作品を読む
恥ずかしいったらありゃしない
まったくやらかしちまったな……という感がある。私はこの作品にコメントを入れた。大抵いつもの長々しいやつだ。コメントを入れ終わってしばらく経ってから、この「やらかしちまった」はやってきた。誤読したかも。いや、誤読したにちがいない……。 もとより私は誤読というものはあるものだと考えている。だから普段はそれほど狼狽することはない。ところが今回は違った。これは誤読というか、「いや、それ以上だ」と言ってもいいくらいのもので、読んでいないに等しいくらいのミスだと思った。ということで、作品に対する自分のコメントを裏返す目的もかねて、改めて書いてみようと思う。 その前に、私がすでに書いたコメントを貼っておこう。というのも、他人のコメントには目を通さない人もいることを前提にしているからで、もしもう読んだよという方があれば、飛ばしてもらってもいい。では、はじめよう。 ● (以下コメント全文) こんにちは。ロウソクの長さが人の寿命を表していて、燃え尽きる時が人の死ぬ時という昔話を思い出しました。それでいうと燃えているロウソクはその人の命の表象なのでしょう。彼が人生を生きている時の。 個人的な話で、私はロウソクを「燃えながら溶ける」と喩えたことがあって、そこにはエロティックな含みをもたせていたのですが、それから考えるとこの作品のロウソクもそういうものととれなくもありません。しかし、そうではないというところに行き着きました。 ロウソクの炎は「燃える」ものですが、 >女の部屋で光っていたい とあるように、「燃えていたい」ではない。 >女の吐息の混じった空気を >黄色く青く白く燃やして と、ここでは「燃やす」のだけど、それは《空気を》であって、部屋の空気に変化を与えることです。その部屋の空気を《女》は吸って生活していて、時には溜めこんだ《吐息》も吐くのだけど、吸い込む空気は変化したそれになります。このことは直接的に《女》に対して働きかけるのでなく、間接的に、それと気づかれないよう、自然なこととして働きかけたいということを示しているように思います。単純には「《空気》を変えたい」ということになるでしょうか。 そうしながら、 >だんだん小さくなってゆき >最後は女の指で果てたい ということ。《燃やし》ながら、《小さくなって》、《果てる》、それが《僕》の願望であるとすれば、それをすること、そのために生きることが、《僕》が光るということになるのではないでしょうか。 >女の部屋で光っていたい が、なぜ「燃えていたい」ではなく、《光っていたい》なのか、その理由がここにあるように思います。雑に言うとすれば、《女》を動かす主人公としてではなく、《女》を主人公とした脇役的な位置に立つことに自分の人生を費やしたいということになるかもしれません。静かですが決して弱くはない、それこそ蝋燭の炎に似た愛情を感じます。 それは自己犠牲からくる愛情かと言うとそうではない。なぜなら、《女》は指に火傷の跡を残すかもしれないのだから。 そのようなあり方ができたら素晴らしいのかもしれないけど、そうはなかなかできないのが自我をもって生きている人間の哀しい性であって、でも、だからこそ願うことの美しさがあるのかもしれません。 最後に、《女》視点に立てば、火傷を顧みず消すことに隠された思いはどんなものなのか、想像したくなりました。 (ここまで) ● さて、作品テキストを私は以上のように読んだ。しかし、どうもおかしいのだ。何がというと、「《女》を動かす主人公としてではなく、《女》を主人公とした脇役的な位置に立つことに自分の人生を費やしたいということになるかもしれません。静かですが決して弱くはない、それこそ蝋燭の炎に似た愛情を感じます。」と私は書き、「願うことの美しさがあるのかもしれません。」とも書いた。だが、それは《僕》がどうありたいかという願望や《僕》の愛情についての話である。しかし、作品タイトルは『女』なのだ。なんとまあ、私が書いたコメントは作品タイトルと大きくズレている!『女』をまったく浮き彫りにすることができていない。おお、恥ずかしいったらありゃしない。というわけで、なんとも言い訳がましい前置きをつらつらと垂れ流してきたが、再度チャレンジといこう。 私はこの作品をエロティックなものではないと書いたが、いや、めっちゃエロいやん、エロいレベルかなり高いやん!と思い直した。いや、むしろ「エロい」などという言葉の範疇を超えているのではないか。