://www.breview.org/keijiban/?id=6871)もあり、様々に読まれている作品である。これについて、あえて個人的に仕切り直して論じてみたくなったためにこの稿を執筆するに至った。 確かに、いい作品である。諸氏が好ましいコメントを付すのも十分に納得できる。評者の初読の感想としても、雪景と父に対する感情を受け取った。評者も雪降る所の育ち・暮らしであるし、父の存在を遠く感じるというもわかるので殊更である。なお、この感を評者ははじめに、「滋味深い」と表現して、作品に対するコメントを残している。 幼い頃に後部座席で感じる父の様子(小林氏も指摘しているが、これを「きく」という述語にすることによって、視覚ではないことが表現されている。これをいいと思うか悪いと思うかは読者によりけりだろう。評者は面白い表現ではあると思う。ただし、さらりと使われていることがいいのであって繰り返されていたら外連味を感じていただろう。)、ドライブインでの父親の普段見ない様子、そして降り積もる雪と道路。幼い頃の身体感覚と情景とがうまくシンプルに詩句として落とし込んでいる。 そして回想の後に行間を取ることで現実との距離が表現されて、読者にもきちんと伝わる仕組みも用意されている。作品の構成のねらいも成功しているのではなかろうか。 だがここまでの評であれば、わざわざこの批評を書く意味は無い。評者はこの詩を元に「詩の語り手」について、もっと言えば「詩の語り手の態度」ということについて、またじっくりと考えていきたいのである。 では、もう一つの感を、その結論を簡単に述べてしまえば、「もっとミニマルにできたのではないか」ということである。 評者が特に気になっているのは次の箇所、第二連目の前半である。 ›にぎわう峠のドライブインで いったい何を食べたのか 今はもう覚えていない その他の連は父や雪の道路を距離を取って眺めているのに対し、この箇所だけ、詩の語り手は自分の記憶について語っている。評者はここでふと詩の情景の世界から一旦脱してしまった感じを覚えてしまったのである。つまり、ここだけ浮いて見えてしまった。 その「浮き」の原因については、おそらく、この箇所だけ感じ取る対象との距離がゼロになるからだろうと考えた。父親の分からなさ、雪の白さ、そこに集中したかったという一読者としての願いもあるのだろう。なぜ自分事を振り返る必要があったのだろうか。作者の中には「内的必然性」があったのだろうけれども、(ドライな)一読者の評者は、「忘我を表現するならば、もっと父や雪だけを見つめ、感じていたという意味で、自分の食べたものの話を書かない方が有効だったのではないか」とも考えたのである。 また、「国境のトンネル」「ナトリウム灯」「55個のカーブ」という表現が無くてもいい(あるいはもっとシンプルにしてもいい)という意見も出てきている。この指摘も大変興味深い。この点について評者は、あくまでも「詩の語り手」は大人であるからそういう思い出し方をしたのだという解釈をしている。ともかく注意しなければならないのは、この詩編は「回想」で構成されているということである。(「それならば、何を食べたかということを回想することだっていいのではないか」と思われるだろうが、あくまでも思い出す対象の質という観点で批評しているということを承知していただきたい。)あの頃に見た心象風景を大人である語り手が大人の語彙力でもって回想して語り直したものと捉えれば、評者にとっては、違和感を覚えない。なんなら、大人の語り手が書いているからこそ、子どもの語彙ではない「クロソイド曲線」という題を冠しているとでもいえそうである。 だが一方で、そこから、回想ゆえの饒舌が生まれているかもしれないとも思う。子どもの頃の思い出は、大人の自分が選び取った語彙によって、また変化している可能性がある。読者の方で「わざわざ子どもが55個のカーブの数を数えたのか」などとその子どもの記憶(と記憶に関するリアリティ)についての細かい疑問を作ることができてしまうのもまた事実だろう。(付け加えれば、「実際に作者が幼い頃にそれを数えていたのかどうか」という議論は、読者にとってはあまり関係が無いと考える。大事なのは語り手のキャラクターをいかに打ち出すかの一点であろう。)そこで評者なら「本当に数えていたのだとしたらそれを思い出すことの意味は?」