そんなキレイなものではないようにさえ思う。 >女の部屋で光っていたい これは文字通り《僕》が《ローソク》だった場合の願望だ。《ローソク》は光らないが、《女の部屋》にいることで《僕》が《光っていたい》、つまり、《女の部屋》にいることは《僕》が光る、ということではないだろうか。《僕》にとって《女の部屋》にいるということは恐らくそういうことなのだ。これは《僕》にとって《女》という存在がどこか崇高なものとしてイメージされているような印象も与える。そして、 >女の吐息の混じった空気を >黄色く青く白く燃やして は、空気を介した交合の欲求。《女の吐息》は空気に入り混ざり込む。《僕/ローソク》は燃えることで空気に溶け込む。《黄色く青く白く燃やして》などめくるめく交合であるかのようだ。それを《僕》は望むのだ。ここでは《吐息》とでさえ交わりたい対象になっている。そうして、 >だんだん小さくなってゆき >最後は女の指で果てたい これはエロスとタナトス。「死」への欲求と読める。蝋燭は燃えながら溶ける。自ら消耗しながら交わり合い、《僕》は絶えることを厭わないどころか、《女》の手によって果てることを望む。それほどに《女》は、《僕》にとっては精神的に大きい存在なのだ。 そして最後には火は消されてしまう。これは私の想像だが、《僕》の願望がどうであれ、また《女》が《僕》にとってどんなにアツく見つめる対象であったにせよ、そんなことはお構いなしに《女》は火を指で消したのではないだろうか。火傷なども負わないかもしれない。というのも、《女》は《女》であると同時に、《僕》によって夢見られた非現実的存在であるからだ。そして、それでもなお《ローソク》である《僕》は満足に違いない。 まあ、しかし、これは仮定法であって現実の《僕》は《ローソク》ではないので、そうはいかないのだが、時としてそのような強い欲求を駆り立てる不思議な魅力を女性はもっているもので、この作品はそうした『女』の複層性を短いなかで臨場感をもって作られていると思う。ついでに言うと、そのような魅力を発する『女』の前では男は単なる直線的なローソクになってしまわないとも限らないので用心したいものだ。
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作品データ
P V 数 : 1363.9
お気に入り数: 0
投票数 : 1
作成日時 2021-01-26
コメント日時 2021-01-28
読んでくださってありがとうございます。選評文として書いたものの、これはコメントの続きみたいなつもりでした。こちらの本文にも書きましたが、自分が書いたコメントと作品タイトルにズレがあるように感じたからでした。最初のコメントが作品に沿っていたとしたら、恐らくタイトルは『女』ではなく、『女へ』とか『女に』となったのではないかと思ったのがまず一つ。 それから作品の最終行でだけ《女》に動きがあったのが一つ。これらからやはり『女』を書いたのだろうと思いました。それは例えば男性画家が女性の肖像画を描いたとしても、彼から見た(彼にとっての)女性として描きだされることがあるように、《僕》が作中での語りの中心になっていても《僕》から見た(僕にとっての)《女》が書かれたのだと思い当たったのです。それで、ああ、これは書き直したいな、と。 これが批評と呼べるものかどうかはわかりませんが、仮に批評的な散文であったとしても、作品ありきで、汲み取れたもの、読みながら自分のなかで構成されたものを、言語化できたところで、作品を作り上げている言葉(もしくは言葉によって作り上げられた作品空間)を語り尽くすことはできず、必ず取り零してしまうものと知りつつも、やはり残せるものは残しておきたい。というのも、こういう読みができるのも今だけかもしれないので。 最後に二つほど、この拙文を書いている中でボードレールの作品に、タイトルは忘れましたが、「巨大女」を書いたものがあったことを思い出したこと、また「性衝動」というものが肉体的のみならず精神的なものと関わっている意味において人間の生にとって他の欲求よりも最も本質的な欲求であるという説を思い出していたことを書き加えておきたく思います。 コメント一つ一つ頷きながら拝読しました。書いてよかったです。ありがとうございます。
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