とまた新しい問いを浮かべてしまう。こういう調子でいくと、回想の饒舌、大人の饒舌を感じ取る読者が他にもいることを察することができる。読み方によっては、丁寧で詳しい修飾の言葉も「やぶへび」になってしまう。(さらに述べれば、詩の語り手の都合なのか、作者の都合なのかについては、よく考えなければならない。評者が考えているのは、主題とか内容というより、いかに演出するかという作者の「書き方」である。) この詩は、かくして「語り手」の構造に注目すると、文学的に有益な問いを孕んでいるものでもあると評価できる。簡単に述べてしまえば、「語り手は何に注目し、何を語るのか。」という問いである。評者が、この詩の二連目に関して思った感覚も結局この問いによるものである。語り手はなぜこの言葉でこれを語らなければならなかったのだろうか?もっと具体的にいえば、どうして父と雪道以外の、「自分事」をふと挿入する必要があったのだろうか?繰り返すが、たとえ「食べたものが何か忘れてしまった」ということが(詩の語り手ではなく)作者にとって重要なことであったとしても、「作品の表現としてはどうか」という問題とはまた別であることを考えたのである。そうして、語らぬことも表現であるとも考えた次第である。むしろ、語らぬ方が、父や雪の方に没頭する様子を描くことができて読者をその風景にしっかりと誘えた可能性があり、よかったのではないかと評者は考えたのであった。ゆえに、主題なるものを伝えるにあたり、もっと表現をそぎ落とせた、ミニマルにできたのではないかと感じた。(が、どのみち、作者が納得していればよいとも思っている。我々読者は出てきたものを拝受することしか本来できない。受け取ったあとは自由だが……。) 最後に断っておくけれども(このことも繰り返しになって恐縮であるが)、この詩に描かれた景色は美しいのである。車がカーブするときの遠心力を感じるときの身体性も想起され、そこには大きな共感性があるのも間違いない。父について思うことも何にも不思議ではない。この評はこのような実感を覚えた作者を否定するものでは全くない。作者が思い出したものについて、否定できる者は何人たりともいない。これらのことを誤解無きようお願いしたい。そもそも、評者は、詩の語り手=作者という認識は全くしていないし、書かれている情景と、その情景の描かれ方は別であると考えている。(本音を漏らしてしまうと、詩の語り手が詩人その人自身などという見方が適切な解釈・批評を遠ざけている気がしてならないとさえ思っている。) とかく、この評はあくまでも、「何をどのような言葉で語るか、あるいは語らないか。」という問いをこの作品にあてがっただけである。 (追伸) 内容の繰り返しが多かったり、括弧書きの脱線が多かったり、また乱文になってしまったことをお詫び申し上げます。 ざざっと書いたものなので文のねじれ・誤字脱字等あるかもしれませんが、ご了承ください。 ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。
思い出すことと思い出さないこと。あるいは、語ることと語らないこと。 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1173.8
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作成日時 2021-02-14
コメント日時 2021-02-14
コメントありがとうございます。 なるほど、「視点の移ろい」というのも面白いですね。僕も勉強になりました。 ただ、僕はその「視点の移ろい」でさえも「なぜ移動させるのか」と考えてしまう厄介な読み手です。(苦笑)ですので、なぜ視点を移ろわせないといけなかったのか、と考え始めております。 僕がこの評で「回想の饒舌」という表現を用いたのも、その回想のあり方、それも些細なあり方ひとつで、「別にそれがなくても詩が成立する」表現が生まれ得ることを指摘したかったからです。 飛躍感の演出だとしても、そのように読者に見えるかとか、そういった神経の使い方が詩書きには求められているのだなあと感じております。
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